観心寺(カンシンジ) | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

水間寺(ミズマデラ)に続いては 観心寺を訪ねております_ (随分間があいちゃった)

駐車場に車を置き、ご門へ行ってみるとー

ここは非公開エリアでしたー (因みに奥の建屋は現本坊で、元支院:槙本院 だそうです)

塀づたいに進むとー

広い 広場・駐車場 の奥に立派な山門が現れました。

向かって左手に「大楠公(ダイナンコウ)」の像が。ああ、ここは楠正成(クスノキマサシゲ)ゆかりのお寺なんですね?(と 何の事前学習もなくやって来た私達は この時点でそうと知るのでしたー)

門の手前の石柱には「勅願道場・南朝史跡 観心寺」と彫られています。

門に張られた幕の紋は「菊水」_楠正成が後醍醐天皇から頂いた紋ですね?(天皇は菊の紋を使う事を許されたが 正成がそれはあまりにもったいない と菊水紋にした、 とも伝わっています)


受付で拝観料を納めます。

(ここは「関西花の寺 第二十五番」でもあるんですねー。梅が有名だそうですが 今は椿が見ごろのようでした)

頂いたリーフレットによると、 このお寺は701年に役行者(エンノギョウジャ)が開かれ、
808年に弘法(コウボウ)大師が 境内地に北斗七星の力を勧請。又 自ら彫られた如意輪観音(ニョイリンカンノン)を本尊とし、
827年に大師の一番弟子:実恵(ジチエ)がその弟子とともに新に寺院を造営した~ のだそうな。

(建立に尽力された実恵さんは この地で亡くなって 今は開山堂に祀られているそうです)

↓南朝二代目の帝:後村上天皇御旧跡(旧塔頭:惣持院跡)。南北朝時代、この寺には後村上天皇の行在所(アンザイショ)が置かれたんですって。塔頭:惣持院を行宮(アングウ)としたしたそうですから この堀内にいらしたのでしょうね。

(因みに 後村上天皇が観心寺の行宮にいらっしゃったのは1359年12月から10ヶ月。その後はより京都に近い 住吉大社の南の「住吉行宮」に移られています。(つまり勢力を盛り返した、という事ですね?))

中院門と中院

(中院は観心寺の支院で、楠正成の菩提を弔うために建てられたもの、だそうです)

拝殿/ 拝殿というからにはその向こうに神殿があるはず・・・

しかし拝殿北には太鼓橋が架けられているものの その先には何もありません・・・。

方向的には この先に鎮守堂がありますので もしかしたら鎮守堂を拝むための建屋、、、かしら?

手水舎


鎮守堂がありました。訶梨帝母天(カリテイモテン=鬼子母神)が祀られている と言います。

(重文です)

お堂の裏には土塁が築かれていました。

土塁に散ったピンクの椿の花が美しかったー。

(↑土塁から見た お堂の後ろ姿)

石段の上に国宝:金堂が見えてきました。(本尊仏:木造如意輪観音坐像(平安時代の作)も国宝)

1333年、鎌倉幕府を倒した後、正成が後醍醐天皇の命を受けて建立したもの だそうです。

五色の幕が 目出度来。/中にお邪魔します。

本尊物は秘仏で 御開帳は毎年4月17・18日の二日ですって。
扁額に堂名が書かれているようですが・・・ うぅ 読めません。

(↓もしかして「「雚心寺」の異体字かなー??? 最後の字は「堂」と見えて「鞍馬寺」の扁額の「寺」と同じ字なんだよー

堂内では 清めのお塩が売られていました。

おビンズルさんもいました。


建掛堂(タテカケドウ)(重文)

詫びたお堂 と見えて実は未完成の三重塔 なのだそうです。

1336年 建武の新政の成功を祈って建立を命じた正成が湊川で戦死したため 塔は一段目で建築が中断してしまったんですね。。。(それで「たてかけ」・・・ / 切ない話です)

弁天堂

池の中の島に建てられていました。(弁天さん ですものね)

阿弥陀堂



星塚 

(境内には七つ星を模った七つの星塚があり、順に巡ると厄除けの御利益がある~ そうな。ここは「七つ目」の「破軍星」の塚で 「あがり」です)


開山堂(本願堂)

お堂の裏には実恵(=道興大師)の廟が。



開山堂の更に奥手に 正成の首塚がありました。

九州から京都を目指して攻め上がる尊氏側の三万を超える大軍を 湊川で わずか700名で迎え撃った正成は あえなく戦死し、その首は六条河原にさらされてしまいます。が、尊氏の温情によってここに運ばれたといいます。(元々二人は戦友でしたからね・・・)



その近くには後村上天皇の生母:阿野廉子(=新待賢門院)の墓もありました。

彼女は後醍醐天皇について隠岐の島まで行った女人。/ 元々は中宮つきの女官だった といいます。ドラマチックな人生を送った人のようですが 落飾後この寺で亡くなっています。(そうだったんだー)

後村上天皇陵(檜尾陵(ヒノオノミササギ))への石段

(陵はかなり上っぽかったので 上がってません・・・)

御影堂 (右に「修行大師」の像)


御影堂右手には 納骨塔と行者堂がありました。


鐘堂

経蔵


いやー 見所多く、 又 歴史の勉強になるお寺でしたー。/ありがとうございました。退出いたします。

で 帰ってから気づいたのですがーーー

私達金堂の東半分しか回っておりません!西側の講堂や霊宝館 牛滝堂なども拝見すればよかったー・・・