平成元年(1989年) 3月4日(土)
山陰本線複線化(嵯峨・馬堀間)工事等竣工
(いわゆるレール締結式)
JR嵯峨野線複線電化が地元の悲願であった件
(保津峡旧線最終日1)
(一般の方や地元自治体等の複線電化にかける想いを中心に)
※個人的見解も入っています
※今日は何の日のブログ
【投稿日 令和4年3月4日】
【修正等 令和5年4月9日等】
※今回のブログは、平成元年(1989年) 3月の保津峡新線開業(JR嵯峨野線馬堀~嵯峨間複線化)及び平成2年3月の園部電化における口丹地区の人々の喜びの様子及びJR嵯峨野線複線電化が地元・口丹地区の悲願であったことを伝えるのが最大の目的であり、引用資料はその目的を達成するためにどうしても引用せざるを得ない資料になります(引用の必然性があるものと判断)。
1 はじめに
(1) 平成元年3月4日(土)
今回のブログの投稿日は令和4年(2022年) 3月4日です。
平成元年(1989年) 3月4日(土)は、新馬堀駅にて「山陰本線複線化(嵯峨・馬堀間)工事等竣工式(レール締結式)」が行われた日で、JR嵯峨野線馬堀~嵯峨間複線化の前日です。
※JR嵯峨野線⇒山陰本線京都~園部間
※嵯峨駅⇒平成6年9月に嵯峨嵐山駅に改称
(2)昭和63年10月~平成元年3月の50系客車
昭和63年(1988年)10月ダイヤ修正で京都~福知山間の普通客車列車が大幅に削減された結果、山陰本線京都口では、JR嵯峨野線で9両編成の50系普通客車列車が3往復のみ運行される体制となりました。この体制は、平成元年(1989年)3月ダイヤ改正前まで続きました。詳細は私の#183のブログ等をご参照ください。
(3)一般住民等の思い
一般住民や政治家及び地元自治体等は、下記2・3の通り、JR嵯峨野線の1日も早い複線電化を強く願っていました。
(4)今回のブログでは
平成元年3月4日(土)の状況について記載します。
2 山陰本線複線化(嵯峨・馬堀間)工事等竣工式(レール締結式)
(1)京都府広報課が企画した映像
秘密結社亀の甲(旧丹の夢工房コンピューター事業部)さんのYouTube動画「平成元年(1989年)山陰本線保津峡複線化新線開業関連ニュース1」(以下「平成元年(1989年)保津峡複線化関連ニュース1」もしくは「京都府広報課が企画の平成元年(1989年)保津峡複線化関連ニュース1」と呼ぶ場合あり)には、京都府広報課が企画した映像(「山陰本線複線化(嵯峨・馬堀間)工事等竣工式」の映像、亀岡市長へのインタビュー、京都府知事へのインタビュー等の映像)が記録されております。ただし、客車列車に関しては一切出てきません。
「平成元年(1989年)山陰本線保津峡複線化新線開業関連ニュース1」
※秘密結社亀の甲さんのYouTube動画
(2)竣工式
平成元年3月4日(土)、「山陰本線複線化(嵯峨・馬堀間)工事等竣工式(レール締結式)」(以下「竣工式」と呼ぶ場合あり)が新馬堀駅で午前10時20分から行われました。JR嵯峨野線の複線電化が地元一般住民や政治家及び地元自治体等の悲願であることを伝えるためには、竣工式における出席者の喜びの表情を掲載する必要があるため(つまり引用の必然性があると判断)、上記「平成元年(1989年)山陰本線保津峡複線化新線開業関連ニュース1」よりその様子について引用したく思います。また、同じ理由で、「広報やぎ-おおいばし-№299 平成元年3月」(以下「広報やぎ№299」と呼ぶ場合あり)からも引用します。(動画の状況から、天気は曇り)
【竣工式の模様】
<引用2 京都府知事等関係者の喜びの様子>
※来賓席。前列の一番左の方が、当時の京都府知事 荒巻禎一氏
<引用3 京都府知事等がレールを金色のボルトで固定>
※レールを金色のボルトで固定する京都府知事等。
<引用4 園部町長・八木町長等がレールを金色のボルトで固定>
