死刑囚の「人権」 | Darknight・Prom NTRC特撮軍団長・ヤラセロウ大元帥のブログ

こんな裁判が起こるのも、被害者より加害者の「人権」を重んじる日本ならでは、と言ってしまえばそれまでだろうか?

 

「死刑執行」を当日に通知する運用は、「適切な手続きによらなければ処罰されない」と定めた憲法31条に反すると、死刑囚2人が訴えていた訴訟で、大阪地裁は「死刑囚は現行の運用を含めた刑の執行を甘受すべき義務を負う」として、原告の訴えを退けた。

 

ネット界隈では、大阪地裁の判断について概ね好意的だが、T京S聞4月17日付朝刊社説は、

 

「当日の通知では家族らとの面会もできない。国際的には非人道的な扱いとみなされる。この運用は見直されるべきだ。」

「死に直面する人に対し、もっと人間らしい対応があってしかるべきではないか。」

 

と騒ぐ。最近、受刑者を「さん付け」で呼ぶ等、受刑者の「人権」に配慮した動きが目立つが、罪を犯した者に「快適な」環境を提供し過ぎるのも如何なものかと、私は思う。厳しい環境に身を置くことで己の罪と向き合ってこそ、より一層真摯な反省も可能であろうし、余り刑務所の環境がよ過ぎると、却って「再犯」に繋がりはしないだろうか?「死刑判決」を下されるからには、犯した罪がそれだけ重く、最早更生の見込みもないと司法が判断したからである。T京S聞社説は更に論調を飛躍させ、

 

「死刑廃止という国際的な潮流も踏まえ、存廃の議論も深めるときだ。」

 

と息巻くが、例え「死刑制度」がなくとも、暴動・テロ・リンチが横行し、「法治国家」としての体を成していない国よりも、「死刑制度」があろうと、「法の支配」が機能し、「法の正義」が生きている国がいい。以前、当ブログでも指摘したが、日本で「死刑制度廃止」を叫ぶのは、「内乱罪」「外患誘致罪」で捕まりそうな連中である。

 

T京S聞4月21日付朝刊カラー版によると、来年6月1日より改正刑法が施行され、同日以降に起きた事件・事故で起訴され、有罪になると「拘禁刑」の対象となる。「拘禁刑」では更生を重視し、懲役と禁固が一本化され、「刑務作業」が義務でなくなり、個々の受刑者の特性に応じて、更生や社会復帰に向けた専門の指導や高齢受刑者のリハビリ、若年受刑者の更生指導に多くの時間をかけられるようになるとのことである。軽度犯罪者・虞犯者に対する、教育的・自立支援的手法による処遇は、「鬼平」こと長谷川宣以が、石川島の「人足寄場」で試みている。長谷川宣以は、凶悪犯を検挙する一方、犯罪を無くすには世の中を変えるべきという思考の持ち主だったらしく、「火付盗賊改」から「江戸町奉行」へ転任したかったらしい。刑法が改正され、刑務所の居心地がよくなろうと、やはり刑務所は「入りたくない場所」であるべきだし、「世の中を変える」ことを躊躇してはならない。しかし、「世の中を変える」とは、不逞外国人の犯罪が野放しにされ、日本人が納めた税金で維持されている社会保障制度に、不逞外国人がタダ乗りすることではない。