自由という重さ | HOODのブログ

自由という重さ

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表現の自由と呼称するならば、ここにノーカットの裸体を張り付けてみる…?
だが、一方で表現行動と表現意志とは違う…そういう解釈が大切です。

ブログ前述だけでは、言葉足らずと思うのでもう少し。

『暴力装置』という意識は、軍隊を表現とした解釈では正しいと思いますが、国会議員や内閣の国家安全の立場が言う言葉ではない。
彼らは国民の代表であるからです。

つまり、自衛隊の任務とは『国民の負託にこたえる』に尽きます。
国家安全保障の理念とは国民の意志決定に基づく事あって、戦前のごとく『兵隊さんのおかげです』ではないんですね。
軍部による意志決定の過ちを防止する支えが国会であるべきなんです。

ところが、尖閣諸島問題以来より、この解釈が曖昧になりつつある。

遠い現場で頑張っている隊員の方々…人情論的文脈で眺めてしまい、安全保障の情報管理責任とは誰にあったのか…誰が最終責任者であるのか、が忘れ去られているようです。

もし、国民が『表現の自由』の解釈と行使を放棄し、また『推定無罪』という社会原則から生まれる司法解釈を国家に委ねてしまえば、大勢の『国民主権』は失われてしまうでしょう。
同様に憲法と法律は大きく異なる…という前提は、常時に必ず確認される必要があるのだ、と思います。