ナポリタン
写真1…中野駅前の喫茶店で食べた『ナポリタン』、お店は昭和の雰囲気で懐かしい気分になった。
写真2…名古屋駅地下構内での『ナポリタン』、駅で食べるナポリタンは何故か切ない旅の途中を感じた。
今月に入り、たぶんインフルエンザなんだろう。ちょいと患って回復したと思えばぶり返す。
一時期、ずっと食欲を失った時に眺めていた『ナポリタン』の写真…田舎育ちの私には都会的な食べ物の一つだ。
しかし、『これがナポリタンだ!』って思える出会いは少ない。昨秋、名古屋で食べた一皿は重量感満点。何しろ、パスタの下に卵焼きが敷いてある。初めて見た形式だった。お得感もあるし、いずれ都内でも流行るかも知れない。
マッシュルーム、ピーマン、ベーコン、タマネギ…そして粉チーズ。この具材をトマトソースに絡めてパスタに合える。
このレシピが通常は定番と思うのだが、具材を変えてナス、ツナ缶、トマトで合えても美味い。ナスとマグロは絶妙のコンビネーションだ。さながらネイマールとメッシのツートップ。
私は自炊でパスタを作ると三人分くらいは食べてしまうわけだが、パスタは体重激増だからね。要注意だ。
橋掛かりの幕
宝生閑師の舞台、少しだけ記憶を辿ってみる。私は能評は記さないので、あくまで脳内メモのみ。
閑師を最初に見たのは三十年前。当時、私は学生であり、閑師が今の私と同年齢であったはずだ。
役者を食う…と言えば失礼だが、あの頃の閑師は時にシテの演技如何では、結果的にシテを越えてしまう演技(潰してしまう…と言えば大袈裟だが)があった。少なくとも、そういう印象が強かった。実際に『結果的に役を食われた』というシテ側からの話を耳にしたし、そういう質感が当時にはあったのは確かだと思う。
やがて時は過ぎ、九十年代。国立能楽堂公演・能『井筒』シテ山本順之、アイ茂山千作、ワキ宝生閑…この千作、閑という名手による中入の場面。静かな展開の中に役者同士の戦いが見えた。語り芸の千作、聞き芸の閑…あれほどに熾烈で一瞬に消えてゆく役者息使い、一分の隙もない肉体の静謐は二度と見ることはないだろうし、また演じる者も現れまい。
能は主人公と重層化した役者が時間を遡り、時を止める。その刹那が美しいと私は思う。そういう境地を教えてくれた舞台だった。
さらに十数年が過ぎた。とある能会で閑師と順之師が能『木賊・とくさ』を舞われた。老境に入られた二人は限りなく自由であり、そして深く老いを洞察した演技を示した。
『老い』とはポツンと石ころを舞台の板に置くがごとく、ただ存在するだけ…人が老いる事の寂しさと孤独、老いて生きる事の絶望など言葉にすれば容易いが、それでも人は生きて行かねばならない意味を、能という表現の中に示していた。
積み重ねの果てに到達すると言えば非礼にあたる。しかし、積み重ねた者だけが臨みに達する場所が役者にはあるのだ…と思えた。舞台を終えたお二人の笑顔が忘れられない。
閑師には、もっと私的な記憶や思い出もあるが、それは極めて個人的領域で、もし私の記憶が消えてしまったりすれば、それだけの事だ。



