こんにちは。

 

本記事をご訪問下さいまして、ありがとうございます。

今回は不信仰からの脱却を目指して生きると題して、記事を書きます。

以下のような記事構成にしております。

 

〇正しさを見出すことに労をかけるすすめ

〇大衆の視点の問題

〇世を愛すること(不信仰)は罪の源。不信仰は神からの選びと本人の行動によって改善できると考えられる

〇聖書を読んでどう感じるか、自分の思いに正直であるべきこと

〇悪霊が人に与える悪影響を侮らず、正しい行いを継続する

〇世と世にあるものを愛する偶像崇拝の報いをどう捉えるか

〇結び

 

拙文ですが、宜しければお読みください。また、宜しければ、記事のご感想や記事の内容は聖書が述べている事と違うのではないか、等の御意見など御座いましたら遠慮なく御寄せ頂けますと幸いです。

 

〇正しさを見出すことに労をかけるすすめ

 

以前の記事でも正しさについては辞書から引用させて頂いていますが、改めてgoo辞書より「正しさの意味」について部分的に引用します。

  1.  道理にかなっている。事実に合っている。正確である。「—・い解答のしかた」「—・い内容」「公選法は—・くは公職選挙法という」「—・いトレーニング方法

  1.  道徳法律・作法などにかなっている。規範規準に対して乱れたところがない。「行いを—・くする」「礼儀—・い態度」「—・い判決

こちら(goo国語辞書)より引用

上記の通り、1.3では道徳・法律・作法などにかなっている。規範や規準に対して乱れたところが無い。という内容が書かれています。

生きている中で、これらをいつも守ろうと意識して日々生きている人は少ないのではないでしょうか。また、正しさといっても各人が思う正しさはそれぞれ異なりますし、今の政界を見ても憲法違反を堂々と犯し、不義を働く人々が悠々としている状況やこの欲望を唆す世界の中では、正しく生きていくのは馬鹿らしく思えてしまうかもしれません。まさに現代社会は、「正直者がばかを見る」という状況ではあります。しかし、自分もそちらに行っていい思いをしようとするのは愚かだと思います。そのような世の中に嫌気がさしている方、是非聖書を読み、公明正大な神の律法を知り、真理を知り、各人の行いに応じて必ず報いて下さる神がいらっしゃることを知って頂きたいと思います。その正しさへの理解を深めること、且つ右にも逸れず左にも逸れず正しい行いを継続するのは人間にとって当然やるべきことではある一方、決して平坦な道ではないです。しかし、いずれは誰もが手放さなくてはならない金銭、名声、快楽を優先することなく、永続する品性を身に付けることを目指して頑張ることを勧めています。

 

〇大衆の視点の問題点

正しさの意味は、上記にてgoo辞書より引用した通りであり、キリスト者を目指す人は、まさに道理や規範を重んじること、法(神の律法)に忠実に従うことを学んで生きています。聖書は真理であり宗教ではないと知っているからです。しかし、キリスト者を自称する人達の多くが、信仰に行いは必要ない、現代では十戒を守るのみで十分だという類の発言をしている事を目にします。それも聖書を真摯に読んでいない、またカトリックやプロテスタント由来の偽りの教義を鵜呑みにしていることに起因しています。自身で聖書を確認する癖をつけて、聖書的根拠にかける多数派の妄言を都合のよい解釈だけを信じないようにする必要があります。また、周りを見渡して不信仰者で溢れている状態を見てそれで安心してしまうことも問題です。権力者や多数派の状況を見て安易に信用してしまうことは問題です。何を正しさの拠り所にしているかで導き出される答えが変わります。大衆の視点の問題点を考える為に、主イエスがこの地で活動された当時のユダヤ人達の様子について見てみます。

