前からのつづき
[喬木村の謂れ]
喬木村の謂れを役場に問い合わせましたが、「中国の詩経」から、この名前を付けたとしか分からないと答えられました。
それらしき詩経を見つけました。
南有喬木
不可休息
漢有游女
不可求思
・・・・・・・・・・・
と言う物です。内容はと言うと、
『南に高い木が有り』から始まる詩で不可求思
・・・・・・・・・・・
と言う物です。内容はと言うと、
『川の向こうにいた、見初めた女を妻にできぬあせりと、もしも女を妻にすることができたなら、何でも望みどおりのことをしてやろう』と、男心の切なさを歌ったものです。
何故。陰陽道の地で、名前にも一番重要な「たかぎ」を用いて、わざわざ、詩経から村の名前をつけ、このような意味がつながらなない内容のものを選んだのでしょうか?
何故、「南」と方向を示す必要が有ったのでしょうか。
川の向こうだけで良かったのではないでしょうか?
南には、隕石クレーターの出口があったからではないでしょうか。
そして、天竜川を障害としていた事は、地下世界の者達には結界だったのかもしれません。
私は、この詩を見つけた時、背筋が寒くなりました。
意味が、もっと理解できたからです。
これ以上、この詩の内容の説明はできません。
すごく、複雑に組まれたパズルです。
やはり、「喬木」は「鏡に写った橋」を意味し、「別世界への架け橋」に
相違ありません。
私は、橋を架けてしまいました。
そして、我が家の周りには、数件離れた場所に同姓の人がいます。
私もですが、この同姓の人も「高木」と関わっているのに、昨日気が付きました。
そして、それは、山王信仰の形のようで、一光三尊像そのものだと感じました。これも、はっきりとしたものは個人情報の観点から表せません。
それは、マヤの世界樹と似ていて、山王信仰の「山」の部分を三つの如来が並んでいるようで、「山」の字が示すように、底の横棒(地上)で結ばれているかの様に並んでいます。
真中の一体が「王」の部分を表して、天界・地上・地下世界を結んでいると、私は想像しました。
両脇の如来は、各々「神の桑(高木)」を持っていて、桑の木の枝の上に桑の木があると言う構図が、両脇の私の名前に「高木」が有る事からも分かります。、
前振にも述べましたが、他の地域の私と同姓の人が多く住む地域は、私の知っている限りは結びついています。
我が家の墓の北に有る川の向こうの各務原にも、このつながりが見られます。
その意味が今理解できました。
そして、我が寺に、善光寺の『一光三尊像』が安置されているのかも理解できました。そして、そのお寺の山号の持つ意味も、その地の名前からも、そして、私の祖先にも総てつながることに驚きました。
飯田の地は、松川と天竜川が交わった場所。
京都の賀茂の配置と同じです。妻と私そのものなのです。
喬木村(たかぎむら)の隣の泰阜村(やすおかむら)は、上記で「泰太村」であると書きました。泰(やす)は安(やす)であり、易(やす)であると推測しました。
本多善行の「多」は、前にも述べましたが、「夕」+「夕」から作られています。「夕」は、「三日月」を表します。「三日月の国」と言えば、「トルコ」や「ウズベキスタン」の国旗にも用いられています。「安国」と呼ばれる国はこの辺り、島根の安来にも、愛知町にも「三日月」が見られ、秦氏も「弓月の国」から来たとされます。
「泰太」の字は、字を入れ替えれば「太泰」になります。「太秦(うずまさ)」の字に似ています。こじつけ気味ですが、太秦には、木嶋神社があり、「蚕神社」と呼ばれています。
蚕は、桑です。
そして、京都の太秦にも、泰阜にも近くに「水晶山」が有る事も、私が
太秦にした理由です。
ヤマトタケルと同じように、この木嶋神社も幾つもの呼び名が付いています。神道の特徴みたいです。
信州は昔、蚕農家が多く有ったことからも、桑信仰を表していると私は思っています。
蚕神社にある三柱鳥居は、私の書き始めた頃のブログに、浜松の渭伊天白磐座遺跡の三角の三つの岩が三柱の原型と推測しました。
秦氏の根幹の思想は、「桑信仰」で有る事は、間違いないはずです。
つづく