<主に昭和59年(1984年)頃>
山陰本線 京都~出雲市間
夜行普通列車山陰号
に関するエピソード
(明るい話と批判的な話両論併記)
(個人的経験、私見等も記載)
【投稿日 令和5年8月9日】
【追記 令和6年1月23日等】
1 はじめに
(1)S59.2ダ改~S60.3ダ改前の山陰号
#378及び#382のブログにおいて、昭和59年2月ダイヤ改正~昭和60年3月ダイヤ改正前の下り山陰号(829列車、829レ)及び上り山陰号(826列車、826レ)の各駅発車時刻一覧について記載し、エピソードについても少し記載しました。URLは次の通りです。
<山陰号の各駅発車時刻一覧を掲載した私のブログ>
<参考 ダイヤ概要等>
上記ブログに各駅発車時刻一覧を記載していますが、ダイヤの概要及び列車番号については次のツイートもご参照ください。
<参考 ダイヤ概要>
<引用>
1984年4月 山陰号 https://t.co/wh6ttmSjVZ
— Toshinori.Saito2(鉄道垢) (@ToshinoriSaito2) June 29, 2023※引用リツイートのうえ、ツイートのリンクをコピーの方法で添付
<列車番号>
※下り山陰号は829列車(829レ)
※上り山陰号は826列車(826レ)
(上記ツイートの通り)
<参考 山陰号の通称>
いわゆる山陰号は、「夜行普通列車山陰号」「普通夜行列車山陰号」「山陰号」「京都夜行」等と様々な通称で呼ばれているようですが、当ブログでは山陰号と記載する場合が多いです。(上記(1)の#378等のブログ及び下記2以下参照)
<参考 山陰号の座席車等>
昭和59年2月1日ダイヤ改正で山陰号の座席車は12系化されました。昭和59年2月ダイヤ改正~昭和60年3月ダイヤ改正前の山陰号は「10系寝台客車1両+12系客車5両(増結される場合あり)(機関車はDD51)」で運行されました。(編成についての詳細も上記#378や#382のブログ参照)
<参考 山陰号の廃止時期>
山陰号は昭和60年3月ダイヤ改正で廃止されました。廃止及び廃止後の経過等についても、上記#378や#382のブログ及び下記7をご参照ください。
<参考 山陰号勇姿(S59.2ダ改~S60.3ダ改前)>
①京都駅山陰2番ホームに停車中の下り山陰号
<引用>
※写真提供:ぽっぽさん(引用元:ぽっぽ氏がTwitterに投稿されたツイート。使用について了承済み)
※撮影日や場所はは昭和59年9月4日の京都駅、とのこと。
※列車は下り山陰号
※引用元のツイートは次の通り
京都発出雲市行きの夜行鈍行「山陰」号は寝台車を連結しており、私の乗車した唯一の10系寝台車でした。
— ぽっぽ (@mtodapanda) June 15, 2022
撮影日時:昭和59年9月4日 撮影場所:京都駅#今はもう出会えない鉄道風景 #山陰 #10系寝台 pic.twitter.com/SfggFP9NoM※ツイートのリンクをコピーの方法で添付
(5.7UP)
②その他
<引用>(再掲)
※引用元:DFアローホームページ
※この写真は、DFアロー・中原研二氏撮影の写真。使用については了承を得ています。
※この写真は、1984年5月27日の倉吉~下北条間で、列車は下りのいわゆる夜行普通列車山陰号(いわゆる山陰号)で、12系客車が5両の場合の山陰号。下り山陰号の列車番号は829列車(829レ)。
※その他詳細は別記の通り。また、#378のブログにも掲載。
(DFアローホームページのURL)
・https://www.apionet.or.jp/DF5051/dd51/
・https://www.apionet.or.jp/DF5051/dd51/dd51_07.htm
・
(4.5等UP)
※上り山陰号の勇姿については今回は記載省略します(上記#382のブログ等をご参照ください)。
