昭和62年(1987年)頃における

いわゆる保津峡旧線(下り)及び

保津峡新線建設工事関係

【S6111Ⅰ‐23】

【投稿日 令和5年2月28日】

【修正  令和5年8月16日等】

 

 

 1 はじめに 

(1)普通客車列車王国時代の山陰本線京都口沿線住民等の悲願

 昭和63年(1988年)9月以前の山陰本線京都口は多くの普通客車列車が運行される普通客車列車王国でしたが、この時代の山陰本線京都口(特に京都府の口丹地区)においては、山陰線複線電化(特に山陰線電化)が沿線住民・政治家・行政等の悲願でした。それは、次の引用資料の通りです。

 

<引用>

※京都伊勢丹鉄道フェスティバル(R4.9開催)にて購入した写真のため撮影者不明

※場所は、写真の内容から国鉄山陰本線並河駅。

※時期は昭和62年以前?(昭和55年~62年頃?)

 

<引用理由>

普通客車列車王国時代の山陰本線京都口、特に京都府口丹地区においては、圧倒的多数が山陰線電化を強く願っていたことをお伝えするため。(#99や#306等のブログにも引用)

 

(4.10UP)

 

 しかし、山陰本線京都口複線電化を実現するためには、山陰本線嵯峨~馬堀間において新しいトンネルと新しい鉄橋を建設し、保津峡新線建設工事を完成させる必要がありました。Twitter等でこれらを検索すると、昭和62年(1987年)頃の状況が多く登場しますが、この時期は、当ブログにおいて「昭和61年11月体制」と呼んでいる時期に該当します。

 そこで、今回は、昭和62年頃の保津峡旧線の状況及び保津峡新線の建設工事の状況等について記載します。

 

※現在(令和5年2月現在)の嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線は、平成元年3月4日以前の「山陰本線嵯峨~馬堀間」で、「保津峡旧線」等と呼ばれる場合も多々あります。一方、現在(令和5年2月現在)のJR嵯峨野線嵯峨嵐山駅~馬堀間については、「保津峡新線」等と呼ばれる場合も多々あります。

※園部電化前の山陰本線京都口(特に京都府口丹地区)では、「山陰本線」と呼ばず「山陰線」と呼ぶのが一般的でした。詳細は次の通りです。

 

※引用理由2: 旧型客車廃止後も、一般的に山陰線と呼ばれることが圧倒的に多かったため(投稿後追記)

 

(5.2右 再UP)

<Pick>

 

※今回のブログでは、文字数制限の関係で、引用元のURLの記載は1箇所のみとしております。

※今回は、主に昭和62年頃の資料を引用していますが、それ以外の時期の資料を引用する場合もあります。また、前回投稿の#341のブログで投稿した令和3年の嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線のブログと同様の順序で記載します。

 

 

(2)経緯について

①嵯峨~馬堀間複線化のみ

(その後のことについて今回は記載省略)(#337等のブログ等も参照)

 

②山陰本線京都口近代化(R5.4.9追記、R5.8.16簡略化)

 山陰本線京都口近代化の歩み等に関しては、#392のブログに掲載している資料をご参照ください。

 

 

 

 

 

 

 

 2 昭和61年11月の保津峡駅

 

 <引用>

 ※引用リツイートのうえ、ツイートのリンクをコピーの方法で引用

 

 

 

 

 3 昭和62年頃の保津峡旧線と保津峡新線建設工事関係資料

(1)嵯峨駅~亀山トンネル間 

①昭和62年(1987年) 嵯峨駅

<引用>(再掲)1987年嵯峨駅

※引用元:2枚ともあさいちRC@京都・大原氏(京都・大原朝市サイクリングRC@元管理人氏)がTwitterに投稿された写真☆

※この2枚の写真は、嵯峨駅2番ホームに325レが入線したあと3番ホームに840レが入線する場面(嵯峨駅で840レと325レが交換する場面)の写真。325レと840レが嵯峨駅停車中に特急あさしお9号が嵯峨駅を通過する。