※当時の園部町長(京都府町村会長、一番左)や八木町長(山陰本線複線電化促進協議会会長、右から2人目)等によるレールのボトル締結の場面。
<引用5 衆議院議員等関係者の喜びの様子>
来賓席における、衆議院議員 谷垣禎一氏(自民党、当時)等の喜びの様子
<引用6-2 テープカットにおける関係者の喜びの様子>
※テープカットの様子。
※左から二人目が京都府知事 荒巻禎一氏、右から二人目が参議院議員 西田吉宏氏(自民党、当時)
<引用7 安全確認>
※工事用モーターカーによる安全確認
※上記引用1~3及び引用5~7の引用元:秘密結社亀の甲氏のYouTube動画「平成元年(1989年)山陰本線保津峡複線化新線開業関連ニュース1」
※上記引用4の引用元:『新修亀岡市史資料編第三巻付録 グラフかめおか20世紀』(京都府亀岡市発行)
※引用理由:竣工式等における出席者の喜びの表情を伝えることにより、JR嵯峨野線の複線電化が一般住民・政治家・地元自治体等の悲願であったことを伝えるため
※URLは上記(1)にて記載
(引用4はR5.3.2追記)
(R5.3.2一部でデザイン機能活用した修正実施)
(4.2~4.3UP)
【レール締結式の模様2】
<引用>
※引用元:「広報やぎ-おおいばし-No.299 平成元年3月」(八木町役場発行)(→『広報大堰橋ーアメニティやぎー縮小版(第304号)』(八木町 2005年)(八木町役場人事秘書課編))
※引用理由:竣工式等における出席者の喜びの表情を伝えることにより、JR嵯峨野線の複線電化が一般住民・政治家・地元自治体等の悲願であったことを伝えるため
(3)亀岡市長発言要旨
当時、山陰本線京都~園部間の複線電化が一般住民・政治家・地元自治体等の悲願であったことを伝えるため、上記竣工式でのインタビューに際しての亀岡市長発言要旨を記載します。
<引用>インタビューに応じる亀岡市長 谷口義久氏(当時)
※引用元:秘密結社亀の甲さんのYouTube動画である「平成元年(1989年)山陰本線保津峡複線化新線開業関連ニュース1」(京都府広報課が企画)
※引用理由:地元自治体首長の喜びの様子を伝えるため
👇
<平成元年3月4日 谷口義久亀岡市長発言要旨>
(竣工式でのインタビュー)
「(前略)我々の悲願の複線化(嵯峨~馬堀間の複線化のこと。なお、文脈から、我々の悲願の中に「電化」も入っていると思われる)の締結式は感激の瞬間でした(中略)。(中略)馬堀以北の複線化と電化を強くお願いしたい。(中略)活性化の源はこのJRにある、ということです(以下略)」
※秘密結社亀の甲さんのYouTube動画「平成元年(1989年)山陰本線保津峡複線化新線開業関連ニュース1」よりまとめました
(4)新線開業に関する説明
上記「平成元年(1989年)保津峡複線化関連ニュース1」では、保津峡新線開業等に関して次の通り説明されております。
<引用>
・「(保津峡新線の建設については)国鉄の分割民営化後も、JR西日本の最重点プロジェクトとして取り組まれてきました」
・「(前略)(平成元年3月5日より保津峡新線での運行が始まることで)所要時間も、5分ほど短くなります。更に、11日(平成元年3月11日)のダイヤ改正で、園部京都間の普通列車は、下りが32本から51本に、上りも31本から48本に増発され、運転区間も(運転時間の言い間違い?)、現在の3、40分から20分に縮まり(これは「京都~亀岡」間の話だと思われる)、通勤通学など足の便が大幅に改善されます。(以下略)」
※引用元:秘密結社亀の甲さんのYouTube動画「平成元年(1989年)山陰本線保津峡複線化新線開業関連ニュース1」より引用
※引用理由:保津峡新線開業でどうなるかについて説明するため。ただし、間違った箇所があるため、注意しながら読む必要がある。
