検察庁事務官内定取消し | ヌース出版のブログ

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ネットに公開した『超自分史のススメ』の目次で誤解されたので、当該文をご紹介致します。

 

検察庁の事務官に就職内定

 私の卒業年は一九八五年で、バブル景気の前年でした。それでも、就職課に行けば募集に溢れていました。大学六回生の就活時にも、依然として夜のバイト(ディスコのDJ)をやっていました。楽しかったので就職せずに、このままDJをやって、いずれはディスコを経営しようかとも考えていました。

 私の大学時代はまだ携帯がなく固定電話を引いていたのです。母から電話がかかってきたのは、真面目な四回生が就活で忙しくなる時期でした。「検察庁に就職が内定したよ」と、とても嬉しそうな声でした。正兼のオイサンのコネで内定が決まったそうです。当時の私には、どんなことをする役所なのか分かりませんでした。とにかく、母が大喜びしていることだけは伝わって来ました。それまでに何度か、警察の人が就職を勧めに来たことは聞いていました。しかし、柔道部のこともあり、スピード違反のこともあり、自分には肌が合わないと、断るように言っていたのです。

 バイト先の後輩たち(大学生のバイトの中で私が一番年上でした)に、「検察庁に内定したよ」と話すと、「すごいですね!」とか「良かったですね!」とか、皆が検察庁の就職内定に対して高評価をするのです。そんな後輩たちの反応に、検察庁に対する私のイメージが次第に良くなっていきました。その頃の私は他人の評価に左右されるバカな大学生だったのです。 

 しかし、一度は企業の面接というものを受けてみたいという思いもありました。旅行が好きというのもあって、松大の就職課に募集が来ていた近畿日本ツーリストに応募しました。すると、東京での面接の日が指定されました。面接の前日に松山空港から羽田空港まで行き、その夜は当然のように知人と待ち合わせて六本木のディスコへ行きました。翌日の面接は午前一〇時でしたが、起床した時には既に一〇分前でした。「やはり、俺は検察庁に就職する男なのだ」という思いが湧きあがり、連絡も入れずに面接をすっぽかしてしまいました。

 それからは就活はせず、残りの大学生活を如何に楽しむかという方向に心が変わっていきました。バイトばかりやっていたので、お金はありました。楽しいバイトでしたがきっぱりと辞職し、検察庁の事務官という将来の自分を思い描きながら、一人で国内旅行に行きました。

 殆どの四回生の就職先が決まっていた頃だったと思います。母から検察庁の内定が取消しになったとの電話が入りました。いつになく落ち込んだ声だったので、変な予感はしていました。理由を聞く気持ちになれなかったので、「分かった」とだけ言って電話を切った様に記憶しています。後で分かったことですが、私の身辺調査が行われて、スピード違反を繰り返して免許取消しになった過去が判明し、検察庁の職員には不適格とされたそうです。

 既にバイト先は辞めていましたし、新人のDJが皿(レコード)を回していることも聞いていました。仕方なく、また就職課に行くと、東洋観光株式会社がまだ募集していることを知りました。会社概要を見るとホテル経営を始め、ボーリング場、スキー場、レストラン、結婚式場等など、いろんなレジャー関連の事業をやっていました。私は大学時代に全日空ホテルでバイトをした経験もありましたし、スキーも趣味でやっていましたし、ディスコのウェイターも経験していました。自分に合っているかもと思い応募すると、面接が行われ後日採用通知が届きました。

 入社式前に、新入社員数名で広島県内のお寺に二泊三日の合宿研修に行かされました。その研修は他の会社の新入社員と合同の研修だったので、一〇〇人以上の新人がいたことを覚えています。朝五時起床で、掃除をさせられ、精進料理を食べ、座禅を組み、和尚さんの説法を聞き、夜一〇時には消灯という厳しいものでした。それに耐えられず、逃走した者もいたそうです。私にとっても、本当に厳しい合宿研修でした。

 入社式後は、各部所での研修がスタートしました。ホテル内が中心で、フロント、宴会、厨房、経理などを順に回り新人紹介と仕事内容の説明を受けるといった感じだったことを覚えています。ベッドメイクやテーブルクロスの掛け方や料理の出し方などの実地研修も行われました。特に、ワインの注ぎ方実習で手が震えたことが印象深く記憶に残っています。

 私の心の底に染み付いたことは、システムエンジニアの中途採用の方による講義です。自己紹介で広島大学卒だと分かり親近感を持ちました。ヘッドハンティングのようなことだと思いますが、コンピュータの専門家で、会社にコンピュータを導入する為に欠かせない人物だったようです。私より一回り位上に見えましたが、特別な扱いをされている紳士でした。特定の部所に所属されているわけでもなく、会議室でその方一人で新入社員の前で講義をされました。

 九〇分位の講義でしたが、社内のコンピュータ化に関する内容のお話は三〇分もしない内に終わり、後は殆どが読書の勧めでした。コンピュータの専門家なので理系の方だと思うのですが、読書を熱心に勧められたことがとても意外に感じられていました。正兼のオイサン以来の読書の勧め論でした。今思えば、コンピュータのことを話しても誰も理解出来ないと感じ、講義内容を変更されたのかもしれません。私にとっては、その人物(名前は覚えていません)の機転によって、人生が大きく変わっていったのです。新人研修でのたった九〇分だけの関わりでしたが、この出会いが無ければ、私が本の虫になることはありませんでした。

 新人研修後、私はホテルのフロント部に配属されました。心の底では経理部の方が良かったという思いを持っていました。経理部の社員には自分の机がありましたが、フロント部にはロッカーだけでした。しかも一ヶ月くらいは毎日、ロビーやホテル回りの掃除ばかりをやらされました。当時の私は掃除が嫌いでしたので、「どうして、大学で六年も勉強した人間に掃除ばかりさせるのか!」という不満を心に抱えながらやっていました。

 その内に、ゴールデンウイークが近づいてきました。フロントの上司にお願いし、連休をもらうことが出来ました。その頃は「人生って、何なのだろう?」という思いで悶々としていました。読んでいたのは人生論の本が多かったように思います。書名は覚えていませんが、連休には本を持って一人で旅に出ました。その旅先で、会社を辞める決意を固めました。結局、入社後五〇日で東洋観光株式会社を辞職しました。フロントの上司が何度も自宅に電話をかけて下さったのですが、母を説得し毎回居留守を使っていました。今思うと、本当に申し訳なかったと思っています。

『超自分史のススメ』「第三部 思い込みと失敗と挫折を繰り返して社長になった」(102頁〜106頁)【ヌース出版】