主イエスがこの地で活動された当時、ユダヤ人達も神への信仰があり、律法を守っていると自認していたと思える節があります。ユダヤ人達はアブラハムを先祖として考えており、また神がただ唯一の父ですと話している(ヨハネによる福音書八章三十九節、四十一節三章参照)ことから彼らには旧約聖書の知識がある程度あり、形式的に律法を守ろうとする意思はあったのではないかと思われます。しかし、主イエスから罪を犯す者は罪の奴隷である。ヨハネによる福音書八章三十四節参照)、あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている(ヨハネによる福音書八章四十四節参照)、私の言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞く事が出来ないからだ。(ヨハネによる福音書八章四十三節参照)等、ユダヤ人達に悪意があることを見透かされ、その点散々に非難されました。ユダヤ人達は権力を持たない主イエスを、救い主だと捉えずに、直言に対して怒りを覚え、罪を正しく認識せず抱いている思いを改めなかったようで、石を取り上げ、主イエスに投げつけようとしました。(ヨハネによる福音書八章五十九節参照)懲らしめを憎む人は愚かである(箴言十二章一節)と書かれているように、相手を思っての指摘に対して、指摘の内容を吟味して真っ当な非難を受け入れないことは悪いことだと思わされます。ユダヤ人達は、更にアブラハムが生まれるよりも前から私はいる(ヨハネによる福音書八章五十八節参照)という御言葉から、神を冒涜していると受け取って、律法に則り石打ちの刑を執行すべきだと彼らの正義感に燃えていたように見られ、その非を疑わなかったようです。

自らがこの時代に行って、果たして主イエスの正しさを理解できたのであろうか、どのような行動をとっただろうかと考えさせられますが、これらの主イエスの御発言の直言さやユダヤ人達の抵抗から、彼らは本物の慈愛が何かを理解しなかったことは分かります。

現代に目を移すと、当時のユダヤ人達とは異なり、不信仰な生き方が圧倒的多数派の生き方となっています。絶対に起こり得ないことですが、主イエスが日本人の大勢の前で説教したとしたら、今の日本人はどんな反応をするでしょうか。殺意は持たないとしても多くの人は不信仰の目線で誰とも知らない人が教えを説いても、無関心で聞く耳を持たないとか、陰で嘲笑する等するのではないでしょうか。人に対する無関心さや嘲笑は、その対象への本当の愛がない証明でもあります。

愛する対象について注意すべきことと、あらゆる不純な思いを戒める為、十二使徒の一人のヨハネは次のように述べているので記載致します。(偶像崇拝という直接的な単語を使っていませんが、偶像崇拝について、欲について、戒めを理解できる聖句があります。)

 

世も世にあるものも愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にはありません。なぜなら全て世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。(ヨハネの手紙一 二章十六節)

 

また、ヨハネの黙示録二十一章八節において、偶像崇拝の報いは火と硫黄の燃える池である、それが第二の死であるとも伝えています。(あくまで偶像崇拝は律法違反の一例であり、その他の律法違反についても悔い改める必要がある事に注意。)

 

〇世を愛すること(不信仰)は罪の源。不信仰は神からの選びと本人の行動によって改善できると考えられる。

 

使徒ヨハネは「世と世にあるものを愛してはいけない」と強調しています。目の欲、肉の欲、生活のおごりは世から出るものであり、御父(神)を起源としない。ということも述べられています。確かに、世と世にあるものを愛することをやめない限り、欲望が生まれ、結果、罪に打ち勝つことは出来ないと個人的にも強く実感します。しかし、罪の報酬は死です(ローマの信徒への手紙六章二十三節参照)から、人としては世と世にあるものを愛さないよう出来る限りの配慮をするべきです。また、一方では、主イエスが、わたしに繋がっていなさい。わたしもあなたに繋がっている。ぶどうの枝が、木に繋がっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしに繋がっていなければ、実を結ぶことが出来ない。(ヨハネ十五章四節参照)と仰り、神に繋がっていなければ、神の目に善しとされる実を結ぶことは出来ないという趣旨のことを仰ったことにも着目します。この聖句で使われている「実」のギリシア語はκαρπὸνで、「実」の意味以外に、「仕事、行い、神への感謝の捧げものとしての賛美」等の意味がありました。主イエスと繋がっていなければ、神に認められる正しい行いや仕事が不可能である、反対に主イエスと繋がっていれば、神に認められる正しい行いが可能になると考えると、意味が繋がります。

