三重県の地名由来を深堀すると、日光での神の戦いに行き着く | パオンのブログ

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最初から続いている不思議な話です。
読まれていない方は、ブログのテーマ・「まとめ」から
読んで見て下さい。

 日光の戦場ヶ原の「神と神との戦いの伝説」を、大黒様から紐解き、山形県北部に伝わる大黒様の風習を重ねてきました。

その紐解きの中に、ヤマトタケルと伊吹山の伝説が現れたのです。

今日は、「33」と言う数字を用いて更に読み解いて行こうと思います。

 

/// 目次 ///

ヤマトタケルの死の伝説の33

三十三間堂から日光への沢山な繋がり

***大須観音(名古屋市)と、熱田神宮からの繋がり

***三十三間堂の特徴からの繋がり

●日光東照宮奥の院にある具足の謎

●聖徳太子と33

比叡山にある、おみくじ発祥の場所

西国33箇所巡礼の最後の寺

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[ヤマトタケルの死の伝説の33]

 

33の数を追うと、やはり、伊吹山の古代の支配者、神大根王に纏わる事件が絡んでいるように私は感じたのです。

それには、ヤマトタケル兄弟が関係していました。

ヤマトタケルは、伊吹山で襲われ、三重県亀山で三つ折りになって死去し、白鳥に姿を変え熱田神宮へ戻ったと言われ、(色々な説がある)

それが三重県の語源になったとされます。

体が三つ折りに重なったとは、ムリムリにこじつけた話ですね。

これは、数字をキーワードとして残したかったと感じるのです。

33です。

皆さんは「33」の数について、思い浮かぶ場所は何処ですか?

一番最初に思いつくのが、おそらく京都の三十三間堂ではないでしょうか?

 

[三十三間堂から日光への沢山な繋がり]

***大須観音(名古屋市)と、熱田神宮からの繋がり

最近の記事で出てきた名古屋の大須にある矢場の由来も、三十三間堂が絡んでいました。

三十三間堂で行われた弓の競技で名を馳せた弓の名手がこの地に絡んでいるからでした。

この大須の矢場は、で知られる菅原道真の一族の地にあり、菅原道真と関りがある大須観音が在るのです。

下の画像の中の旗を見ても分かるように、道真の梅鉢紋なのです。

(大須観音の変遷の記事はコチラ)

(羽島にあった大須観音の記事はコチラ)

 

この矢場は、熱田神宮の大宮司であった星野氏が絡んでいました。

 

大須は徳川家康に縁の万松寺(岳山)でも知られていて、山号の「亀」は、万松寺に尋ねてもはっきりしていませんが、同名の対馬の万松院が不思議な繋がりを見せ、日光にも繋がってくるのです。

(対馬の万松院の記事はコチラ)

 

***三十三間堂の特徴からの繋がり

三十三間堂は、普通のお寺と違い東を向いていて、千手観音が1001体並び、守護像の天部衆が28体と、両端に風神神像が並び、お堂裏に、西に向く千手観音が一体置かれているのです。

 

西を向くのは、大黒様(出雲大社の大国主)もそうです。

動物では、東を表すものは、ウサギで、西は酉です。

 

ウサギは、大河ドラマ「どうする家康」で、徳川家康が肌身離さず持っていた白兎の像になるのですが、史実でははっきりしていません。

しかし、天皇の即位の儀で使われる特別な色の黄櫨染御袍(こうろぜんごほう)と同じような色の装束を家康は着ていて残っています。

それに白兎が描かれているのです。

 

ここまで書いてきた中に登場する物は、日光の戦場ヶ原の記事で登場したアイテムばかりです。

 

弓の名手。ヤマトタケル。雷。伊吹山。徳川家康。亀。

です。

 

[日光東照宮奥の院にある家康霊廟前の具足の謎]

こんな事からも繋がります。

日光東照宮の家康の霊廟の前にあるのは、理由が語られていない日蓮宗の具足と同じ「亀の上に乗る鶴」です。

これは浦嶋伝説(ルーツは蓬莱伝説)からのものと思われます。

それは、壺(蓬莱山は壺の形)と、箱が並んでいるからで、熱田神宮の下には亀が住むと言われるのもこれからと思われ、

箱は、玉手箱と言う事です。

 

そして、熱田神宮のある場所は、昔、蓬莱崎と呼ばれていたのです。

ヤマトタケルは、妻を熱田に草薙の剣と共に残して、伊吹山へ向かい、亀山で死んだ事から、

亀で知られる浦嶋伝説の乙姫は、伊吹山の神大根王の娘、乙姫であり、ヤマトタケルが乙姫を奪い、父に届けた話も、二股大根と大黒様の繋がりを読み解くと、日光の神と神との戦いに繋がるのです。

 

