今日は、伊勢志摩旅行二日目に訪れた伊雑宮について書いていきます。
伊雑宮(いざわのみや/いぞうのみや)は、伊勢神宮の14ある別宮の一社で、伊勢三宮の一つと言われてもいます。
神宮から遠くにあることから瀧原宮と共に「遥宮(とおのみや)」とも呼ばれ、現代では参拝者は少ないです。
祭神は、天照大神の御魂です。
創建は不明で、
色々な説があり、謎に満ちた宮と噂されます。
伊勢神宮は、この場所に建てられる予定だったとも言われ、江戸時代に、伊勢神宮内宮外宮は、伊雑宮の分宮で、内宮は、星神(ニニギ)を祀り、外宮は、月神(月読)を祀り、伊雑宮が、日神(天照大神)を祀る宮だとする話しが、この志摩磯部の地の人々から湧き上がったこともあったのです。
それは、幕府によって葬り去られ、それを唱える者達は、流刑になりました。
この様に、この宮は、古くから地元の漁師や、海女に愛され、奈良時代以前から住む海洋部族の磯部氏の拠点でもあり、その人々に信奉されてきました。
しかし、この宮との関りは明確なものは無いのです。
恐らく、記録に残しては伊勢神宮に支障があったのではと思ってしまいます。
古い時代から住む人々との繋がりを示す物が無いとは解せません。
日本書紀にある、「磯宮」や、倭姫の事を書いた物に出て来る「伊蘓宮(いそのみや)」が伊雑宮とする説もあり、古くは、他の別宮と建築様式も違っていましたが、明治42年に他の別宮と同じ様式になったのです。
現在、様式をそっくり造り変える遷宮がここでも行われます。
それならば、何故、近代になって変える必要があったのでしょう。
古くからの様式を継承するのが筋でしょう。
祭られている天照大神だけは、流石に変える事ができなかったのでしょう。
この場所が、天照大神の本当の居場所だと言う説を裏付けているように、私には映るのです。
鎌倉時代には、源頼朝に信奉され、神馬を奉納されたとの記録も残っています。
神馬から分かる重要な「一の信仰」も外せなかったと言う事です。
また、この宮は、田植祭で知られ、御領田が宮の南に広がります。
そのルーツは、伊雑宮から800m南にある佐美長神社の真名鶴伝説からと言われます。
ここで収穫されるコメには、相当なパワーが入っているのでしょう。
もう一つの別宮、瀧原宮の渦巻く木にも現れていましたね。
このパワーが植物に与える凄さを見せつけるかのようなものが、この伊雑宮にもあります。
この宮の説明は、これぐらいにして、訪れた時の様子、そして、私が抱いた疑問を検証していきます。
この宮へ訪れた時、一組の仲の良さそうなご夫婦?が樹齢700年ほどの楠の巨木と写真を写していました。
私も、その木の大きさに、写真を撮りましたが、対象物が無いとその大きさは伝わらないだろうと思い、その夫婦が写し終わるのを待っていました。
その木を私が見ている時、妻は、私の後ろにある池を眺めていました。
木を写していたご夫婦が、私に向って、「写しましょうか?」と話し掛けてくれました。
妻を呼ぶと「今、前を人が通り過ぎたのに誰もいない」と言って来たのです。
私が妻から目を離したのは、わずか数秒で、それが本当なら、私の目にも見えたはずなのです。
人が通るような場所でもなく、隠れる場所がある分けもなく、見晴らしが良い場所だったので不自然な感じです。
それは、良いものか、悪いものなのか分からないので、不安を抱くかもと、無視する事にし、返答しませんでした。
この宮には「巾着楠」と言う変わった形状の木があるとネットで上がっていたので、見たいと思い見渡しましたが、見つかりませんでした。
社務所の近くにあるようなので御朱印を頂く時に見れると思いましたが、社務所の周りにも見つける事はありませんでした。
(この木を、ネットで検索して見て下さい。)
妻の見た事を考えると、その木を探すのを止めました。
あまりスピチュアルな事を探ると、妻が先ほどの不思議な出来事を思い出すのではと思い、この地に留まった伊勢神宮の開設者・倭姫の遺跡へ行く事も止め、妻が見たいと言っていた英虞湾の夕日を見に行く事にしたのです。
次回は、伊雑宮の疑問を私なりに紐解いていきます。
続く