※時期は1987年

※詳細は#334や#314等のブログ参照

※引用元のアカウントについては#334のブログ参照

(5.1UP)

 

 

<引用>1987年4月の嵯峨駅

※引用元:全て旅一郎氏のYouTube動画「国鉄民営化後 昭和62年4月 山陰本線 321列車 京都発園部行き」

※この画像は、321レ車内にて撮影された昭和62年4月の嵯峨駅。

 

(補足)

※嵯峨駅は、平成6年9月に嵯峨嵐山駅に改称。

※321レは、当時の京都発園部行きの8両編成の12系普通客車列車(機関車はDD51)で、詳細については#279等のブログ参照。

 

※上記旅一郎氏のYouTube動画のURLは次の通り

(#279等のブログにもURLを記載)

 

(5.2UP)

 

②昭和62年(1987年) 嵯峨駅~亀山トンネル間工事

<引用>

※引用元:2枚ともあさいち@京都・大原氏がTwitterに投稿された写真

※複線化工事が始まったころの写真、とのこと。

※2枚とも、上りの50系普通客車列車。

 

(補足)

旅一郎氏のYouTube動画と照らし合わせると、この写真は1987年における嵯峨駅~亀山トンネル間工事の写真と思われる。

 

(5.2UP)

 

<昭和62年秋>

<引用>

※引用元:全て旅一郎氏のYouTube動画「【観光客であふれるホーム!】保津峡旧線時代 1987年秋」

※嵯峨駅~亀山トンネル間における、1987年秋の複線化工事の状況

※321レにて撮影

 

(5.2UP)

 

 

(2)亀山トンネル~清滝トンネル

①亀山トンネル~新線の第一保津川橋梁間

 旅一郎氏のYouTube動画「国鉄民営化後 昭和62年4月 山陰本線 321列車 京都発園部行き」等をご参照ください。

 

②保津峡新線の第一保津川橋梁建設工事関係

<昭和62年(1987年)>

<引用>

※引用元:全て旅一郎氏のYouTube動画「国鉄民営化後 昭和62年4月 山陰本線 321列車 京都発園部行き」

※昭和62年4月の、保津峡新線の第一保津川橋梁建設工事。321レにて撮影

 

<昭和63年(1988年)9月 建設中の第一保津川橋梁>

<引用>

※引用元:全て旅一郎氏のYouTube動画「保津峡 客車だらけ 88年 二条駅地上時代のカーブ 」

※昭和63年9月の、建設中の山陰本線第一保津川橋梁。

※321レの最後尾にて撮影

 

(URLは#334等のブログにも記載)

 

<オレンジカード>

<参考>

<引用>昭和63年?

※ヤフオクで入手したオレンジカード

※撮影年月日不明

※内容は建設中の第一保津川橋梁

※時期は昭和63年と思われる。

※JR嵯峨野線は山陰本線京都~園部間のこと

 

(5.2UP)

 

③保津峡旧線の保津川橋梁

<引用>

※引用元:全て旅一郎氏のYouTube動画「国鉄民営化後 昭和62年4月 山陰本線 321列車 京都発園部行き」

※321レにて撮影された保津川橋梁

 

 

 

(3)清滝トンネル~鵜飼第一トンネル

①昭和62年(1987年) 保津峡駅

<昭和62年秋>

<引用>

※引用元:全て旅一郎氏のYouTube動画「【観光客であふれるホーム!】保津峡旧線時代 1987年秋」

※321レから撮影(321レと832レとの交換シーン)

 

(5.2UP)

 

②昭和62年新保津峡駅建設工事関係(鵜飼第一トンネル付近)

<昭和62年4月>

<引用>

※引用元:全て旅一郎氏のYouTube動画「国鉄民営化後 昭和62年4月 山陰本線 321列車 京都発園部行き」

※321レにて撮影

※鵜飼第一トンネル(新保津峡駅の下)に入る321レ。

 

