不退寺(業平寺) | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

ウワナベ+コナベの縁を歩いた後は 不退寺(フタイジ)へ向かいました。

まず国道24号線とJR奈良線を東へ越えます。

のどかな春の畑を眺めながらー

(↑奥はウワナベ古墳)
南へ歩くとー、東に現れた池の向こうに 目指すお寺が見えました。

(と言っても 申し訳なくも不退寺って全然知らなかったんです。道脇に案内表示が出てて 地図を見たら近いし 駅へ出る道すがらだし~ と思って寄ったんですよー そしたら・・・ 素敵なお寺だったんですー)

池の南の田には 耕運機が置かれてました。田起しが始まるんですねー。


道なりに行くと、門がありました。

ああ、正式な寺名は「金龍山 不退転法輪寺」というんですね?

由来が書かれている。

「仁明(ニンミョウ)天皇(在位833-850)の御勅願により、承和12年(845年)に在原業平(アリワラノナリヒラ)朝臣が建立したお寺。 当時は南都十五大寺に数えられた古刹であった。」
(ここは業平のおじい様にあたる平城(ヘイゼイ)天皇が、譲位後に住んだ「萱の御所」があった場所。仁明天皇の詔を奉じた業平は ここを 父:阿保親王(平城天皇の第一皇子)の菩提所とし 自ら観音像を彫って祀ったと言います。 寺号は「法輪を転じて退かず」という発願から「不退転法輪」に。略して「不退寺」と称したのだそう。/又 今は業平に縁の寺として「業平寺」とも。)

門を潜るとそこは_
別世界でした。

あ、サギ!

がーん レンギョウにピントが合ってしまってる^^;)

見所やルートを受付の方に教わって 拝観スタート。

まずは 石棺を見よとの事なんですがー・・・

あ、あれ だねー?

これはウワナベ古墳南側にあった平塚古墳(現在は24号線)から発掘されたもの。石棺は砂岩の一種でできており
縁には鎌の「砥石」として使われたと思しき「痕跡」が残っている、そうなー^^;)


続いては本堂の方へ。


本堂 / 鎌倉時代のもの。(重文)

堂内中央には業平が自ら彫ったと伝わる 本尊の聖観音菩薩様がお立ちだったのですが これが ・・・
彩色ははげているものの大変美しいお像で 感動しました。お顔の両側の大きなリボン(?)のせいか まるで「乙女」のように見えるんですよー。 
(申し訳ないけど 業平が自ら彫ったという仏像とは別物なのでは? と思いました^^; 又 年代的にも合わないらしい・・・ (平安初期の業平、平安中期の特徴を持つ仏像ー)/ とそれはおいておいて_ 帰って調べてみたら面白い話が拾えました。不退寺の観音様は 元々は脇侍だった、というのです。対になる仏像は「文化庁保管の木造聖観音菩薩立像(元は瑞景寺に安置されていたもので セゾン現代美術館旧蔵、 平成21年度文化庁買い入れ後 奈良国立博物館に寄託された重要文化財)。」というもの。(中尊の如来は失われてしまったのでしょうかね?)// 平成23年の調査で明らかになったんだとか。 色々あれこれ へ~っ)

境内を東へ進むと_

多宝塔がありました。上部が欠損していて 案内板がなければ多宝塔とはわからないものですが_ 鎌倉時代のもので 不退寺では一番古い建造物だそうです。


歌碑があった。


「於ほ可たは津きをもめて 
 新古礼曽こ能徒裳れ 
 は人のお伊登奈る毛乃」 

=大方は月をも愛でじ これぞこの 積もれば人の老いとなるもの
__『伊勢物語』第八十八段より
ですって。

その先にも歌碑。

「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれないに 水くくるとは」百人一首の業平の歌ですね。

奥の石には「佐保山は 終の棲み家よ つく法師」と刻まれていました。歌の最後に二文字名前も彫られていたのですが 読めませんでしたー。

(どなたの歌か、ご存じの方 教えて下さい)

門へ向かいましょう。

桜の花びらの浮かぶ池から 菖蒲がまだ若く優しい色の葉を伸ばしてました。/ 次の季節には菖蒲が主役になるのでしょうね?

ありがとうございました。

最後に門の 大きな「蟇股(カエルマタ)」を見上げて_

退出いたしました。


一条通に出る手前の踏切から もいちど振り返って見た 不退寺。(写真ではよくわかりませんけど 道の奥がお寺です。)

改めて不退寺の「別世界感」が感じられましたよー!



_ それにしてもー
駅から距離があって ついお訪ねを「先延ばし」にしていたこのエリアのお寺、(法華寺+海龍王寺+不退寺) どこも素晴らしいじゃありませんか! もっと早くお訪ねするのだったなあ~