暴力と愛…弐
主体的思考ならば、私が続けている能楽の稽古など、まさに主体的思想の表現であるだろうし、原理主義が支配する世界の一つに違いない。
原理主義と言えば聞こえは良いが、要は井戸の蛙であったりする。
その辺りを見越したように、能楽の大成者世阿弥は見識があればこそ一連の著作を残した。人の生きる姿として、実際に舞台に立ち、身が老いて演技に変化を起こす過程を客観的に明記した。
『離見の見(りけんのけん)』とは、切磋琢磨した先にある意識の外意識なのだが…自ら悟る事を説いている。
暴力は流行らない。
高校教育や課外の体育指導、昨日に発表された女子柔道での体罰や暴力。
もし、東京オリンピックを開催するのであれば、暴力や体罰がスポーツ言語として外道である事を認識した方が良い。
少なくとも五輪に向けての資金集めには、不適格な組織であるという自覚が必要だ。
体罰とか暴力は、何事にも否定される行為であり、今後の世界の文化圏では共有感覚であると思う。
体罰は躾であるとか、教育指導であると理屈を言っている時間に、日本だけが世界から取り残されてしまう恐れもある。
教育も含めて、さらに内向きになり、主体的言語で括られる貧しさが何より怖い。
愛と暴力…壱
寝ている生活の間にも、世間は動いている。
あまり社会問題やネタに走るのは、駄ブログの書き手として好まないので避けているが…少し。
政権が代わり景気が上向きになる…?
それは真か、真実か…あるいは春の蜃気楼…たぶん。砂上の楼閣という言葉もある。
どのみち資産や持ち株もないし、しがない自由業の生活では、景気対策なんて無関係に近い。
論として、無理を承知で書くけど…アルジェリアでのテロ事件。かの地は、天然ガスを採掘する土地は、もちろん日本の土地ではない。では、地下にあるガスは誰のものなのだ。そこは帝国主義の植民地でもない。しかし、独裁的な国家指導体制の下で運営されている地域。
そこでテロがある。
テロに走る理由は様様だが、結果は同じだ。誰がが人を殺し、どこかで人が死ぬ。
そういう状況に、我々の文化生活が載っていることは紛れもない事実であり、テロの犠牲者を産業戦士などと美辞麗句で言い飾るほどに、それが事態の解決になるとは思われない。
たぶん、どうにも面倒な問題だし、今の日本経済を根本から問い直す事だから、
他国の貧富には触れないでいるんだろう。
そういう他人を排除した主体的思考って、私は苦手だな。
せいぜい稽古事くらいが限界。
この道を ただ進むこと
もうすぐ節分だ。
あまり家では、豆まきもしないが…底冷えする寒さも緩む時期になる。
節分行事の名残なのだろう、地方の漁村で見たのは門柱に柊と鰯の頭が、見事に打ち付けられていた。
まだ、やっている人がいるんだな…と感慨深い。
乾いた鰯の頭を太陽の日差しが照らしている。その家に住む 住人の気持ち、生活を見守っているのだろう。
近年、コンビニで目につく『恵方巻き』は、私の生まれた東北や北関東にはない風習だ。関西の色街で行われていた行事で…あの巻物は、まさかの、まさかだ。
…バカバカしい…コンビニ商売ぢゃねぇか。
も、何となく恵方巻き買って…もぐもぐやっていたりする。恵方巻きならぬ…まさに、阿呆巻きだ。
『恵方とは、この道をただ進むこと…高浜虚子』
仕事を考えると、明日から悩ましいが…まぁ、良い。
飲んで寝ようかな。
おやすみぃちゃん。