(2)今回のブログでは
山陰号に関するエピソードについては、様々なエピソードが残っているようですので、今回はそのエピソードを中心に記載しようと思います。Twitterで新たに発見した感動的なエピソード等についても記載しますが、下記事情によりマイナスのエピソードも記載せざるを得ないため、それについても記載します。以前のブログで記載したエピソードと同じエピソードを記載している箇所もあります。
2 山陰号の前身の夜行列車のエピソード(EP①)
私が確認した限り、昭和30年代~40年代?は、この列車に関して批判的な意見はあまりないようです?。例えば、次のようなエピソードがあります。(以前記載した内容と重複しますが、再度掲載します)
(1)『私は闘う』(野中広務氏著)に登場する山陰号の前身の夜行列車(再掲)
「山陰号」という名称が付く前の京都~出雲市間の夜行列車の話と思われますが、京都府南丹市名誉市民で元官房長官の野中広務氏(故人)の著書『私は闘う』にも、山陰号の前身となったこの夜行列車に関するエピソードが登場します。内容は、京都府船井郡園部町(現京都府南丹市園部町)の野中広務氏が、島根県出身の竹下登氏(元首相)と山陰線で一緒になった、とのことですが、下記(3)に記載した当時の状況から、山陰号の前身の上り夜行列車にて一緒になったと解釈できるため、今回、再度引用します。
<引用>
「(前略)竹下登元総理も、島根県飯石郡掛合町の青年団長から飯石郡連合青年団長となり、メキメキ頭角を現していた。(中略)後に、東京の青年団体協議会の大会に行くときには、山陰線で一緒にという仲になった。(以下略)」
※引用元:『私は闘う』(著者:野中広務氏)
※引用理由:夜行列車とは書かれていませんが、当時の状況(下記(3)参照)から、山陰号の前身となる夜行列車で東京の大会に政治家(京都府船井郡園部町の野中広務氏・島根県の竹下登氏)が向かった内容と思われるため。また、当時、山陰本線ではなく「山陰線」という言い方が一般的であったことを示すため
(2)昭和30年代頃の新婚旅行は山陰号の前身の夜行列車で出雲大社へ(私が個人的に聞いたエピソード)(再掲)
私が京都府南丹市八木町に住むある人から聞いた話ですが、昭和30年代に結婚した男性の話によると、「新婚旅行は夜行列車で出雲大社」とのことでした。⇒昭和30年代においては、京都府口丹地区から新婚旅行で出雲大社に行く場合、山陰号の前身の夜行列車(当時は蒸気機関車牽引)で行くのが一般的であったようです。
(3)新幹線岡山開業前に関して(&当時の状況)
・山陽新幹線の新大阪駅~岡山駅間が開業したのは昭和47年(1972年)3月です。
・『鉄道ジャーナル別冊№12 国鉄私鉄客車列車1984』(鉄道ジャーナル社)の1984年4月の山陰号のページに、山陰号の乗務員の話として、米子・松江方面に行くには京都から山陰線に乗るのがメインルートであったが(この時代はいつも満員でそのほとんどが長距離客だった、とのこと)、新幹線の岡山開業で伯備線経由がメインとなった旨記載されています。⇒新幹線岡山開業(1972年3月)前の京都~出雲市間の夜行列車はいつも満員でそのほとんどが長距離客だったが、新幹線岡山開業以降は長距離客が遠のき、1975年に京都~出雲市間の夜行列車に「山陰」の愛称がつけられたにもかかわらず、山陰号について多くの通勤客が乗り込む区間以外はガラガラになるようになった、とのこと。
<参考>京都~出雲市間の夜行列車が「山陰」という愛称をつけるようになったのは1975年、とのこと。(「夜行普通山陰号データファイル/列車データ館」より)(URLは事情により記載省略)
3 山陰号に関する感動的なエピソード等(EP②)
(1)山陰号に関する感動的なエピソード
