久々知(ククチ)須佐男(スサノオ)神社 | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

近松記念館の前の道を西へ行くと_

↑酔いそうな位 いい匂いがー。
近松門左衛門の墓所がある (そして執筆のための仕事部屋があった)日蓮宗広済寺の境内の梅です。

広済寺は江戸時代までは 久々知須佐男神社の前身である 妙見宮の「神宮寺」だったそうです。/ それで近松公園の角の「有馬道」の説明文に 「久々知妙見宮(広済寺)」とあったんですね?

近松門左衛門の墓所は 国の「史跡」になっているようですが 他宗のお寺ってちょっと私にはハードルが高くて(???) 伺えませんでした。(すみません)

↓広済寺のHP。
https://www.kosaiji.org/index.htm
(↑お寺や地域の歴史 妙見信仰 近松門左衛門についてなど 非常に詳しく書いて下さってます。又 写真資料も沢山。)

少し行くと久々知須佐男神社の鳥居がありました。

鳥居の先に 広済寺の通用門(かな?)があり

お堂西面が見えました。 

参道を行くと_

左手に神輿倉(多分)。


正面に拝殿。


狛犬の脇に 説明板がありました。

前身は多田源氏の祖:源満仲(ミツナカ)の勧請によって957年に建立された妙見宮。 妙見菩薩(仏教の菩薩信仰と道教の北極星信仰が合わさった信仰)の他 牛頭天王 諏訪明神、 末社として 愛宕社 八幡宮 などが祀られていたそうです。が、明治の神仏分離政策(しかも神道が優遇された・・・)により 牛頭天王をスサノオとして祀るようになり 社名も「須佐男神社」に改めた んですね? (そして妙見さんを祀るのは広済寺に任せた、?)
尚、社名に冠されている地名の久々知は この辺りに居住していた「久々智(ククチ)氏」という古代の氏族名に由来するそうですー。

↓江戸時代の「久々知妙見祠(ミョウケンノヤシロ)(祠はホコラだと思うのですが版画のルビがヤシロなのでそのまま打ちました)」。

↑この版画にも描かれている「矢文石」は今も境内に~。↓


↑多田源氏の祖:源満仲が摂津の国守として赴任して来た時_ 住吉大神の信託に依り この石の上から矢を放つと 矢は遥か彼方の地の 頭が九つもある大蛇に刺さった。 大蛇の首を切ると その血の跡が 多くの田 のようになっていたので そこを「多田」と名付けた。又死んだ大蛇は「九頭明神」として祀った~。のだとか。

時に_ ここに「鯉の絵馬」があると聞いて伺ったのですが~~~

http://www.ama-jinja.org/26-kukuchi.html
残念、修理中で 小壁の絵馬のほとんどが外されていました。。。

なぜ「鯉の絵馬」に興味があったか、というと_
「鯉塚」のある豊中の椋橋総社に  鯉はスサノオミノコトの乗り物だった  という伝承があるから、なんです。

絵馬に描かれる馬は「天つ神の乗り物」。 もしかしてこちらの「鯉の絵馬」はスサノオノミコトの乗り物として描かれたのかしら~? なんて思って・・・。(でも元が妙見宮だったなら スサノオ~ は関係なさそうですね^^;)

 _ 鯉の絵馬は見られなかったのですが
かわりに(?) 5年い組 火薬委員の久々知兵助について知る事ができました^^;)

(忍たまは子供とよく観てたつもりだけど 知らなかったな久々知君は)))

裏へ回ってみます。

拝殿の北に神殿がありましたが 神殿部分、大きいなー。

(矢文石の由来書の隣にあった 神社の由緒書によると 昭和65年に「369年前に建てられたものであり 長年の風雨に~(中略) 新たに復元せしものなり」とありましたから 元から立派な神殿だったのでしょう。)

沢山の伝承に彩られたお参り処でしたー。

(↑近松公園側にも出入り口がありました)
ありがとうございました。/ おしまい。