(5)JR西日本角田社長来賓祝辞 (R4.3.7一部修正)
平成元年3月4日の竣工式の後に実施された祝賀会の席上におけるJR西日本角田社長(当時)の来賓祝辞は次の通りです。(投稿後修正)
<引用>
「ところで、JR西日本の角田社長(当時)は、(平成元年3月4日の)締結式に続く祝賀会の席上で、懸案となっている京都園部間の電化について、来年の春(平成2年春)には電車運転ができるように努めたいとあいさつし、新年度早々から電化工事に着手する意向を明らかにしました」
※引用元:丹の夢工房コンピューター事業部さんのYouTube動画「平成元年(1989年)山陰本線保津峡複線化新線開業関連ニュース1」より引用
※引用理由:平成2年3月の園部電化により、山陰本線豊岡以西の普通客車列車が大幅に削減され、平成9年3月の山陰本線普通客車列車全廃、平成11年の急行だいせん気動車化、平成18年3月の寝台特急出雲廃止につながっていった。(私見)
なお、この場面ですが、上記「広報やぎ№299」によると、次の通り
<引用>
「(前略)竣工式の後行われた完成祝賀会は、会場を亀岡市市民体育館に移し、京都府山陰本線複線電化促進協議会(代表世話役・京都府知事)の主催で開かれました。
冒頭のあいさつで、知事が「来年度内に京都ー園部間の電化工事が完工されるよう」とJR西日本に強く要望すると、この後の来賓の祝辞で角田社長(JR西日本社長)が知事の要望に答え「京都ー園部間は、来年の春には電車が走れるよう努めます」と明言し、二人ががっちりと握手する場面も見られました。(以下略)」
※引用元:「広報やぎ-おおいばし-No.299 平成元年3月」(八木町役場発行)(→『広報大堰橋ーアメニティやぎー縮小版(第304号)』(八木町 2005年)(八木町役場人事秘書課編))
※引用理由:平成2年3月の園部電化により、山陰本線豊岡以西の普通客車列車が大幅に削減され、平成9年3月の山陰本線普通客車列車全廃、平成11年の急行だいせん気動車化、平成18年3月の寝台特急出雲廃止につながっていった。(私見)
👇
<再度引用>重要なので再度引用
「(前略)角田社長が知事の要望に答え「京都ー園部間は、来年の春には電車が走れるよう努めます」と明言し、二人(京都府知事とJR西日本社長)ががっちりと握手する場面も見られました。(以下略)」
※引用元:「広報やぎ-おおいばし-No.299 平成元年3月」(八木町役場発行)(→『広報大堰橋ーアメニティやぎー縮小版(第304号)』(八木町 2005年)(八木町役場人事秘書課編))
※引用理由:平成2年3月の園部電化により、山陰本線豊岡以西の普通客車列車が大幅に削減され、平成9年3月の山陰本線普通客車列車全廃、平成11年の急行だいせん気動車化、平成18年3月の寝台特急出雲廃止につながっていった。(私見)
⇒(私見)このJR西日本社長の祝辞は、平成2年3月以降における山陰本線全線の普通客車列車、寝台特急出雲、急行だいせんの運命を大きく決定づけるあいさつ
⇒(私見)更に言うと、このJR西日本社長の祝辞は、山陰本線全線普通客車列車廃止(平成9年3月)、その後の急行だいせん気動車化(及び廃止)、寝台特急出雲廃止につながっていく内容のあいさつ
👇
<引用>
※引用元:「広報やぎ-おおいばし-No.299 平成元年3月」(八木町役場発行)(→『広報大堰橋ーアメニティやぎー縮小版(第304号)』(八木町 2005年)(八木町役場人事秘書課編))
※引用理由:荒巻知事と角田社長ががっちりと握手された証拠を出すため(喜びの様子を伝えるため)
(6)八木町長あいさつ(平成元年3月4日 完成祝賀会)
<引用>
「(前略)最後に地元を代表して、山陰本線複線電化促進協議会の会長である細見町長(八木町長、当時)が、「今日のこの日を第一歩に、知事を先頭に京都府の縦の交通体系の確立のために、口丹波の本当の夜明けのために、これからもみなさんのお力添えを」と述べて、約五百人名の人たちと複線化の門出を祝い合いました。(以下略)」