Twitterで、山陰号に関する感動的なエピソードを見つけましたので、それについて記載します。
<引用>
1985年3月ダイヤ改正で廃止された山陰号に関する感動的なエピソード#感動する話 https://t.co/6kzoQuFOIt
— Toshinori.Saito2(鉄道垢) (@ToshinoriSaito2) June 29, 2023※引用リツイートのうえ、ツイートのリンクをコピーの方法で添付
(2)ファンの方のエピソード
<参考>上り山陰号に関して
<引用>
高校卒業する年だったか、山陰号を出雲市駅から京都駅まで4人掛けボックス席のリクライニングも何もない座席車で乗り通しました。これは逆方向の時刻表ですけど、本当に通過駅がほとんど無い普通列車でしたね。
— おびお (@cradiobio) July 11, 2023
こういう列車の存在が許される時代をギリギリ体験できて幸せでした https://t.co/Iei5vYzcF0※ツイートのリンクをコピーの方法で引用
4 通勤列車としての下り山陰号(EP③)
(1)通勤客と下り山陰号
当時の山陰号は夜行列車だけでなく通勤列車としての役割も一部区間で担っていました。通勤客が乗り込む主な区間は、京都~園部間(特に京都~亀岡間)、倉吉~米子間、米子~松江間、とのことです(時間帯及び『鉄道ジャーナル別冊№12 国鉄私鉄客車列車1984』(鉄道ジャーナル社)から判断)。通勤客が関係する下り山陰号の主要駅を抜粋すると次の通りになります。
昭59.2~昭60.3
下り山陰号概要
(通勤客が関係する主要駅抜粋)
京都 22:06発
亀岡 22:51発
倉吉 5:55発
米子 7:34着・7:48発
松江 8:25着・8:43発
(出雲市 9:48着)
※時間帯及び『鉄道ジャーナル別冊№12 国鉄私鉄客車列車1984』(鉄道ジャーナル社)から判断)
※各駅発車時刻一覧については上記#378にて掲載
(2)山陰線京都口の通勤客に嫌われた山陰号
<一般通勤客と山陰号(山陰線京都口)>
山陰線京都~園部間(特に京都~亀岡間)においては、下り山陰号は通勤列車としての役割を担っていました。しかし、山陰号のファンにとっては気分が悪くなる話ですが、またお叱りを受けるかもしれませんが、下記①~③の通り山陰号は山陰線京都口の一般通勤客から嫌われていました(特に昭和50年代)。
【私の経験では】個人的事情で恐縮ですが、私は社会に出てから、山陰号に関して良かったという話をリアル世界で一切聞いたことがありません。それどころか、20代の頃(平成9年頃)は山陰号について話が出たときは批判的な話や山陰号の悪口ばかり聞かされた、という経験が私にはあります。その例が下記①と②です。
①山陰号に激怒した元京都府職員に関するエピソード
これも山陰号のファンにとっては気分が悪くなる話ですが、山陰号に関するエピソード、ということになると記載せざるを得ないエピソードです。その内容は、元京都府職員が山陰号に激怒して山陰号の悪口を言っていた、という内容です(私自身が前の職場で経験した内容)。詳細は次の通りです。
元京都府職員が山陰号に激怒
(山陰号の悪口を言う元京都府職員)
※夜の下り山陰号で居眠りし和知まで乗り過ごす
平成9年頃、元京都府職員が、京都府庁から帰宅する際山陰号で居眠りをしてしまい気づいたら和知まで来ていた旨を激怒ながら話しておられました(私の前の職場で元京都府職員が来客者にこのような話をしておられた)。また、この時、この元京都府職員は、山陰号についての悪口も言っておられました。⇒当時の夜行普通列車山陰号に京都市内から乗車して眠ってしまい、気づいたら和知まで来てしまった、とのこと。⇒普通列車王国時代の山陰本線京都口の普通客車列車が徹底的に嫌われた原因のひとつ(私見)
②山陰号で居眠りをして余部鉄橋まで行った人のエピソード