 

<昭和62年4月>

<引用>

※引用元:旅一郎氏のYouTube動画「国鉄民営化後 昭和62年4月 山陰本線 321列車 京都発園部行き」

※建設中の新保津峡駅。

 

(5.2UP)

 

<昭和62年夏>

<引用>

※引用元:あさいち@京都・大原氏がTwitterに投稿された写真

※1987年夏、とのこと。

 

(補足)

※奥に見える工事現場は、新保津峡駅建設工事の現場

※列車は鵜飼第一トンネルに入る下り12系普通客車列車

 

※引用元のURLについては#334等のブログ参照

 

(5.2UP)

 

<昭和62年秋>

<引用>

※引用元:旅一郎氏のYouTube動画「【観光客であふれるホーム!】保津峡旧線時代 1987年秋」

※1987年秋の保津峡駅で撮影された321レと鵜飼第一トンネル及び新保津峡駅建設工事等

 

 

③建設中の新保津峡駅(オレンジカード)

<引用>

※ヤフオクで入手したオレンジカード

※撮影年月日不明

※写真は、建設中の新保津峡駅。

※第一保津トンネルは、保津峡新線の第一保津川橋梁の亀岡側に隣接し新保津峡駅(第二保津川橋梁)の京都側に位置するトンネル。

 

 

 

(4)鵜飼第一トンネル~鵜飼第二トンネル

<昭和62年4月>

<引用>

※引用元:全て旅一郎氏のYouTube動画「国鉄民営化後 昭和62年4月 山陰本線 321列車 京都発園部行き」

※この画像は、昭和62年4月に321レにて撮影された画像。いわゆる愛宕山の箇所。この場所で京都側を向くと、愛宕山が見える、とのこと。

 

 

 

(5)鵜飼第二トンネル~鵜飼第三トンネル

 記載省略します。

 

(6)鵜飼第三トンネル~朝日トンネル

①孫六岩

<昭和63年9月23日の孫六岩>

<引用>

※引用元:旅一郎氏のYouTube動画「【さよなら客車列車】山陰本線京都口客車列車大幅削減!1988年9月23日」

※この画像は、上り326レから撮影された孫六岩

 

(補足)

※下り列車の場合は、鵜飼第三トンネルを抜けた後に孫六岩を見ることができる。

 

 

②朝日トンネルに入る前の321レ

<昭和62年4月>

<引用>

※引用元:全て旅一郎氏のYouTube動画「国鉄民営化後 昭和62年4月 山陰本線 321列車 京都発園部行き」

※朝日トンネルに入る前の321レ。

 

 

 

(7)朝日トンネル~地蔵第一トンネル

<昭和62年4月>

<殿の漁場>

<引用>

※引用元:全て旅一郎氏のYouTube動画「国鉄民営化後 昭和62年4月 山陰本線 321列車 京都発園部行き」

 

(補足)

※この画像は、昭和62年4月に321レにて撮影された画像。場所は殿の漁場で奥に見える橋梁は保津峡新線の第五保津川橋梁。

 

※旅一郎氏の動画のURLは上記参照

 

 

<引用>

※引用元:あさいち@京都・大原氏がTwitterに投稿されていた写真

※1987年夏、とのこと。

 

(補足)

※場所はいわゆる殿の漁場。

※奥に見える橋梁は、保津峡新線の第五保津川橋梁。

※列車は833レと思われるが、この日はかなり特殊な編成であった様子

 

※URLは#334等のブログ参照

 

 

 

(8)地蔵第一トンネル~地蔵第二トンネル

<引用>

※ヤフオクで入手したオレンジカード

※上半分の新しい橋梁は、第五保津川橋梁

※左下の橋梁工事は、新保津峡駅

 

(5.2UP)

 

