秀吉と、清正の、不思議な鉄とのつながり | パオンのブログ

パオンのブログ

最初から続いている不思議な話です。
読まれていない方は、ブログのテーマ・「まとめ」から
読んで見て下さい。

私は、豊臣秀吉や、加藤清正の生まれた地に住んでいるにも関わら

す、歩いて5分もかからない場所にある記念館に行ったのが、先月が

初めてでした。

それは、豊国神社のある公園内にあり、その公園の東側に、秀吉の産

湯に使った井戸があり、それと並んで、清正の誕生の地に建つ妙行寺

もあります。

妙行寺は、除夜の鐘を突きに行くぐらいで、そのお寺の様子など気に

もしませんでした。

今、私の不思議に、秀吉が絡んできています。

数日前に、熊本城のトレビアを扱ったTV番組を見ていたら、秀吉が来

城した時の為に造られた「秀吉の間」があるのを知りました。

加藤清正が、いかに、秀吉を信奉していたかが分かるものでした。


肥後の佐々成政が、秀吉の怒りに触れ切腹させられた後、その領地を

清正は、秀吉から与えられたのでした。それは、
清正、27歳の若き時

でした。

秀吉と、清正の強い絆を感じます。

この二人について何も知らないので、調べれば、もっと不思議なつなが

りが現れるのではと思い、早速、
妙行寺と、秀吉・清正記念館に行って

みました。


[加藤清正/
妙行寺]

妙行寺に着いた時、外に、ご住職がおられたので、少し質問をし、写真

撮影の許可を貰いました。




妙行寺縁起

1200年末期に真言宗から日蓮宗に改宗。

清正公が亡くなった時、この寺と関わりのある肥後国(熊本)の本妙寺

の日遙上人(にちようしょうにん)が、清正公の像を彫り、それが、この

寺の清正堂にあります。(年一回のご開帳)

日遙上人は、高麗遙師(こうらいようし)と呼ばれていました。

この上人の父は、
秀吉朝鮮出兵の折、清正に捕えられて、朝鮮か

ら連れて来られた「余」と言う人物
で、上人12歳の時でした。


その後、帰国せず、上人24歳の時、出家して、日蓮宗の僧侶になった

のでした。


清正と、日蓮宗とのつながりは、この上人との繋がりだけではなく、そ

れは、母(伊都女)の影響が強かったとされ、娘時代から日蓮宗を信

心していて、母と二人だけの貧しい生活の中であったためか、信仰を

心の支えにしていたと思われ、それが、日蓮宗を強く信心させたのかも

しれません。


朝鮮との戦いで、秀吉軍は、朝鮮人の耳や鼻を削いで、それを戦果と

して持ち帰りました。

ですから、捉えられて連れて来られる人達は、それなりの能力を持った

人達でした。

例えば、有田焼の職人などが知られています。

その人達は、自由の身になっても帰国しませんでした。

日本で優遇されていて、戦いで荒れ果てた故郷に帰るより、日本にい

た方が生活する上において、良い環境だったからでした。

日遙上人が帰らなかった理由として、清正公の仁徳に引かれて帰らな

ったとされていますが、何かの能力があり、優遇されていたのかもしれ

ません。

妙行寺ご住職は、
日遙上人の父は、身分の高い人だったと言われまし

たが、その人の背景は良く分かりませんでした。


もし、日遙上人の父親が技術者だったとすると、子供がその技術を受

け継ぐのが自然だったと思うのです。

しかし、それは見られません。

日本宗教界に身を置いた事とを重ねてみると、どうも、しっくりこないの

です。

清正自身が学ぶべき事が、捉えられて連れて来られた「余」と言う人物

に、あったのではないかと思うのです。

それは、技術ではなく、個人が持つ知識など、伝承していくものではな

かったのではないでしょうか。

突拍子も無い考えかもしれませんが、例えば、別世界へのつながり方

などや、西方より伝わる秘伝などや、あるいは、妙見信仰の隠れたも

のを知っていたのではないかと、今、私が紐解いている不思議から、そ

んな風に思ったりもします。

それは、朝鮮貿易の入り口であった、対馬の万松寺にある亀鶴の具足

と、徳川家康の墓の正面にある亀鶴の具足が、共に、朝鮮から贈られ

もので、その具足を日蓮宗が使っているからです。

また、日蓮上人の祖先は、井伊とされ、それを紐解いた時、それは、朝

鮮半島の北に、昔、存在した東夷(とうい)と言う国とのつながりが感じら

れました。

この事から、日遙上人にとって、日蓮宗の思想は、慣れ親しんだ思想

だったのではないかと推測するのです。

これ以上は、想像域を遥かに超えてしまいそうなので、ここまでとしま

す。

[清正の略伝]

清正の父(清忠)は、美濃の斉藤道三に仕えていましたが、内紛のた

め、秀吉の中村にやってきました。

そして、村の鍛冶屋清兵衛と出会い、鍛冶技術を学びます。

その後、この
清兵衛の娘(伊都女)と結婚するのです。


秀吉の正妻の「ねね」の姉は、清正の母・
伊都女の、義理の妹なので

す。

このつながりを書くと長くなるので省きます。

「ねねの姉」は、鍛冶屋
清兵衛に養女として貰われ、海部郡津島の鍛

冶屋五郎助の妻となります。


そして、清正の両親は、この鍛冶屋五郎助と同居します。

秀吉・清正は、鍛冶屋に縁があり、隣同士の関係でもあるのです。

こうも、うまく鍛冶屋と絡むのでしょうか?


秀吉は、前にも述べましたが、長浜で初めて城持ちになり、姫路城の

城主にもなりました。

共に、とても不思議な場所で、鍛冶屋が関わっている場所でもありまし

た。

鍛冶屋は、以前に紐解いたように、白山と関わっていました。

白い姫路城も、一つ山祭りが古くから行われている事からも、白い山と

言えます。

これで、秀吉にも、白山の下地が揃いました。


[加藤清正の紋]

戦果を上げた清正は、秀吉から、肥後と、讃岐のどちらの地が良いか

尋ねられ、「肥後」を選び与えられました。

その時、27歳と若く、城持ちになるのには、色々な調度品が不足して

いました。そこで、秀吉は、讃岐を納めて取り潰された尾藤家の調度品

を清正に与えました。

尾藤家の家紋が桔梗と、折墨(おれずみ)だったので、加藤家の蛇の目

と、一重菊の紋を合わせて、使い分けていました。蛇の目紋は、文字

通り、ヘビの目を表し、呪術的な意味合いを持ち、戦いの時に使用しま

した。

蛇の目(丸)と、桔梗をあしらった鉢


戦いの時の馬印に、日蓮宗のお題目、「南無妙法蓮華経」を書いた旗

を用いたほど、信仰の強さが伝わってきます。

この日蓮宗を信心している清正を良く見てみると、不思議なものが見え

てきます。

それは、次回に。