山陰号で京都市内の職場から家に向かっている最中に居眠りをしてしまい、気づいたら余部鉄橋を渡っていた、というエピソードを私は父から聞いたことがあります。父は、当時の下り山陰号について「居眠りしたら大変なことになる列車」と認識していたようです。詳細は次の通り。
山陰号で居眠りをして
余部鉄橋まで行った人
※職場からの帰りに夜の下り山陰号で居眠りして余部鉄橋へ
京都市内の職場から帰宅中に山陰号で居眠りをしてしまい気づいたら余部鉄橋を渡っていた人がいる旨父から聞いた記憶があります。また、父の話だと、その人は山陰号に激怒していた、とのことです。
⇒私の父は、山陰号について、居眠りをすれば大変なことになる列車として認識していたようです。(職場からの帰りに京都市内から当時の山陰号に乗った場合、寝てしまうと最悪余部鉄橋や鳥取・島根まで行ってしまう旨の話)
③参考までに
・『鉄道ジャーナル別冊№12 国鉄私鉄客車列車1984』(鉄道ジャーナル社)の山陰号のページによると、山陰号の車掌は京都から米子車掌区の乗務員、とのことで、米子駅で交代する、とのこと。⇒一般通勤客から山陰号に対して厳しい視線が向けられる京都~園部間においても米子車掌区の乗務員が車内改札など山陰号の車掌業務を行っていた。
・当時の下り山陰号について、丹波口・二条・花園と進むうちに、車内は次第に混雑し通路やデッキにまで帰宅中の通勤客であふれ混雑した、とのこと。(『鉄道ジャーナル別冊№12 国鉄私鉄客車列車1984』(鉄道ジャーナル社)の1984年4月の山陰号のページ及び旅一郎氏のYouTube動画「【語り】昭和60年3月ダイヤ改正前日」より)
・『鉄道ジャーナル別冊№12 国鉄私鉄客車列車1984』(鉄道ジャーナル社)の1984年4月の山陰号のページによると、下り山陰号は亀岡から先はガラガラになる、とのこと。
<参考>
当時の旧型客車に関しては、下記7等をご参照ください。
(3)米子地区における通勤通学客と山陰号
・『鉄道ジャーナル別冊№12 国鉄私鉄客車列車1984』(鉄道ジャーナル社)の昭和59年4月の山陰号のページによると、「米子に近づくと通勤通学客が大勢乗り込まれる」とのことでした。
・米子地区においては、倉吉~米子間及び米子~松江間について、下り山陰号は通勤通学列車としての役割も担っていました。また、当時の時刻表で確認すると、伯備線の115系電車の普通列車である新見発米子行き普通(電車)からの乗り継ぎ客を米子駅で山陰号に乗せるダイヤになっていました。
・今回のブログは、山陰号のエピソードをお伝えするのが目的ですが、そのためには山陰号における通勤風景についてもお伝えする必要があると思われます。そして、その通勤風景の写真は、現状『鉄道ジャーナル別冊№12 国鉄私鉄客車列車1984』(鉄道ジャーナル社)にのみ掲載されています。それは、米子地区における朝の下り山陰号の12系客車車内の写真で、車内でタバコを吸っている様子や車内で新聞を広げて内容を頭に叩き込んでいる様子等も写っています。⇒引用するための条件は全てそろっていると思いますので、今回は、その鉄道雑誌の写真をやむを得ず引用します。
<引用>
※引用元:『鉄道ジャーナル別冊№12 国鉄私鉄客車列車1984』(鉄道ジャーナル社)の1984年4月の下り山陰号のページ
※引用理由:当時の下り山陰号における通勤風景を説明するため。また、当時は車内でタバコを吸うことができたり車内で新聞を広げて内容を頭に叩き込んでいる人が多くいたことを説明するため
(5.7UP)
5 電化区間を走行する山陰号
昭和59年(1984年)時点の山陰本線の電化区間は伯耆大山~知井宮間(米子・松江・出雲市もこの区間内にある)でした。また、当時の山陰本線の複線区間は、綾部~福知山間、伯耆大山~米子間、米子~安来間、東松江~松江間、玉造温泉~来待間でした。(詳細については記載省略)