<引用>第五保津川橋梁と愛宕トンネル

※引用元:全て旅一郎氏のYouTube動画「国鉄民営化後 昭和62年4月 山陰本線 321列車 京都発園部行き」

※321レにて撮影された画像。

※内容は建設中の保津峡新線の第五保津川橋梁と愛宕トンネル

 

(5.2UP)

 

 

<引用>

※引用元:はまかぜ5号秘密結社亀の甲氏のツイート。

※この写真は1987年夏季の夕刻、とのこと。山陰本線保津峡~馬堀間、とのこと。

 

(補足)

※この列車は、下り50系普通客車列車。

※この写真の新線の橋梁は第五保津川橋梁、トンネルは地蔵トンネル。

(URLは#314等のブログにて記載)

 

(5.2 右加工 UP)

 

 

 

(9)地蔵第二トンネル~馬堀駅

①地蔵第二トンネル~宇野川橋梁付近

 上記旅一郎氏のYouTube「国鉄民営化後 昭和62年4月 山陰本線 321列車 京都発園部行き」をご参照ください。

 

②宇野川橋梁付近~馬堀駅

<引用>

※引用元:全て旅一郎氏のYouTube動画「国鉄民営化後 昭和62年4月 山陰本線 321列車 京都発園部行き」より引用

※321レにて撮影

※馬堀駅付近の宇野川橋梁にて撮影

※URLは上記参照

 

(5.2UP)

 

 

<引用>

※引用元:全て旅一郎氏のYouTube動画「国鉄民営化後 昭和62年4月 山陰本線 321列車 京都発園部行き」より引用

※321レにて撮影

※建設中の保津峡新線及び新馬堀駅

※URLは上記参照

 

(5.2UP)

 

 

③馬堀駅(旧)

【昭和62年4月】

<引用>

※引用元:旅一郎氏のYouTube動画「国鉄民営化後 昭和62年4月 山陰本線 321列車 京都発園部行き」

※馬堀駅停車時に撮影。

※URLは上記参照

 

【昭和63年5月 馬堀駅】

<参考>

<引用>

※引用元:「Kai-chanの鉄道旅情写真館」のサイトより引用(このサイトの管理者より了承を得ております)。「Kai-chanの鉄道旅情写真館」の表紙ページのURLは

http://kai-chan.sakura.ne.jp/index.htm

※撮影時期と場所は、昭和63年(1988年)5月31日の馬堀駅付近、とのこと

 

(5.2UP)

 

 

 

 

 4 参考 工事略図

 山陰本線馬堀~嵯峨間の複線化工事に関して、地図をお示ししないと分かりにくいと思われるため、次の通り工事略図を引用します。(R5.4.10追記)

<引用>(R5.4.10追記)

※引用元:複線化工事略図(昭和63年度土木学会田中賞作品部門受賞記念に記載)

※引用理由:全体図をお示しすることにより、保津峡新線工事の状況をより分かりやすくお伝えするため

※#345のブログにも引用

 

(5.3UP)

 

 

 

 5 参考 保津峡旧線最終日等

(1)平成元年(1989年)3月4日の保津峡旧線最終日

①旧保津峡駅と新保津峡駅の状況

 

<参考>

<引用>平成元年3月4日

※引用元:あさいち@京都・大原氏がTwitterに投稿された写真

※保津峡旧線最終日である平成元年3月4日に保津峡駅にて撮影、とのこと。

※1枚目の奥に見える駅は、平成元年3月5日開業の新保津峡駅。

 

(ソロ鉄ブログ管理者補足説明)

※この列車は、上りの9両編成の50系普通客車列車のうち324列車(324レ)。322レ及び324レは、昭和63年10月の山陰本線京都口普通客車列車大幅削減後も客車列車で運行(詳細については記載省略)。(R5.3.3修正)

