大神神社(オオミワジンジャ)から摂社:狭井神社(サイジンジャ)へ行こうとしております。
渡り廊下の下を潜って
山の麓の道へでます。
すぐ右手に摂社:活日(イクヒ)神社がありました。
第十代:崇神(スジン)天皇の時代の掌酒(サカヒト)高橋活日(タカハシノイクヒ)が祀られています。
活日は杜氏の始祖。 日本書紀にも載る活日が作った歌(崇神天皇に 醸した酒を捧げながら)
「このみきは わがみきならず やまとなす おほものぬしの かみしみき いくひさ いくひさ」は 神楽「うま酒みわの舞」でも謡い舞われるそうです。(へー)
更に行くと_
(↑左から合流する道は祈祷殿に通じています。脇には薬草や薬になる木々が植えられており「薬道(クスリミチ)」の名をもっています。)
案内板があった。目指しているのは狭井神社ですが 久延彦(クエビコ)神社 という神社もあるんですね、行ってみたいな。(クエビコは「案山子」です。『古事記』には大国主が、新しく来たあの小さな神(=少彦名)は何者か?とクエビコに尋ねる箇所があります。「物知り」さんなんですね。が、そうか三輪では神様になってるんだー!)
右手に鳥居がありました。ここは?
摂社:磐座(イワクラ)神社、だそうです。
社殿を持たない 古い時代の祈りの形を今に伝える神社。
祭神は医薬の神:少彦名。こちらでは神農さん(シンノウ=牛の頭を持つ中国の医薬の神様。守備範囲が同じなので同一神視されたのでしょうか) とも呼ばれているそうです。 (神話では 少彦名は大国主のパートナーですが 国造りが終わらない内に大国主を残して常世の国へ去っています。きっかけは 伝承によると 大国主が少彦名に向かって心無い言葉(「お前は小さな神だ」云々)を発したので 少彦名が機嫌を損ねて~ という事になっている。 その少彦名をここに祀る・・・ ふむー)
又行くと_
久延彦神社への分かれ道に出ました。
久延彦神社の方へ行ってみます。
ん、久延彦神社への近道とな?
行ってみましょう。って どっちに進めばいいのー?
え この先は展望台・・・。あのー久延彦神社に行きたいんですがー
とりあえず石段を上がりましょう。よい景色が見られるかもしれない。
ぽん と開けた場所に出ましたー。おー正面に耳成山(ミミナシヤマ)が見える。
どこから見ても円錐形の耳成山は奈良盆地ではよいランドマークです。
(↑画面中央は大神神社の一の鳥居)
耳成山の左は畝傍山ですね。
するとその左が天香久山(アマノカグヤマ)?
(↑右側のピークね)
ああ、ここは古代日本の中心地なんだねー!
しかし久延彦神社はいったいどこ?
(↑一度展望台を東へ下りてしまった。目指す神社は展望台の西側だったのだがー・・・)
あ、こっちでよさそう。(と思いましたが 実はこれも本当の参道ではありませんでした^^;)
フェンスの内側は「笹百合園」。
え、なになに、率川神社(イサガワジンジャ)の百合祭りの笹百合はここで育てられているのー?(そういえば率川神社は三輪氏によって建てられた 大神神社の境外摂社でしたね) でフェンスは猪よけ? / あ、今 「ぶひぶひぶひーっ」って鳴き声が聞こえた。近くに猪がいるかもーっ (しばらくカメラ構えて待ってましたが 猪現れず・・・)
やっとたどり着きましたー久延彦神社。(本当は展望台からすぐそこだったのに)
大国主の神様に 少彦名の事を教えてあげられる程の物知り:久延彦は ここでは知恵の神。
末社ながら神職さんがおられ お参りの方々も真剣です。(きっと合格祈願、ね) とても近寄って写真など撮れません・・・。
絵馬はダルマ? と見えてフクロウでした。(♪がくもんのかみーふくろー /懐かしいCMソングが脳内で流れます // しかしフクロウが知恵の神様のおつかい というのはギリシャ神話なのでは?ここは案山子の絵にしてほしいー ってまいっか)
さて、来た道を戻るのはつまらない。さっきの分かれ道に案内のあった「大美和の杜」を訪ねてみましょう。(杜_モリをヤシロと読み間違えましてね・・・ 神社があるのかと勘違いしまして)
あれー?何もないなあー
この先かな?
やっぱり何も無い。ただ笹百合園があるばかり・・・。
近くにあった地図にも載ってない^^;)
やっと「杜」と「社」を読み違えたのだと思い至りましたー。
ははは という訳でここが(というかこのあたり一帯が、かな)
「大美和の杜(モリ)」でございますね。
では 狭井神社へ向かいましょう。
<よだん>
『古事記』には 大国主に「(新しく来た小さな神の事は)久延彦に尋ねてごらんなさい」と教えてあげた 多邇具久(タニグク)という神様が出てきます。多邇具久はヒキガエルの事。(谷で ぐく ぐく 鳴いているから という説も) / 久延彦神社でマスコットとして タニグクの根付とか売ったらどうかなー(是非リアルなゴム製で)なんて思った事です。