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今回は九州大学大学院教授の「いわゆる渡来説の今」の紹介。

田中さんは考古学と人類學の両方をこなせる両刀使いで、このテーマにぴったりの人。


現日本人が渡来人からなるとの説は江戸時代からある説で、戦前戦後ともこの説が支配的であった。

戦後この説を人類学からさらに強化主張したのが金関説で、考古学者との論争で、男性中心に渡来、混血し、中心的人種となったとする。


その後金関説にのって人類学者のなかには、1.000年間に100万とも300万人とも言える人々が渡来してきたと唱える者も表れる始末の状態に、それは本当かとの疑問をもつ。


結論的には氏は渡来人の数は予想外に少ないと考えられ、それが縄文人の少ない玄界灘沿岸の縄文人と混血して「渡来的弥生人」となり、それが各地に農耕とともに拡散して更に現地縄文人と混血して「弥生人」となったと考えている。




今日は三阪一徳さんの「土器からみた弥生時代開始過程」の紹介をします。


三阪さんは現在九州大学大学院博士課程在学中で、韓国留学経験はもちろん、今も韓国を行ったり来たりして、日韓土器の比較研究を続けています。


 氏の研究によれば、突帯文単純期に半島土器の形態的影響が顕著に見られるようになるが、しかしその製作技術は縄文的手法によっていると言う。つまり、縄文人が自らの技術によって半島的土器を作ったという。こうした変容形が中心であるが、数少ないながらも、半島的形態と技術をもった土器もある。それらは唐津・糸島など玄界灘西部に多く、早良・福岡に少ない。


板付Ⅰ式土器前後になると、むしろ半島的技術による土器が増加するが、今度はその形態は変容した物で、これは半島技術のダイレクトな影響というより、前代の技術伝統がもちこされたとみている。


列島に影響を与えた半島土器は嶺南地方南部から湖南地方東部と考えている。



今日は

端野晋平さんの発表概要をおしらせします。

演題は「渡来文化の形成とその背景」


端野さんは九州大学大学院を経て、現在岡山大学埋蔵文化財調査研究せんたーの助教です。

当然韓半島への留学経験もあります。


列島初期農耕段階を渡来文化の関係で二段階に分ける。

第一渡来は縄文晩期前葉から中葉(韓国青銅器文化の早~前期)で、水稲農耕の試行的段階とする。

第二渡来は晩期後葉(韓国青銅器文化中期)で、水稲農耕が本格化するとする。


この第二段階文化韓半島の中西部に発したものが在地文化の規制を受けながら変異し、南江流域や金海流域に到達したものが列島に伝わったとする。


その伝わる、切っ掛けとなったのはどちらの段階も韓半島の寒冷化に対応してとのことである。


いろんな意味で興味ある見解であるが、その実証性についていろいろ議論をよびそうだ。