ここまでの記事を書いてきて、
「鉄」の一族は、「犬」と「猿」に分かれているように感じました。
この一族が分かれているかの資料は見つかりませんが、「鉄」には、「犬」と、「猿」が関わっている痕跡は見えます。
それを地域に分けて見て行くと、色んなことが繋がって来るのです。
【神奈川県寒川、平塚】
私が、このブロブを書き始めた頃、私と不思議な繋がりをする「たたら」さんと言うブロガーさんがいました。
この名前が「たたら製鉄」と重なる名前に惹かれ、私から連絡しました。
やはり、私と不思議な繋がりが沢山現れたのでした。
この方の住まいが、寒川神社の近くの平塚で、
寒川神社は、高座(こうさ)郡に在ります。
私のブログのスタートが、名古屋の高座(たかくら)(高座結御子/通称高蔵)神社からで、不思議な縁を感じたのでした。
その縁は、まだまだありました。
この寒川に住む江戸時代旗本の土屋知貞(中村氏)が豊臣秀吉を「猿」と名付けました。(土屋氏の記事はコチラ)
それを知った時、私は秀吉の誕生の地(中村公園内)に住んでいる事に、縁の深さを感じたのです。
これには、まだ続きがあったのです。
*** 日比の姓名を紐解くと・・
我が家の隣が「日比」と言う名前だと、「たたらさん」に話すと、我が家の周りも「日比」ばかりであると答えられたのです。
江戸城の裏鬼門の寒川の「寒」の語源が「鉄」で、鬼門も寒川郡と言い、三猿で知られる日光東照宮があり、共に、鉄と猿で繋がるのです。
四国にも寒川と呼ばれる地があり、鉱山技師で知られる平賀源内の産まれた地でした。
偶然なのでしょうか?
【熱田神宮と鍛冶屋】
熱田神宮の北に高座(たかくら)神社があり、そこにも「寒」の地名があります。
「夜寒」と言い、古代の遺跡が点在し、昔は、鍛冶屋が多く在る事で知られる場所でした。
その北には、金山地区が広がり、鍛冶屋の「金山神社」が在ります。
この鍛冶屋の地には、日本最古の猿田彦大神が降臨したと言われる神社がありました。
そして、その西には「日比野」と言われる地が在るのです。
【養老町と、日比の姓】
この「日比」の姓名について調べると、
我が家の氏神・白山神社の在る「日比津」(名古屋市中村区)がルーツとされていました。
現在は、「日比野」や、「日比津」に、日比の姓は、ほとんど見られません。
巷で言われるのが、この近くでは、津島(愛知県西部)に多く居ると言われます。
人名を扱うHPには、地域での人数が表示されていました。
驚きました。
私の記事に出て来る養老が群を抜いていました。
その中でも、人口密度からすると養老町沢田が、全国で一番「日比」姓が多いと思われるのです。
丁度、この地域を同僚が担当していて、この地域について尋ねると、沢田の姓は、一人も居ないとの事。
以前の記事で、この「沢田」の姓名が鍵を握るのではと書いてきました。
やはり、ここでも繋がったのです。
養老町沢田には、一人も「沢田」がいなく、「日比」が多く住むとは面白いですね。
因みに、愛知県では、「沢田」の姓は、我が家の墓のある江南市と、知多半島の半田市周辺に多いとされます。
【金屋の姓との重なり】
その養老町には、秀吉の幼名にも使われた(実際には、幼名は持たなかった)日吉地区に「金屋氏鍛冶屋跡地」が在ります。
(金屋鋳物師居住跡地/養老日吉地区)
おそらく、この地に日比さんが多く居るのは、北に鍛冶屋の信奉する南宮大社があるからと思われます。
このように、日比一族は、間違いなく「鉄」と関わっていたと言えます。
この日比の「日」と、「比」には、どんな意味が有るのでしょう?
それを追ってみます。
【秀吉と、鍛冶屋】
秀吉の妻・ねねの姉が、津島の五郎助と言う鍛冶屋に嫁ぎ、秀吉の生誕の地に隣接する場所で産まれた家臣・加藤清正の父が、美濃から移って来た時、この五郎助の家に居候したのです。
養老の地に見られる、日吉地区や、日吉神社、金屋鍛冶遺跡などの事を考えると、
秀吉は、鍛冶屋一族と関りが深かったと推測する事ができます。
そう考えた時、名古屋の中村で産まれた秀吉の旗印の「瓢箪」は、養老の「瓢箪伝説」と「鉄」で繋がるのです。
秀吉の瓢箪のルーツの各務原も「鉄」知られ、繋がる事からも、各務原の名が表す「鏡像の世界」と、養老の滝の水が酒になった上流の「不思議な世界」は、同じ鉄の一族の思想であったと考えられます。
ただ、秀吉の幼名「日吉丸」や、愛称の「猿」が、秀吉の死後につけられたことを考えると、
他者に、平将門や、菅原道真の伝説のように、秀吉は利用されたとも考えられるのです。
【不思議な施しを作った理由を考える】
では、何故、この様な不思議な施しをしたのでしょうか?
