花子さん…弐
パルミジャニーノ
『アンテア』
忘れがたい美女という典型です。
この夏、私は会えて幸せでした。
恋の彷徨の末、ようやく吉田少将と再会した花子は念願叶って目出度く結ばれる…。
そこで一つ。
ひたすら思い続けた相手に対して、単に扇を見せ合うだけで終始する能『班女』の演出は控えめ過ぎる…と思う向きもあるだろう。
だが、互いに扇を見せ合うというのが、実は能における濡れ場であり『ぶっちゃけ…つまりはセックスシーン』なんだ…という事を理解して欲しい。
互いに男性が演じる能(歌舞伎もそうだが…)、女の面を付けたシテと脇方が見つめ合って、そのシーンを演じる妄想を味わって欲しいのだ。
男二人が、その感覚と感性で形而上学的な猥褻さを舞台で展開しているのだ。
歌舞伎には、どこか倒錯した美学や審美主義が働いていて、美形な女形という存在そのものを見せる芝居だったりする。
能も美しい面を使用して似てはいるのだが…根本が異なる。
私的な見解であるが、歌舞伎の口語表現は、時に饒舌な語意展開するのに対して、能は文語表現による捨象と語幹で構成される。
距離的、時間的飛躍などを一瞬にして可能にする演出も、言語を予め捨象する能ならばこそ展開される舞台作劇術であり、そこに能の醍醐味がある。
花子さん
能『班女』の主人公花子は、一夜の契りを結んだ吉田少将へ深く心を奪われ、ついには客を取らなくなる。
その有様は能『班女』は狂言方アイによる台詞で演出される。
客の相手をしなくなった花子を、執拗に罵倒するアイ方(江戸的に言えば遣り手婆か…)は、花子に向かい散々に詰る。
その虐め方が、強いほどに花子の一途さが表出する…という事らしい。
だが…狂言方の演技がリアルな現実さを求めるあまりに、花子が描く世界、つまりは中国の『班女』を主題にした恋慕の詩情が冒頭より剥奪されて、雑駁な三文芝居に転じているように感じる場合がある。
世阿弥は著書の中で、当時より狂言方の『滑稽さ』…能の中での笑いを誘う演技過剰を戒めているが、これが、特に『班女』を意識した記述ではあるまい。
しかし、現実的な時間の中で展開しながら夢幻能的な『班女』には、どこか恋慕の末に儚く消えた魂を感じるのだ。
だからこそ、冒頭のシテが無言であるがゆえの恋への妄執を思い、その慕情を補完してゆく演技こそが、アイ方なのではないか…『花子の気持ちは解るが、ここは何とか働いて欲しいのだ』…というリアルさが、後半の人情噺に通じると思うのだ。
花子はアイに対して一言も返さず、ひたすら自らの恋だけを見つめて、アイ方を(遣り手婆)無視する展開を見せる…その辺りの演出は中世の演出侮り難し…なのである。


