今日の記事は、新年早々書いていたのですが、他の記事を優先したので、半年近く貯めていたものです。
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第一話
●東照宮の研究者が語る陽明門
●瓶と、古墳と北辰信仰
第二話 / 陽明門に描かれた子供は、家康の転生の姿?
●葵紋と、桃太郎伝説
●葵と桂の木が表す輪廻転生
●御仮殿の蝉と、生命の再生
第三話 / 東照宮に秘められた家康の輪廻転生
●奥の院霊廟前の三具足と不老不死
●熱田神宮から、東照宮を読み解く
第四話 / 東照宮の八度の傾きを、名古屋城から紐解く
●名古屋城の八角堂と橘
●上加茂神社、石清水八幡宮の参道の傾きの一致
●我が家と、八度の傾きと、徳川家康
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第一話 陽明門の子供の図は、和な世を表してはいない
【東照宮の研究者が語る陽明門】
TV番組、不思議発見の新年早々の放送が、日光東照宮でした。
東照宮研究家の第一人者が、ゲストへ説明していた事に、疑問を抱きました。
今日の記事は、素人の反論です。
この研究者は、
陽明門の中央にある子供の彫刻をこの様に話されていました。
「戦争、飢餓、貧困、そういう時代では、子供が遊べない、子供が遊べる世の中ではない、家康公によって子供が安心して遊べる世になる」と。
特に重要なのが正面中央にある彫刻で、壺に入った子供が川で流され、救う為に、石で壺を割って助けるシーンが描かれていることです。
この研究者は、瓶は買い直せば済むが、人の命はかけがえがないと、話されていました。
これは、家康の願いで、人々に命の大切さを教え、これが、家康公の目指した世の中だと言われるのです。
家康が、こうだと言っていたのでしょうか?
さらに、陽明門の向いている方角にこそ家康最大の願いがあるとも言われるのです。
家康は江戸城から見た北極星の方角に家康が天帝と一体となり子孫と、日本全土を守ると言われるのです。
本当に、天台宗の天海僧正が、語ったのでしょうか?
江戸城から真北には、日光東照宮は有りません。
8度西にズレていますが、これをどの様に結びつけるのでしょうか?
この方の感想だけで解説されているのなら、「私の推測」と言う言葉が必要と考えるのです。
第一人者が発する言葉は、それが答えになり、後世にも残って行くからです。
【瓶と古墳と北辰信仰】
このような事は、天台宗の思想に見られるのでしょうか?
その思想が根底にあり、北極星(北辰)信仰が見られる下鴨神社や、日吉神社、麻績神社には上記の解釈は見られません。
天台宗は、天帝を、祇園祭の牛頭天王と同じ災いをもたらす者と捉えていました。(私の推測)
東照宮は、江戸の北側に在る事から、
死後の世界を表し、陽明門の「壺」は「墓」と捉えるべきです。
それは、ここまで取り上げて来た、天台密教が大きく関わる麻績神社のある座光寺(長野県飯田市)は、飯田古墳群があり、金幣社日吉神社(西美濃)も、沢山の古墳群が見られるからです。
日光東照宮も、家康の「墓」です。
最澄や、慈覚は、天台密教を東山道上を通り伝導し、その道は枝分かれし、慈覚大師が浅草まで伝えました。
慈覚は、浅草までの途中に「北向き観音」を設け、陽明門と同じ北極星を崇める形の寺を造ったのです。
そこには、愛染桂の木があり、ご神木になっています。
日光の中善寺も愛染桂の木で作られた観音様で知られる事から、同じ北極星信仰が東照宮にも見られるはずです。
前方後円墳は、壺を表している事から、陽明門の壺は、古墳を意味しているはずなのです。
日立市(茨木)の大甕(おおみか)神社の「大甕」の名前も、「大きな壺」を意味し、ここにも古墳群が見られ、徳川御三家の水戸藩の地で、少なからず関わっているのではと想像するのです。
この神社には、北の星の神との争いの末、石に閉じ込めたと伝説が残り、ここから北の阿武隈の地は、穢れの世界と言われ、結界石が置かれているのです。
「北」、「星の神」、「甕(かめ)」が、北極星と瓶(かめ)の陽明門と重なるのです。
そして、八角形の神輿。
この八角形の神輿は、神戸町(西美濃)の三猿の像がある日吉神社の火祭りでも見られました。
関ケ原の戦いの前哨戦の戦いの地、神戸町赤坂にある日吉神社の三猿。
この時、徳川軍は負けたのです。
神戸町、金幣社日吉神社の三猿。
この八角(角度/易)は、東照宮を紐解く鍵と、私は感じています。
それは、もう少し後の第三話で・・・