不思議な伝説や、配置は沢山見られるにも関わらず、そして、それらは、一つに繋がっているのに、それらが、何を指し示しているのか現れてはいません。
私の推測ですが、異界との繋がりを指し示している事だけは分かります。
犬山の遺跡で見つかった銅鏡は、魔鏡でした。
魔鏡は、太陽の光が反射し、壁に写し出された時、鏡の裏側の模様が壁に写し出されると言うものです。
私は、これを、「犬山、江南、各務原」、「養老、上石津」、「山王、金山地区(名古屋)」に居た一族の思想の象徴と思うのです。
養老の瀧の伝説も、魔鏡と同じと思われ、
その滝の裏側の上石津で、安倍晴明が修行したとされることから、この地に何かがあると思うのです。
この地も、昔は、「沢田」と言われていたのです。
金屋氏の痕跡が宗教施設と関わっていると思うと、それが、現れている場所が、豊川稲荷です。
養老の金屋氏は、猿の地(日吉地区)ですが、
豊川は、犬(狐/豊川稲荷)です。
犬山の白山平の鍛冶遺跡は、「犬山」から「犬」です。
これらから、魔鏡の思想には「犬」と、「猿」と、「鍛冶屋」が結び付いていると思われます。
また、こんな神社も関わっています。
金山城が在った可児市(岐阜県)にも、金屋氏の遺跡があり、この地は白鬚神社に守られています。
白鬚神社の本宮は、琵琶湖の西方の比良山地に在ります。
白鬚神社は渡来系の神社で、
その神社が多く見られる場所が全国に3か所ありますが、上記の平塚(神奈川)もその一つで、平塚には高麗神社などあり、渡来人の信仰が根付いている場所であるのです。
養老の人々も、渡来人が多くいた琵琶湖周辺から移り住んだとされ、東近江には、犬飼の姓のルーツの地、犬飼郡があり、犬の一族との関りが感じられるのです。
比良山系には、猿の日吉神社、比叡山延暦寺があり、
文頭で出てきた「日比」の「比」が見られます。
犬と猿が関係しているとしたら、古代エジプトの犬と猿が関係していると思われます。
それは、日置神社(名古屋)から夏至の太陽のラインを引いた時、猿の山王の地を幾つも通る事と、養老の日吉地区にある「御井神社」を通る事から伺えます。
御井神社のルーツが筑紫(北九州)にあり、筑紫地方の遺跡に描かれた絵は、エジプトの太陽の船の図と酷似し、古代エジプトの信仰が、「夏至の太陽の沈む」だからです。
エジプトの石室の王の棺の頭と足側に描かれているのが
猿と犬です。
猿のトト神と、犬のアヌビス神で、
トト神は、太陽神と共に描かれています。
トト神には特徴があり、
手を前に出しているのです。
このトト神は、大型の猿「ヒヒ」です。
「日比」の字そのものです。
また、比良(ひら)山系の「比良」は、「ヒヒ(比)」と、「ラー(良)」とも取れ、太陽神とヒヒが見えてきます。
豊臣秀吉の誕生の地・中村の日比津が「日比」の姓のルーツであるとされる事と、
養老にその人々は密集している事から、瓢箪で繋がりがあると思われるのです。
瓢箪伝説(養老) → 瓢箪の旗印の豊臣秀吉(中村)
瓢箪の形状は、二つの空間から成ります。
この空間は、妄想でしかありませんが、ここまで書いてきた事から、現世と、異界ではないかと私は考えます。
異界は、酒を飲んだ様な世界で表していると、養老の滝の瓢箪伝説から思うのです。
養老の地や、各務原や、豊臣の地では、人が酒を飲んだ時のようにトランス状態を招き、異界に導くのではと、私は空想的に考えるのです。
それは、養老の滝の伝説の瓢箪に入っている酒が表しているのでしょう。
酒は、水と米から造られます。
米が「88」を秘めている事が、
裏養老(上石津→古くは沢田)と、八十八夜にうまれた私を引き付けるのです。
秀吉の猿と、瓢箪に、謎解きのヒントを埋めたとすると、もっと具体的なものに繋がると思うのです。
そう考えていた時、タイミング良く、ブラタモリで養老を放送していたのです。
そして、上記で書いた古代エジプトとの繋がりを、養老の滝の酒から露になるのです。
それは、「酒の字に酉が使われているのは・・酒の正体」の次回の記事で。