進撃の巨人
『昭和元禄落語心中』の後、ついでに『進撃の巨人』も見た。数年前よりの話題作だが、私は原作を読んだ事すらなく、初めてアニメ版で作品内容を知った。作品や人物をネットで検索しつつ、進行を追った。
当作品(しょせん、マンガじゃないか…)を、今更知ったところで何になるのか…という思いはあったが、若い世代を中心に支持があり、その世界観に多少なりとも興味があった。
そして、先の『昭和元禄落語心中』が正統派の少女漫画だとするならば、『進撃の巨人』は3・11 以降の『風の谷のナウシカ』なのだ…と、私的に勝手に解釈してみた
『風の谷、進撃…』ともに未来社会的中世世界を描く。しかし、これら作品には現実の社会と比較して、一つだけ欠如した視点がある。
これら作品世界が近未来を描きながら、等しい『言語思想の普遍化』を否定した社会である事だ。
これはある意味(文藝論)で言うならば作家による『虚偽行為』であろう。
例えば中世以前、聖書はラテン語で記されており、学術の論文とは一部の知識人と権力者のみに限定された情報知識であった。その閉ざされた世界を『宗教改革』によってマルチン・ルター等によってラテン語から各母国語に翻訳されて、その布教ばかりではなく哲学知識を一般大衆にまで広げる事か可能となった。ひとたび拡散した知識情報は、普遍的知識として翻訳されて、永久に継続される。
デカルトの『方法序説』がフランス語で記されたのもルターの先達あらばこその成果だ。
『風の谷、進撃…』には『普遍化作業を終えた言語から得られた知識』が欠如している…と、やや暴論だが(字数がないし、ブログに向かう時間もない!)…登場する人物群像は近未来でありながら、人類の積み重ねた叡知が脆弱なのだ。それは致命的に滑稽でもある。
しかしながら、3・11以降の日本社会が、内的外的に無力である事を体験的に知った若者たちにおいて、『進撃の巨人』が強くシンパシーを得られる性格を有しているように、私には見えた。
そこに現代の世相と未来に生きる行為において『緩く弛んだ』閉塞感覚が散見できる。『死とは単純なる生命の喪失』に過ぎない…という錯誤は、やや危険ではある。


