大津京跡を歩く | (又)おだわらぐらし はじめました

(又)おだわらぐらし はじめました

 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

15日は 亭主と滋賀の近江大津京(オウミ オオツノミヤ 天智天皇の第6年(667年)~天武天皇元年(672年))の跡を歩いてみました。 

まずは電車で「JR大津京(オオツキョウ)」へ。

駅構内に こんなコーナーが作られていました。


航空写真。

現在の街並みの中に 大津京(オオツノミヤ)の「復元模型」を重ねたジオラマ。

やはり かつての都「大津京」が、ここの一番の見所、なんですね?

あ、「かるたの聖地」という タイトル(?)も持ってるんだ。

(大津は映画「ちはやふる」のロケ地なんだねー。百人一首の最初の歌が天智天皇の「♪秋の田の~」だしー)

おーっと、ボートレース場 も外せない???

(↑駅から下へ下りる階段の途中)

しかしー
実際に大津京跡を自分の目で確かめるための散策を始めようと思ったら・・・


史跡が書き込まれた地図は見当たりません。。。
駅で貰った 観光スポット編という周辺イラストMAPにも大津京跡地は載ってない。

結局グーグルMAPだけを頼りに散策開始~

(↑京阪の線路の下を潜っております)

県道47号線に出ました。

(↑南を向いてます)
(↓北へ歩いてます)

この道をどんどん行けば「錦織(ニシコオリ)遺跡」が見えてくるはず~。


お、ここは?

どうやら今「第八地点」って所にいるらしいー

↑ここはまだ未発掘なんだね・・・。/ 内裏南門跡が発見されたという「第一地点」へ向かいましょう。

って 「第一地点」は 「第八地点」のすぐ裏なのでしたー。(見つかった順に番号ふったのかなー?)

ほ、お~う。ここが 内裏南門があった場所ー。


(↑地名のフリガナが「にしこり」になってますが、ネットで調べたところ 地名としては「にしこり」が正しいようなので このブログでは「にしこり」で統一しますね。)

なるほど、昭和49年と53年の発掘調査によって この錦織二丁目が大津京の内裏南門があった部分、とわかった、んですねー?

↓復元図。

↑青で囲まれた場所が 発掘できた箇所。/ 周りは住宅地なので 勝手な発掘調査はできないんですねー。/しかし 現在の県道47号線が かつての都の大通りをそのまま走ってる事に驚かされます。(復元図の真ん中の点線_「宮中軸線」が今の県道にバッチリ重なるんですよ) 都は奈良に戻っても 一度ついた道は生き続けたんだ・・・。

道に面した一角に、石碑が立っていました。

↓右の石碑は読めませんでしたが~(「志賀宮址」と記された明治時代の物。当時はまだ発掘は進んでおらず 漠然とした「宮跡」として立てられたのでしょう。)

↓左の 柿本人麻呂(カキノモトノヒトマロ)の歌碑については説明板がありました。

刻まれていたのは万葉集の1-29、
♪玉だすき~畝傍の山の~ で始まる「近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本人朝臣麻呂の作る歌」(←通称「近江荒都歌」) だったのです。

人麻呂が 「(前略)♪大宮は ここと聞けども、 大殿は ここと言へども、 春草の 茂く生ひたる、 かすみたつ 春日(ハルヒ)の霧(キ)れる、 ももしきの 大宮処、 見れば悲しも」と歌った大津京跡は 今は ↑ こ~んな街の中になっています。


↓「第一地点」のすぐ脇に 錦織の地名の由来を記した石柱が立っていました。


「錦織(にしこおり) / 古代よりある地名で、古くはこのあたり一帯が錦部(ニシコリ)郷と呼ばれていました。錦部郷の地名は、機織(ハタオリ)関係の職務に携わっていた朝鮮半島からの渡来人である錦部(ニシコリ)氏が、奈良時代以前より、当地一帯を居住地としていたことに由来します。」 ですってー。

更に北へ進むとー

「第二地点」がありました。

ここに 天智天皇が政を行った内裏正殿があった、のかー。


↓正殿建屋は 県道47号線を挟んで 向こうの「第7地点」「第9地点」まで繋がっていたらしい・・・。


↓「第7地点」。


↑まだ発掘は行われていない、との事。
↓第7地点の北の「第9地点」。こちらも発掘はこれからのよう。



遺跡のほとんどが住宅地の「下」なので 都の全貌が明らかになるのはいつの日かー。

道を尚北へ上がります。

正面は「近江神宮」の森です。

昭和に入って建てられた 天智天皇を祀る神社、近江神宮へは この後行ってみましたよ。


__と その前に、大津錦織郵便局の手前を東へ~

行くと 京阪の線路に出ました。丁度「響け ユーフォニアム」のラッピングカーが走っていきましたよ。




脱線しましたがー
↓線路付近のこの場所は


「内裏の北端」で建物跡 堀跡等が見つかっているそうです。


その先に 垣で囲われた場所がありました。ここは?

案内板が立っている。

「大津京 シンボル緑地」だって^^;)

緑地のぐるりには 近江にゆかりある人々の歌を刻んだ石が置かれていました。


額田王(ヌカタノオオキミ)

天智天皇

柿本人麻呂

藤原鎌足(フジワラノカマタリ)

↑内大臣藤原卿の采女安見児(ウネメ ヤスミコ)を娶(マ)きし時に作れる歌
♪われはもや やすみこ得たり、皆人の 得がてにすとふ、 やすみこ得たり
(この歌は知りませんでしたが おおらかで可愛らしいですね^^;)

さて、では 神社に~。

つづく