(↑正面奥が本堂。左手・金堂。右手奥・講堂。右手前の千佛院は浄土宗の塔頭)
お寺の御由緒等は前の項に書いたのですが、もう一度・・・_
こちらは 681年に 用明天皇の曾孫:當麻国見が、祖父が河内国に開いたお寺をこの地に移したのが始まり~ と伝わる古寺。(ただし学術的には 寺院建立は白鳳期末から天平初期にかけてではないか、といわれている_ と頂いたリーフレットに載っていました) / 開山時の導師は百済(高句麗とも)の恵灌(エカン/慧灌とも)。
本堂には 藤原南家に生まれながら尼となった中将姫が蓮の糸で織った曼荼羅(の三代目)があり 信仰の対象となっています。
中将姫の極楽往生を再現する春の法会「御練」で有名。
又 真言宗と浄土宗という二派が本堂を共同で管理し 境内にも二派の塔頭が混在する~ という珍しいお寺でもあります。
まずは正面の本堂 (別名「曼荼羅堂」-国宝)へ。
(ここに、 本堂+金堂+講堂 の拝観受付があるのです)
堂内では 本尊である「當麻曼荼羅」を拝見。これは奈良時代に中将法女(中将姫)が蓮の糸で織ったものの 室町時代の複製。年号をとり「文亀曼荼羅」と呼ばれているそうです。(重文)
尚_
公開されていませんが なんと「根本曼荼羅」と呼ばれるオリジナルが「損傷甚大ながら存在」し、1961年に国宝に指定された~ との事です。
続いて見学した_
金堂。(重文)
実はこちらにいらっしゃる弥勒様(国宝・塑造弥勒仏坐像)が 元々の當麻寺の御本尊仏なのだそう。守護の四天王も 三体までは白鳳時代のもので オリジナルと考えられる~そうです。多聞天のみは鎌倉時代のものでしたが、これはこれで素晴らしく(特に足の下の邪鬼のポーズ)見応えありました。
次に、金堂と向き合う形で建つ 講堂へ。(重文)
こちらには 沢山の仏様がいらっしゃいましたが 1181年の南都焼き討ちの混乱で 焼け残ったお堂の仏像が集められた~ とかで ガイドさんによると「元のお堂がわからない仏様がほとんどなんですよ」だそうでした。
(南都焼き討ちで 距離的には離れていた當麻寺が被害を受けた理由は ここが「興福寺派だったから」のよう・・・)
金堂の南側へ行ってみると (堂内の音声案内に促されてー) 古い石灯籠がありました。
(奥の塀は真言宗の塔頭、中之坊さんのもの
)
重要文化財。
日本最古のもの、ですって。
境内の南には 東西 二つの三重塔がありました。(因みに両方 国宝)
(↑浄土宗の塔頭・護念院越しに 西塔を見てます)
塔の建つ場所は立ち入り禁止になっていて近づけませんでしたので 遠くから眺めるだけでしたが、
この日は修理か何かで職人さんが西塔に上がっておられー (違う意味で)面白い写真が撮れました。
西塔の北西には西南院(セイナイン)という真言宗の塔頭がありました。
本当は境内の西奥の奥院(浄土宗)へも行ってみたかったのですが 時間切れ・・・。
最後に池の中に立つ中将姫の像に手を合わせて_
おいとましました。(↑絵的にはここに蓮の花がほしかったなー。 向かいの池には蓮が咲いてたのになー・・・↓)
続いては 桜井市は箸中で 三輪そうめんを食べた話を~。
<超ヨダン>
「南都~」という言葉_ ヨソから来た私には耳慣れない単語で NHKのニュースで「なんと東大寺大仏殿で~」なんてアナウンサーが言ってるのを聞いて 「ずいぶん感情的な原稿を書くねえ」なんて トンチンカンな感想を持っておりました・・・
重要文化財。
日本最古のもの、ですって。
境内の南には 東西 二つの三重塔がありました。(因みに両方 国宝)
(↑浄土宗の塔頭・護念院越しに 西塔を見てます)
塔の建つ場所は立ち入り禁止になっていて近づけませんでしたので 遠くから眺めるだけでしたが、
この日は修理か何かで職人さんが西塔に上がっておられー (違う意味で)面白い写真が撮れました。
西塔の北西には西南院(セイナイン)という真言宗の塔頭がありました。
本当は境内の西奥の奥院(浄土宗)へも行ってみたかったのですが 時間切れ・・・。
最後に池の中に立つ中将姫の像に手を合わせて_
おいとましました。(↑絵的にはここに蓮の花がほしかったなー。 向かいの池には蓮が咲いてたのになー・・・↓)
続いては 桜井市は箸中で 三輪そうめんを食べた話を~。
<超ヨダン>
「南都~」という言葉_ ヨソから来た私には耳慣れない単語で NHKのニュースで「なんと東大寺大仏殿で~」なんてアナウンサーが言ってるのを聞いて 「ずいぶん感情的な原稿を書くねえ」なんて トンチンカンな感想を持っておりました・・・