従って世と世にあるものを愛さないという思いや行動も、人単独での達成は絶対に無理である(出来ていると思っても単なる思い込みである。)と思われ、神との繋がりを持たせて頂いてはじめて達成可能な状態となると考えます。そして、神との繋がりを持つ為には、人が神を選んで繋がるのではなく、神が人をお選びになっているから人は繋がりを持つことが出来るようです。詳しくはミカエル氏の記事神の救いは予定か人の自由意志か | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)をご覧になってください。

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。(ヨハネによる福音書十五章十六節参照)と主イエスは使徒達にお伝えになったことからも、人である使徒達が神を選んだのではなく、神が人を選んでいることが分かります。

人間の視点だけでは自分は信仰を持っているのに、自分が神から選ばれないなんてありえないと思いたくなりますが、ただ冷静になって考えてみると、造られた立ち場である人が神を選ぶという発想自体がおこがましいと思えてしまいますし、人間の恋愛関係に置き換えてみて、どれだけ相手を好きになって頑張っても、相手が振り向かなかったら関係は成り立たないことを考えると、神の選びなくして、真に人の信仰は成り立たないと言えるのではないでしょうか。

加えて、主イエスはわたしが父の掟を守り、その愛に留まっているように、あなたがたも、私の掟をまもるなら、わたしの愛に留まっていることになるだろう。(ヨハネ十五章十節参照)と仰り、神の掟を守ることを条件として付されています。神に愛されて神の掟を守り続けられる人は稀有な存在であり、何と幸いなのだろうかと思います。ただ人間としては、最大限、神の御考えを追求して行おうとすることは出来るのではないでしょうか。

少し話はそれますが、神の掟をまもっていなくても不信仰でも人から見て善人にみえる人もいますので、信仰が無くても立派な人もいるという意見もあると思います。しかし、「人々の間で高評価なものは、神の御前では嫌悪やからや。」(ルカ十六章十五節ミカエル氏訳悔い改めへん者は罰せられる | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)より引用)と言われているように、世を愛する人々が評価するもの自体が神の目には悪とうつることがあります。明らかに神と人では評価の対象に違いがあることに注意が必要です。人が高く評価するもの、例えば富、権力、名誉等は神が厭われることです。人は自分がこの人だと思う人に、富や権力や名誉を与えますが、不当な評価形態によって与えられることが多いです。また、それらを持つことで誇り高ぶりや不信仰の原因ともなります。歴史的にも争いは自己利益確保の為に起こされています。改憲問題 | キリスト道 (themedia.jp)の後段の「・戦争は銀行家の企みで政府間の衝突はヤラセ。」を御覧頂ければ、そのことが分かると思います。人間的視点だけに頼ると、どうしても身内や自分に偏った評価になり公正さが失われ、争いを避けられない例であり、信仰なき人間が完全ではないと言える所以です。聖書にも、あなたの全き心で、主を信じて、あなたの分別に頼るな。全ての道において、神を認識せよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにしてくださる。(箴言三章五節、六節参照)と書いてある通りで、人間の分別を正しいとみなすより、自らを弁え、神がどう思われるかを考えて行うことが大切ではないでしょうか。

 

〇聖書を読んでどう感じるか、自分の思いに正直であるべきこと

神の御考えを追求して行うには、神の御考えが書かれた聖書を正しく理解している必要があることは言うまでもないことです。しかし、世俗的常識を正しい前提として考えてしまうと、聖書を正しく理解することを妨げます。また一方では、世俗的常識を抱えているからこそ、聖書を読んで抱く率直な思いも避けては通れないもので、聖書や正しい聖書解釈をしているミカエル氏のブログやミカエル氏の兄弟達のブログを読んだ読み手がどう感じるかは、その人の感性によってかわってくると思います。

例えば、上記のヨハネが述べたことで世と世にあるものを愛する人には、御父への愛はありません。という内容を読んだり、世の価値観を重んじて生きる問題点があると指摘されたところで、不信仰で世俗のことに興味がある人にとっては、全く歯牙にもかけない内容なのかもしれません。なぜなら愚か者は心の中で言う。「神はいない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。(詩編十四編一節)と書いてあることが根拠です。この聖句を含む詩編十四編は、単に事実を述べ、ダビデの悪を憎む気持ちと神にのみ救いを求めている気持ちが綴られているように私は感じています。決して愚か者と言って不信仰者を見下す為に述べられている訳ではないです。個人的にも不信仰者を見下す為に聖句を書いている訳ではなく、気付きを得て頂くために書いています。そこは誤解をしないでいただければと思います。

