用明天皇陵へ | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

推古天皇陵からは まず そのすぐソバの二子塚(フタゴヅカ)へ。

周辺の土は長い年月の間にところどころ失われ正確な形状は不明ですが、それでも 二基の方墳が並んだ「双方墳」である事はわかります。このスタイルは 古墳時代終末期に一般化する「合葬」という風習が生んだ~と考えられているそうです。 (そういえばこれまで見てきた 聖徳太子廟 敏達天皇陵 推古天皇陵 いずれも合葬墳でしたねー)

↓二つの墳丘の間に立っていた「史跡」と記された石柱。(1956年に指定 / 石柱に彫られた「昭和三十二年(1957)」は石柱が立てられた年かな?)

尚、今年の10月 更に「史跡範囲の追加指定」がなされています。/ 近づいてみると現在も「発掘調査中~」な感じでした。


(北側の墳丘の傾斜地の 結構広い面積が防水シートで覆われていました)

説明板


ここからは北の小山へ上がっていきました。

焼杉板の塀や壁が続く道。落ち着いた雰囲気が いいですね。

掲示板横に 小さなプレートが貼られていました。

「太子町防犯灯 Y-389」_防犯灯の識別ナンバーかー。(太子町のマークと ご当地キャラ「たいしくん」もプリントされてる~^^)

尚 坂を上ります。

上り坂、選択。

ぽん、と 尾根道のようなルートに出ました。

右手に見えたお寺の方へ行ってみます。

(↑何となく鐘楼門のように見えたけど↓その隣に鐘撞堂があったー)

東に門。

「寶樹山」かな?

寺号は「林光寺」、真宗大谷派のお寺だそうです。

↑という事は奥に立つお像は親鸞聖人かな?/ 境内の散りかけた名残りの紅葉、美しかった。
↓退出します。

ここは古い街道なのでしょうね、門前の重厚な造りのお屋敷が 栄えた時代を偲ばせます。


さて引き返しましょう。


道なりに行くと 蘇我倉山田石川麻呂の墓がありました。/ 石川麻呂は 蘇我氏でありながら(入鹿の従兄) 中大兄皇子に与した人物。中大兄(後の天智天皇)や孝徳天皇に娘を嫁がせ 一時は「主流派」に属していましたが後に謀反の疑いをかけられ山田寺で妻子とともに自害しています。が_ 中大兄に嫁がせた姪娘(メイノイラツメ)は元明天皇を生んでいますから 皇室にその血を伝えている、んですね?

仏陀寺の門の脇にそれを知らせる石柱が立っていました。

左の石柱には「蘇我倉山田
石川麿之墳_」/ 右の石柱には「祖師御舊跡」。ここは親鸞聖人が訪ねたと伝わるお寺なんですって。

古墳は境内地にあったのかなー?/ むきだしの石棺(正確には「石棺式石室」とか「横口式石槨」とかいうらしい)が見られる そうなのだけどー・・・。


(↑山号は「盛光山」)
結局_お訪ねしにくい雰囲気で 境内にはお邪魔しておりません。
↓西に向かいながら眺めた 塀の上に見えた鐘。

↓振り返って見たところ。

ゆるゆる坂を下りていきますー。


↓帰ってからグーグルマップを見たところ、

古墳があるのはお寺の駐車スペースの南の生垣の向こう だったもようー。

(話戻って)
道なりに進んだ先のT字路は右へ。

それから 左、左、右~ (中略)

美原太子線(府道32号線)に出て 西へ少し行くと、 下に北へ上がる道が現れました。

階段を使って下の道に下り~

道なりに進むと_


左手に用明天皇陵が現れました。(用明天皇は即位後すぐ亡くなられてるので、 敏達天皇の弟 推古天皇の兄 聖徳太子の父 みたいな紹介がなされる事の多い帝かもー)

方墳ですね。

南側に拝所がありました。




↑「用明天皇 河内磯長原陵(コウチノシナガノハラノミササギ)」/ ここは合葬墓ではないようです。


この後は 車を置いた叡福寺の横の「太子和みの広場」へ戻りました。


↓後で地図を見てわかりましたが、

用明天皇の古墳と 息子の聖徳太子の墓:叡福寺北古墳 ってこんなに近かったんですねー。(直線距離だと500m程)

さて、お墓参り(???)は まだ続きます。
次は小野妹子の墓へ行ってみますよ?