※新保津峡駅開業後も、平成2年11月に新しい駅舎ができるまでは、上記写真の通り、旧保津峡駅改札口から保津峡旧線の線路を通ってトンネルの近くまで行き、更に階段を上って新ホームに行く必要があった。これについては、#308等のブログも参照。

 

※当初322レと思い込んでいたため、322レと記載してしまいましたが、実際には324レであることが判明したため、訂正しました。(R5.3.3訂正)

(5.2UP)

 

 

②新馬堀駅における竣工式等

 平成元年3月4日に新馬堀駅にて実施された「山陰本線複線化(嵯峨・馬堀間)工事等竣工式」(いわゆるレール締結式)については、#233と#308等のブログにて記載済みですが、今回、この竣工式に関する新たな資料を見つけました。この資料は、当時の口丹地区において山陰線複線電化が悲願であったことを示す資料だと判断できるため、引用に踏み切りたく思います。

<引用>

※引用元:『新修亀岡市史資料編第三巻付録 グラフかめおか20世紀』(京都府亀岡市発行)より

※引用理由:この資料は、当時の京都府口丹地区において山陰線複線電化が悲願であったことを示す資料であると判断できるため

 

(内容説明)

※当時の園部町長(京都府町村会長、一番左)や八木町長(山陰本線複線電化促進協議会会長、右から2人目)等によるレールのボトル締結の場面。(京都府知事等によるレールのボトル締結の場面は、#233のブログにて引用)

 

※平成元年(1989年)3月4日に、新馬堀駅で開催された山陰本線複線化(嵯峨・馬堀間)工事等竣工式の詳細については、次の#233や#308等のブログをご参照ください。

※カバー写真は、平成元年3月4日の竣工式におけるテープカットの場面

 

※カバー写真は、平成元年3月4日に京都府知事とJR西日本社長ががっちり握手をする場面。

 

(5.2UP)

 

(2)保津峡新線開業日

 #234等のブログをご参照ください。

 

 

 

 5 その他

(1)園部電化前の列車及び園部電化等について

 #197、#248、#296、#333等のブログ等をご参照ください。また、平成2年3月の園部電化(JR嵯峨野線電化開業)については、#99等のブログをご参照ください。

 

(2)過去ブログ修正38

・上記321レの資料や833レの資料の一部を#279と#272のブログに追加引用しました。また、#272、#279、#294のブログの引用資料について誤って説明していた箇所の修正を気づいた範囲で行っています(後日改めて投稿するかもしれません)。

 

 

 

<参考文献> 

・『国鉄監修 交通公社の時刻表』(1986年11月号)(日本交通公社)

・『JR時刻表』(1987年4月号)(弘済出版社)

・はまかぜ5号秘密結社亀の甲氏(☆)、はんなりかめちゃんの丹の夢工房氏(☆)、あさいち@京都・大原氏のツイート(☆)

・旅一郎氏のYouTube動画(◇)

・その他Twitter資料

・『40年のあゆみー八木町合併40周年記念』(八木町)

 (八木町役場総務課編、1991年3月発行)

・『広報大堰橋ーアメニティやぎー縮小版(第304号)』(八木町 2005年)

 (八木町役場人事秘書課編)

・『図説 丹波八木の歴史 第四巻』(京都府南丹市発行 平成25年3月31日発行) 

・『新修亀岡市史資料編第三巻付録 グラフかめおか20世紀』(京都府亀岡市発行 平成12年11月3日発行)

・ウイキペディア

・嵯峨野観光鉄道ホームページ

・『鉄道鉄道ピクトリアル』(2007年2月号)(㈱電気車研究会)

・「Kai-chanの鉄道旅情写真館」のサイト

・『私は闘う』(著者:野中広務氏)(文春文庫)

 

※今回引用した各画像(☆、◇)について、引用元より二次利用の了承を得ています。

※文字数制限の関係で、Pickはやむを得ず省略

 

誤字脱字等があれば、その都度訂正します。

引用箇所について転載等禁止

本日も最後までご覧いただきありがとうございました。