※引用元:「広報やぎ-おおいばし-No.299 平成元年3月」(八木町役場発行)(→『広報大堰橋ーアメニティやぎー縮小版(第304号)』(八木町 2005年)(八木町役場人事秘書課編))
※引用理由:地元自治体首長の喜びの様子を伝えるため
<引用>
※引用元:「広報やぎ-おおいばし-No.299 平成元年3月」(八木町役場発行)(→『広報大堰橋ーアメニティやぎー縮小版(第304号)』(八木町 2005年)(八木町役場人事秘書課編))
※引用理由:地元自治体首長の喜びの様子を伝えるため
(7)京都府知事発言要旨
当時、山陰本線京都~園部間の複線電化が一般住民・政治家・地元自治体等の悲願であったことを改めて伝えるため、丹の夢工房コンピューター事業部さんのYouTube動画「平成元年(1989年)山陰本線保津峡複線化新線開業関連ニュース1」により、インタビューにおける京都府知事の発言要旨をまとめました。
<引用>インタビューに応じる京都府知事(当時)
※引用元:丹の夢工房コンピューター事業部さんのYouTube動画である「平成元年(1989年)山陰本線保津峡複線化新線開業関連ニュース1」
※引用理由:地元自治体首長の喜びの様子を伝えるため
👇
<荒巻禎一京都府知事発言要旨>
(京都府知事へのインタビューに際しての知事の発言要旨)
①(前略)国鉄時代と違い、JRは企業体であるため、赤字になることが分かっていて仕事をしてくれる、ということは絶対ない。よって、(具体的には京都~園部間の電化をJRにお願いする際は)会社としてこれだけメリットがありますよ、あるいはこれだけ大丈夫ですよ、ということを実際に見せながらやらないといけない。
②(前略)嵯峨~馬堀間の複線化はできたが、園部まで電化しないといけない。電化によるスピードアップも重ならないといけない。本数の増加とスピードアップの2つがそろってはじめて効果(経済効果等)が出る。そのために、京都~園部間の電化をJRにきつくお願いしたところ、思い切って来年(平成2年)の3月、という区切りまでしてもらって、京都~園部間の電化をやることとなった。よって、JR西日本社長の、平成2年春までに電車運転ができるように努めたいというあいさつに拍手がわーと出た。京都~園部間の電化が平成2年春に実現することをみんな喜んでくれたと思う。
(平成2年3月までに京都~園部間の電化が実現することについてみんなが喜んだ)
③「府民の皆様の熱い思いがぐっと来ているので、精一杯の頑張っていきたい」と最後に発言される(JR嵯峨野線に限って言えば、京都~園部間を早期に電化してほしい、という京都府民の想いが京都府知事にぐっと来ている、という趣旨)
※丹の夢工房コンピューター事業部さんのYouTube動画「平成元年(1989年)山陰本線保津峡複線化新線開業関連ニュース1」における京都府知事へのインタビューの場面をもとにまとめました。
(8)その他(R5.4.9追記)
上記の件については、次のブログもご参照ください。
3 地元テレビ局が撮影した保津峡旧線の姿→客車列車について全く触れなかった地元テレビ局
丹の夢工房コンピューター事業部さんが作成されたYouTube動画(「1989年山陰線保津峡複線化関連ニュース2」)で、あるテレビ局(多分地元のテレビ局)が作成の保津峡旧線に関するニュース映像が出てきます。しかし、このニュースでは、保津峡旧線の美しい景色と気動車及び便利になる話ばかりでした(SLに関しては少しコメントが出てました)。つまり、昭和63年9月まで山陰本線京都口が普通客車列車王国であったにもかかわらず、客車列車の話は一切ありませんでした。このYouTube動画の説明欄にも、客車列車に関する記述はありませんでした。(個人的行動⇒これを理由に、私は、客車列車について一切触れていないことについての苦情のコメントを行いました。)