⇒昭和59年2月ダイヤ改正~昭和60年3月ダイヤ改正前の山陰号は、381系電車である特急やくもや115系電車の普通列車も運行される伯耆大山~米子間及び米子~出雲市間を走行する12系普通客車列車、ということになります。それについては次の引用写真もご参照ください。
<引用>
※引用元:京丹会交通写真博物館さんのツイート
(使用については了承を得ています)
※この写真は、昭和60年(1985年)3月10日の米子駅で、列車は京都発出雲市行きの山陰号、とのこと。
※引用元のツイートは次の通り
1985年3月10日
— 京丹会交通写真博物館 (@Kyotam_kai) February 24, 2020
829レ 普通 山陰 オハネフ12 2022 山陰本線 米子駅
京都-出雲市を走った夜行鈍行「山陰」号。
普通列車では最後まで寝台車を連結し、晩年は普通座席車が12系になった。
1985年(昭和60年)3月13日廃止。 pic.twitter.com/CWcflEbvaz※ツイートのリンクをコピーの方法で引用
(5.8UP)
<参考>
※京丹会さんのプロフィール欄のURLは次の通り
https://twitter.com/Kyotam_kai?s=20&t=Ff0oJpEvycA9QLDgjmL1bQ
<引用>(再掲)
※ヤフオクで入手、出品者了承済み(q氏)、転載等禁止
※撮影年月日等不明、とのこと。場所は松江駅。
(ソロ鉄ブログ管理者補足説明)
※この写真は松江駅に停車中の下り夜行普通列車山陰号。時期は、列車の編成から昭和59年2月~昭和60年3月の時期
※詳細は#378のブログ参照(#378のブログにも引用)
6 山陰号最終日
(1)京都駅
最後の下り山陰号が京都駅を発車したのは昭和60年3月13日でした。最後の下り山陰号は、いつもと異なり米子行き、とのことでした。詳細は次の資料の通り。
<引用>
※引用元:旅一郎氏のYouTube動画「【語り】昭和60年3月ダイヤ改正前日」(使用については了承済み)
※最終日(昭和60年3月13日)の下り山陰号で、京都駅で撮影、とのこと。
※SGが吹いているのは、先頭1号車のB寝台の暖房のためDD51がSGをたいている、とのこと。12系客車の車両はスハフ12のディーゼル発電機で発電した電気で暖房するため、先頭の1号車のためだけにSGをたいている、とのこと。(引用元の動画にて説明)
※「さようなら山陰号」のヘッドマークは、旅一郎氏が作成、とのこと。
※引用元の旅一郎氏のYouTube動画のURLは次の通り
※2:20付近及び11:06付近に、当時の京都発米子行き旧型客車である835レ(最終日は昭60.3.13)に荷物車等2両が連結される場面の資料の紹介あり
※9:25付近に、旅一郎氏が撮影された二条駅における当時の山陰号の写真が紹介されている
(2)和知駅
京丹会交通写真博物館さんのツイートの中に、下り山陰号最終日の、和知駅を通過する下り山陰号の写真が掲載されたツイートがありますので、参考までに紹介します。
<引用>
※引用元:京丹会交通写真博物館さんのツイート
(使用については了承を得ています)
※この写真は、昭和60年(1985年)3月13日の和知駅で、列車は最終日の下り山陰号、とのこと。
※引用元のツイートは次の通り
1985年3月13日
— 京丹会交通写真博物館 (@Kyotam_kai) January 3, 2022
オハフ13 山陰本線 和知駅
「山陰」号の最終運転日。
人ごみを避けて山間の小さな駅で光跡を撮ってみたところ、偶然にも「オハフ13」の文字が映っていた。 pic.twitter.com/J2NtMCbkZ6※ツイートのリンクをコピーの方法で添付
(5.8UP)
7 その他
(1)旧型客車及び山陰号廃止等に関して
