しもちゃんのブログ -18ページ目

しもちゃんのブログ

ブログの説明を入力します。

愛媛大学東アジア古代鉄文化研究センターと瀬戸内海考古学研究会の共催になる表記の講演会が1月26日に愛媛大学交友会館で開かれたので聞きに行った。


歴博が主導するC14AMSによる年代論に対し、矛盾の指摘、批判、提言など多方面から論じた内容で、実に興味深く、有意義な話で、聴視者皆聞き惚れていて。


・大気中の炭素14比が高緯度、高層圏に高く、低緯度、低層圏で低いなど地域偏差があり、中緯度圏の日本などそれを無視して世界較正曲線に無原則に乗れない。世界較正曲線は高緯度の樹木をもとに造られていて、日本とは条件を異にしていて、その差を無視できない。


樹木差もある。



・海洋リザーバー効果は当然のことでこれも地域偏差があり、生活に於ける海洋環境の傍では年代は古くなる。


・同じ層にでる果核や種子と土器付着炭化物には年代差があり、炭化物に古い値がデル。付着炭化物は汚染が著しくこれが年代を狂わせているとして、このコンタミ(汚染)を除去して、正しい、信頼できる値をだすべきだと実に豊富で、多彩なデータを提示して提言する。


・氏はこうした疑問、疑惑をクリアーして信頼して使える年代値を出すべきだと、C14AMSは使えるようになることを願っていた。


どこかと違って、誠に真摯な学術的姿勢を貫く立派な人物と見かけられた。


ややもすれば、人間関係や組織関係、寄らば大樹の逃げ込み安心論なんぞによって、何が問題なのか承知もせずに歴博AMS年代を鵜呑みに使っているのが類書、一般書にも見られるが、こんなの混乱のもと。


一度、新井さんの提言に十分耳をかたむけた上で、どう対処するか考えるべきである。


上品に書きましたが、問題が多すぎる。


大洲市は大洲城の整備を進めているが、二の丸西曲輪の発掘で武者走りや武具櫓跡などを発掘している。


この武具櫓のあとから、方形と三角形の目釘穴をもつ板瓦が出土していてその一部に漆喰やその痕跡が残っていた。漆喰は瓦と瓦が接する目地の上や釘穴の上に限られていることから、これはナマコ壁に使われたものと想定された。


城の古図を見ると、御武具櫓の外壁にナマコ壁の状況が描かれており、古図と発掘が美事に一致している。大洲城でなまこ壁が描かれているのはこの櫓だけで、何か特別の扱いを受けていたものかもしれない。ナマコ壁は一般的には防火防水や匠意を目的に営まれるらしいがそれに相応しい扱いを受けていたかもしれない。


伝建などに残るナマコ壁は目地だけに塗るものが多いが、ここでは釘の上全てに饅頭型漆喰を被せており、意匠はいっそう賑やかである。方形板瓦では4ヶ所、三角板瓦では三箇所の饅頭がのっている。
しもちゃんのブログ
三角形板瓦

左辺と上辺の目地に漆喰の痕跡、左上隅に目釘穴、右端と下端の白く丸い漆喰は釘の上に乗る意匠

最終回は下條信行氏の「生産具(石斧)からみた稲作開始期の農耕荷担者」です。

下條氏は愛媛大学名誉教授で、今も準現役的な日々を過ごしているらしい。


九州大学のあと、福岡市教育委員会、古代学協会(平安博物館)、西南学院大学を経て、愛媛大学とあちこちを転々。


考古学が渡来人問題に参戦するのは大正の前半期で、その時から今日まで、大陸から伝わったと考えられる新しい磨製石器の故地探しと評価が中心的課題であった。ことに農耕に関わる石斧類が中心であった。

 その成果を総括する形で総合評価がなされたのは昭和10年代前半で、「これら石斧類を使う農耕従事者は渡来人」であると。それいご、この路線は堅持され、戦後はさらに強化されて今日に至り、今でも本屋さんにはこうした見解の類書、啓蒙書が売られている。


しかし実は昭和10年代後半にはこの説、特に伐採石斧の認定に関して異論がだされていた、長らく等閑視されて来たが近年の膨大な新資料はこの異説が正しいことを証明している。



簡単に言えば、列島において初期水稲耕作が展開されるに際し、半島に高度に発達していた身の厚い伐採斧は受容さえず、縄文系譜の石斧対応していた。大地を開き、造田し、また住地を開発し、多量の堅い用材を確保するにもっとも必要な武器は伐採石斧であるが、それに適した高級品ををわざわざ受容せず、薄くて軽い縄文系石斧と使うのが在地人を置いて他にはありえない。

また、こうした石斧を使うので半島の高速開発システムを導入できず、スローな開発に留まっている。


こうしたことから、開発現場、労働現場で中心的に農耕実践を行ったのは縄文人で、「これら石斧を使っての農業従事者を渡来人」とは言えないのである。


もっとも列島の初期水稲耕作を進展させる農耕総体に於ける、渡来人の役割については、別の角度から評価する必要がある。



なお、シンポのコーディネーターを務める溝口孝司氏は九州大学大学院教授であるとともに、世界考古学会議の第6代会長でもある。