※(私見)地元テレビ局の保津峡旧線に関するニュースで客車列車の話が全くでてこないことについて、鉄道に興味がない一般の人が「客車列車を早急に廃止し、電車に変えてほしい。電車が無理なら、とりあえずディーゼルカー(気動車)に変えてほしい」と思っていたことを端的に示していると個人的に感じました。このことについては、アスペの方のブログで改めて記載する予定です。
4 平成元年3月4日未明~3月5日未明の客車列車の動きの概要(JR嵯峨野線)
上記2・3のニュース映像では、客車列車について一切取り上げられませんでした。そこで、平成元年3月4日未明~3月5日未明(つまり、保津峡旧線最終日)に保津峡旧線を走行した客車列車の概要について記載します。なお、詳細については、#308のブログをご参照ください。(R4.11.7修正)
(1)平成元年3月4日に保津峡旧線を走行した客車列車概要
①寝台特急出雲4号及び寝台特急出雲1号、寝台特急出雲3号(未明~朝)
②下り321レ(50系客車、9両)(朝)
③上り322レ(50系客車、9両)(朝)
④上り324レ(50系客車、9両)(朝)
⑤12系客車回送(12系1000番台の回送)(午後)
⑥下り327レ(50系客車、9両)(夕)
⑦下り329レ(50系客車、9両)(夜)
⑧寝台特急出雲2号(14系14形寝台客車)(夜)
⑨上り330レ(50系客車、9両)(夜)
(2)平成元年3月5日未明 寝台特急出雲4号(24系25形寝台客車)
保津峡旧線を最後に走行した列車は、上りの浜田発東京行き寝台特急出雲4号(24系25形寝台客車)で、平成元年3月5日未明の0時05~06分頃に旧保津峡駅を通過。(旅一郎氏の新しいYouTube動画を元に記載)(R4.11.7修正)
(3)<参考>寝台特急出雲1号及び寝台特急出雲3号の迂回運転
平成元年3月4日に東京を出発し、5日に山陰本線を走行する寝台特急出雲1号及び寝台特急出雲3号については、伯備線経由で運転されました(『JTB時刻表』(日本交通公社)(1989年2月号)で確認)。理由は、新線への切り替え工事のため。
※詳細については、上記#308等のブログ等をご参照ください。
5 補足・参考までに
(1)平成元年3月5日 保津峡新線開業 等
(2)平成元年3月11日ダイヤ改正後の普通客車列車
(3)いわゆる園部電化(平成2年3月10日)
JR嵯峨野線(山陰本線京都~園部間)の電化開業は平成2年3月10日です。
※平成2年3月の園部電化における口丹地区の人々の喜びの様子について記載。
#59のブログのURLは省略しますが、#99のブログにて記載。
(3)京都~園部間の完全複線化(平成22年3月)
JR嵯峨野線(山陰本線京都~園部間)全線の完全複線化は、平成22年3月です。
<参考文献>
・旅一郎氏のYouTube動画
・秘密結社亀の甲(旧丹の夢工房コンピューター事業部)さんのYouTube動画
・JTB時刻表(1989年2月号)(日本交通公社)
・「広報やぎ-おおいばし-No.299 平成元年3月」(八木町役場発行)(→『広報大堰橋ーアメニティやぎー縮小版(第304号)』(八木町 2005年)(八木町役場人事秘書課編))
・『新修亀岡市史資料編第三巻付録 グラフかめおか20世紀』(京都府亀岡市発行)
<6 その他>
<今日は何の日②>
今回のブログの投稿日は令和4年3月4日ですが、Amebaブログのスタンプをゲットしました。
手作りの手さげ持ってた?
▼本日限定!ブログスタンプ
<参考 Pick>
誤字脱字等があればその都度訂正します。
引用箇所の写真について、転載等禁止
本日も最後までご覧いただきありがとうございました。