 また、ある人は、ヨハネが述べた聖句を辛辣な内容と感じて聖書から目をそむけたくなるかもしれません。私の場合は聖書を読み始めた時には辛さがありました。自身も罪深い者の為、聖句を心の中では認めたくない気持ちがあったのです。心から、ありのままの自身を認めることが出来なかった経験が、かえって自己愛がある証拠となり、主イエスが仰った「わたしについてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ十六章二十四節)と仰ったことが出来ていないと理解した例です。なお今でも自身の至らなさを噛みしめる日々です。

また、真の聖書福音と預言の執筆主であるミカエル氏は、真の聖書福音と預言 【第七回】何故聖書を信じるか Bible, Jesus Christ, The true biblical Gospel and Prophecy (bitchute.com)の動画の中で初めて福音書を読んで主イエスキリストこそが真理の御方やと強く感動したと述べています。この動画を視聴した時、義人とは聖書をはじめて読んで、このような感想を持つのだなと驚いた記憶があります。このように、聖書は間違いなく、読み手が義を強く切望しているのか、欲望のままに生きていたいのか、また信仰か世俗の道を歩むか迷いある状態にある(ただし、そのままでは世に打ち負かされてしまう)か、よく分かる書物です。聖書読者は背伸びをせずに現在の自分の状態を正直になって把握することは大切です。問題点をあぶり出し、改善出来るようにする為です。

あくまで私の一個人としての経験から申し上げれば、聖書を読んで、自分が出来てない事柄があり、耳が痛いなと思うことがあったとしても、書いてあることに理解を示せる箇所があるのであれば、神は貴方を信仰へと招かれているのではないでしょうか。決して信仰は強制されるものではありませんが、よく検討してみて頂けると幸いです。

 

〇悪霊が人に与える悪影響を侮らず、正しい行いを継続する

次に悪霊が人に与える悪影響を侮らないことについてです。物事が自分の思い通りに行ったり、うまく運んでいるとき調子に乗って失敗してしまうことはないでしょうか。正直、私はあります。無意識に油断してしまうことがあります。これは私自身の問題でもあり、悪霊に付け入る隙を与えてしまっていると思います。

ヤコブが述べた人は夫々、自分自身の悪い欲望にひかれ、唆されて、誘惑に陥る。という言葉の通り、聖書を読んで知識をつけたり律法を守りはじめる生活をはじめても、決して油断は出来ません。人の欲望や願望が最初は小さくても悪魔に付け入る隙を与えるためです。誘惑の原語はπειράζεται で、この原語には「人の資質、考え、どのように振る舞うかを試すこと」という意味があるので、欲望が結果として人を悪い方へと向かわせることをヤコブは述べています。ヨハネが述べた世も世にあるものも愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にはありません。なぜなら全て世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。(ヨハネの手紙一 二章十六節)という戒めとヤコブの戒めは人間の欲を戒めていることが共通しているなと思います。

悪魔については、この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。(ヨハネの黙示録十二章九節参照)と書かれているように、人の信仰を試し、全人類を惑わす程の存在であり、人間の気の緩みが命取りになるのです。悪魔はアダムとエバが生きていたころから既に存在している霊的存在で、エバの欲を唆して巧みに騙しました。エバは禁じられた果実を食べ、またアダムもエバに同調して禁じられた果実を食べた罪故に、神が予め「ただし、善悪の知識を与える木からは、決して食べてはならない。食べることによって必ず死んでしまう。」(創世記二章十七節参照)とお伝えになった通り、人類は必ず一度は死ぬ存在となりました。この時から、神は人が神に対して忠実に行動するかを御覧になっておられました。騙した悪魔は当然悪く罰を与えられるべき存在ながら、神に忠実でなかった人類にも不忠実の罪に対する罰が与えられました。悪魔は神によってつくられた被造物であり、数十年~長くても百二十年程の短い期間でしかこの世で生きられない人よりも、最初に人類を騙した存在ではるかに人について熟知していること、アダムがエバが実をくれたので~、やエバによる蛇が騙したので~という言い訳は神の御前で通用しなかったことを学ぶ必要があります。