これだけ沢山の一致が日光に向っているのです。

だから、戦場ヶ原の神と神との戦いの伝説も、大和政権と、神大根王との対立を表わしているものと思われます。

とても大きな事件だったはずです。

 

今日は、「33」の繋がりの話ですが、初めて私のブログに来られた方は、上記の事を理解されないと、眉唾の話になってしまう事から、時々、話が横道に逸れ、これまでの読者の方には、読みにくくなりますが許して下さい。

 

更に続けます。

ヤマトタケルに、このストーリーを33に変えて重ね、そして、死後、白鳥になった話は、白鳥伝説を持つ秦氏族に結びつくもので、このストーリーの裏には、秦氏の「八幡信仰」と「稲荷信仰」が隠れていると思わざるを得ないのです。

 

[聖徳太子と33]

秦氏が絡む33の数で思いつくのが、京都太秦にある聖徳太子の寺で知られる広隆寺です。

秦氏の京都での基盤になる場所です。

この寺にある有名な物は、聖徳太子33歳像です。

何故、33歳なのでしょうか?

これも、争いを意味しているのでしょうか?

この像に、天皇が即位した時に着た、特別な黄櫨染御袍(こうろぜんごほう)を小さくした同じ衣装を着せるのです。

天皇でもない聖徳太子に、特別な衣装を着せる意味は何なのでしょう。

一説には、聖徳太子の祟りを恐れてとされます。

聖徳太子一族は、一人の皇子を残して、政権抗争によって根絶やしにされました。

その一人は、羽黒山へ逃げた子皇子です。

羽黒山は、大黒様のお歳夜の風習のある山形県北部です。

こでもこ繋がります。

広隆寺が楓と、蜂に守られていると言われるのも、雷神の対極の風神と、羽黒に守られている、つまり大黒様が表す鉄のグループに守られていると言う事のように私には映るのです。

 

不思議な事に、毎年4月に、我が家では、黄櫨染御袍のような黄色い花が庭一面咲き誇ります。

そこに蜂が沢山とんで来るのです。

奈良の宇陀にある楓の公園を偶然訪れた時にも、隣の神社で黄色スズメバチとの奇妙な出来事がありました。

その場所は、二股大根を思わせる神紋をしていたのを思い出しました。

奈良の宇陀の水分(みくまり)神社の沢潟(おもだか)紋です。

おもだか

また、こんな事もありました。

三重亀山にあるヤマトタケルの墓とされる場所を訪れた時、

羽黒トンボが、私を待ち受けていたかのように、その墓の周りだけ飛んでいた事がありました。

黒い羽のトンボについては、これまでも不思議な出来事を伴って私を驚かせてきました。

これは、偶然では無いと、今、思うのです。

 

 

最近、妻から大須へ行こうと誘われ行きました。

それも縁の流れなのでしょうか?

その時、妻は、骨董店で見た魚の入れ物を大変気に入っていましたが、買わずに帰りました。

妻の誕生日が近かったので、私は、それをプレゼントしようと、次の日に買いに行ったのです。

 

 

それを渡してから、大黒様のお歳夜のお供えにハタハタも添えられると知り、雷の一族の地で買ったことから、これも縁の力なのかとも思ったのです。

ハタハタは、「鱩」と書くからです。

 

少し長くなってきましたが一気に書いて行きますので、もう少しお付き合いください。

 

[比叡山にある、おみくじ発祥の場所]

比叡山(天台宗)にも33に纏わる場所があります。

良源大師が祀られている三元堂で、この僧は、おみくじ発祥の僧と言われ、角大師とも、三元大師とも呼ばれ、鬼の姿になるまで自分を追い込み、鬼を鬼で退治した事で知られ、この鬼をあしらった魔除けのお札で知られ、よく目にします。

日光東照宮の三代将軍家光の霊廟の鬼を鬼で守る事と繋がります。

また、三元大師が33体描かれたお札でも知られるのです。

日光と天台宗の繋がりは天海和尚で知られ、三元大師からも、日光に繋がるのです。

 

[西国33箇所巡礼の最後の寺]

私が思いつく最後の33は、西国巡礼33か所巡りの満願成就の寺です。

この寺は、伊吹山の東側山麓にあります。

閻魔大王で知られる寺です。

閻魔大王と同じ意味を持つのが古代エジプトの狐の姿の黒いアヌビス神であるのも、私の説に結びついてきます。

 

この寺の名前は、谷汲山華厳寺と言います。

日光にもこの名は、代名詞のような存在でありますね。

33の数は、どこからも日光に繋がります。

こんな考えは、聞かないので私の妄想かもしれませんが、もし、本当ならば、日本の成り立ちの歴史において、とても重要な事件だったと思われます。

 

次回は「178」の数で深堀していきます。