山陰号は昭和60年3月ダイヤ改正にて廃止されましたが、詳細は上記#378等のブログをご参照ください。また、山陰本線京都口の普通客車列車に12系客車が投入された昭和61年11月ダイヤ改正及びその後の経過については、#347や#248等のブログをご参照ください。
※参考までに、#347のブログでは、昭和60年3月ダイヤ改正前の山陰本線京都口旧型客車等について記載(R6.1.23追記)
(2)旧型客車等が当時山陰線京都口で非常に嫌われていた件について
旧型客車ファンにとって気分が悪くなる話を掲載して恐縮ですが、山陰本線京都口沿線住民としてはこの件も記載せざるを得ないため、旧型客車が山陰本線京都口、特に口丹地区で嫌われていた件についても今回記載しようと思います。それは、次のツイートの通りです。(私の経験に基づき記載)
<引用>
山陰線京都口では、1985年3月ダイヤ改正まで旧型客車が普通列車として運行⇒この旧型客車は手動ドアで、デッキに通勤客がたくさんいるにもかかわらずドアが空いたまま保津峡渓谷の箇所をスピードを出して走行することも多々あり⇒山陰線京都口の客車列車が一般の人から嫌われ、電化運動が加熱化。
— Toshinori.Saito2(鉄道垢) (@ToshinoriSaito2) June 29, 2023※ツイートのリンクをコピーの方法で添付
なお、旧型客車廃止後も、昭和63年9月まで次の状況が続きました(私の経験に基づき記載)
<引用>
補足しますと当時の電化促進については、近隣の国鉄線に比べて、単純に動力近代化が遅れていたこと。地図上では京都駅からの距離がほぼ同じ宇治方面や滋賀県方面に比べて、所要時間がかかり過ぎていたことが嫌われてました。同時期の東海道線快速の113系非冷房車もかなり暑く居住性は悪かったです。
— はまかぜ5号@秘密結社 亀の甲🐢 (@ddreamrailway) August 3, 2023※ツイートのリンクをコピーの方法で添付
(3)昭和63年10月1日ダイヤ修正による山陰本線京都口普通客車列車大幅削減及びそれ以後の経過について
昭和63年9月まで山陰本線京都口は普通客車列車王国でしたが、昭和63年10月1日ダイヤ修正で大幅に削減されました。それについては、上記#347、#248、#183等のブログをご参照ください。山陰本線近代化等の資料については、#346・#347等のブログをご参照ください。
<参考文献>
・『国鉄監修 交通公社の時刻表』(1984年6月号、1985年1月号等)(日本交通公社)
・『鉄道ジャーナル別冊№12 国鉄私鉄客車列車1984』(鉄道ジャーナル社)
・『国鉄時代 Vol.73(2023-5月号)魅惑の国鉄車両』(㈱ネコパブリッシング)
・旅一郎氏のYouTube動画「【語り】昭和60年3月ダイヤ改正前日」
・京丹会交通写真博物館さんのツイート等のTwitter情報
・「夜行普通山陰号データファイル/列車データ館」のホームページ
・「夜行列車『山陰』(「鉄道徒然」のブログ)」のホームページ
・「一般形客車資料室」のホームページ
・その他ホームページ
・ウイキペディア
・10th 3rd enpedia「荷物列車」
・『私は闘う』(野中広務氏著)(文春文庫)
過去ブログ修正63
(1)#378のブログの再修正
・今回のブログ投稿に伴い、#378及び#382の山陰号に関するエピソードの記載については、簡略化することとしております。
・#378のブログに、京都駅に停車中の下り山陰号等を追加引用しました。
※#378や#382のブログのURLは上記参照
<参考 Pick>
※誤字脱字等があれば、その都度修正します。
※引用箇所について転載等禁止
※書籍化対応のブログに変更するかもしれません。
※本日も最後までご覧いただきありがとうございました。