能楽堂内の騒音
昨日は一日終日撮影であった。
能番組三番撮影というのは、結構な疲労も伴う。何より昼食など取る時間的余裕がないのだ。
見ているお客様も、最後まで付き合うというのは大変であろう。
能楽堂の見所は、概して長時間の観能に耐えるほど居心地は良くない。
まずシートが良くない。腰の悪い人には苦痛であろうし、老人の多い客席には不適である。
リクライニングまで…とは言わないが、せめて椅子幅に余裕が欲しい。
能三番を全部見なくてもいいよ…という考えもあるが、安くはないチケット代を考慮すれば、将来的には対策が必要だろう。
観客側の問題もある。
遅刻して入場する方々、そして携帯の音である。遅刻は、交通機関の都合や諸事情を加味する必要がある。
しかし、能という演劇は舞台以外で発生する他の音を非常に嫌う。非日常的支配が強い世界という証明かも知れないが、時に携帯のバイブ音でさえスポイルされる場であろう。
それでもマナーモードのバイブ音まで規制しては、携帯電話の意味をなさないであろう…と、あえて百歩譲って、着信音は消して能を楽しまれたら…と思う。
以前、能『隅田川』のワキ語りシーンで、♪~♪と流れた音は大変に困惑した記憶がある。
能と騒音問題という点では、写真撮影者のシャッタレリーズ音も『騒音』だと認識している。
撮影者は仕事であるからこそ、常に自戒を込めて職に臨みたいものだ。
プロという存在とはギャラだけで決定するものではなく、全ての責任を必要とするものだ…そこが趣味とは決定的に違うと私は解釈している。
自由という重さ
表現の自由と呼称するならば、ここにノーカットの裸体を張り付けてみる…?
だが、一方で表現行動と表現意志とは違う…そういう解釈が大切です。
ブログ前述だけでは、言葉足らずと思うのでもう少し。
『暴力装置』という意識は、軍隊を表現とした解釈では正しいと思いますが、国会議員や内閣の国家安全の立場が言う言葉ではない。
彼らは国民の代表であるからです。
つまり、自衛隊の任務とは『国民の負託にこたえる』に尽きます。
国家安全保障の理念とは国民の意志決定に基づく事あって、戦前のごとく『兵隊さんのおかげです』ではないんですね。
軍部による意志決定の過ちを防止する支えが国会であるべきなんです。
ところが、尖閣諸島問題以来より、この解釈が曖昧になりつつある。
遠い現場で頑張っている隊員の方々…人情論的文脈で眺めてしまい、安全保障の情報管理責任とは誰にあったのか…誰が最終責任者であるのか、が忘れ去られているようです。
もし、国民が『表現の自由』の解釈と行使を放棄し、また『推定無罪』という社会原則から生まれる司法解釈を国家に委ねてしまえば、大勢の『国民主権』は失われてしまうでしょう。
同様に憲法と法律は大きく異なる…という前提は、常時に必ず確認される必要があるのだ、と思います。
我々の権利は重い
更新は相変わらず遅れ気味です。
現在使用中の携帯がついに不携帯化しており、常時暇を見て書き込む事が不可能。
もうしばらくは、こんな具合が続きます。
ところで…一昨日から国会中継を出先で見ていました。様々な発言が取り沙汰されているが、もとより(表現と行動は同一ではない)と保証した権利に『表現の自由』があります。
また、質問に立ったある議員は『推定無罪』について、弁護側の裁判における無駄なレトリックであるかのような発言をしていました。
もとより、国家権力や司法による不当な魔女狩り裁判を防止するために、我々には『推定無罪』という原則が与えられています。
この権利や原則は空気の様に見えないものであり、ふつうの生活で意識されないものだと思います。
しかし、表現する事は行動と同一である…と解釈された場合、様々な表現世界(写真や絵画、小説や報道等)が犯罪として安易に罰せられる状態を作り出します。
また『推定無罪』の原則を放棄すれば全ての罪人は即時有罪と見なされてしまうのです。
最近の国会質疑を眺めていると、議員たちは憲法と法律の違いすら理解していないのか…(日本人の大半が憲法と法律とは同一に考えているらしいが…)、しかし、これでは困る。
モンテスキュー登場以前の法律なら仕方ないですが、近現代の洗礼を受けて成立した法治国家であるならば、議員各位には、国民に与えられた『権利』の重みと価値について深く洞察を求めたい…そう感じました。