現代では、聖書が悪魔の存在を言及しているに加えて、ネットが普及した現在、各著名人が悪魔崇拝をしていることを自白し、悪魔の存在は公知の事実になっています。しかしながら、多くの人が悪魔の存在を目に見えぬ故に架空のものと見做したり、本気で取り合おうとも調べようともしていない現状があり、まさに全人類を惑わす者と言う言葉通り、多大な悪影響を与えています。

地球球体説と地動説という大嘘と太陽神崇拝 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)でも例示されて言及されていますが、悪霊に惑わされると、聖書のことや世の中で起きている事実を、事実として捉えられない状態になります。心から事実を認めにくくなったり、論理的に考えることが難しくなったり、事実か否か自分で調べようという気が起こらない(もはや神や悪魔等いようがいまいが、どちらでもいいと思っている、死後のことなんてわからないからどっちでもいい等という状態)、人の欲望を大きくさせる等、様々な弊害をもたらすであろうと思われます。旧約聖書、及び新約聖書にも沢山の人達が悪霊に惑わされた失敗経験及び神に対する反逆事例が書かれています。しかし、生涯神に立ち帰らなかった顛末として一つとしていい結果に転じたことは一つとしてありません。悪魔や自分の自堕落さに対して、日々抵抗しなければ成長はしないものと思います。我々現代人は、誰でも聖書が読めると言う点、今はまだ戦争が無く信仰の自由も保障されているので非常に恵まれております。そのような中、先人達の失敗例に学ばず、不信仰で神の戒めに聞き従えないのなら、来るべき日に怒りを蓄えていると自覚をしておくべきではないでしょうか。(自覚しても行動が変わらないのなら意味はない)

しかし、反対に、聖書を読んで信仰者としてなすべきことを続けていれば、ペトロが、これらのもの(信仰、徳、知識、自制、忍耐、信心、兄弟愛、愛)が備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。(ペトロの手紙二 一章八節参照)と伝えている通り、キリスト者としての品性が整い、怠惰になったり、実を結ばないということは無く、主イエスの存在の確証を得るということです。それらが確実に達成出来るのは神から選ばれている人達だけである現実も忘れてはいけませんし、いつでも高ぶりには気を付けるべきですが、とても勇気づけられる聖句です。失敗を経験したとしても失敗を糧に一歩一歩、正しい方へと歩みを進めていかなければいけません。

 

〇世と世にあるものを愛する偶像崇拝の報いをどう捉えるか

世と世にあるものを愛する偶像崇拝の報いとして、死後には第二の死があることを聖書は伝えています。最初の方でヨハネが述べた聖句を紹介した通りです。第二の死は、人が死後の審判を受けた後のことであり、この時悔い改め及び復活の機会が無くなっており、第二の死は肉体の死のように一時的なものではなく永続する状態です。

この第二の死という点も人によっては最初から信じない人もいるでしょう。死後に苦痛が待ち受けているのは辛すぎると思えなくはないです。しかしながら、神が人を選ばれることを先にお伝えした通り、創造主であられる神が森羅万象をお決めになっている主権者なのであり、我々人が人間中心的な発想を変えていかなければならないです。

例を挙げると、憲法での主権者は国民であり、政府ではないです。現在その立ち場が実質的に完全に逆転しており本来もっと怒っていい状態ですが、正しい憲法理解をしている人は少ないようです。それと同様に主権者を神ではなく人にあると思っている点においても、本来の考え方として的外れということであり、その視点を正す必要があります。それと全能であられる神の視座と罪深い人間の視座が最初から同じであるはずが無い為、なぜ人間には第二の死という残酷な処遇があるのかを考えてみることも必要ではないでしょうか。現実逃避はいつでも出来ますが、もしも第二の死が事実だった場合、その警告を無視した報いは我々自身が刈り取ることになるのです。地獄が存在する理由と神の御性質を今一度、聖書から見てみます。

 

それから、王は左側にいる人達にもいう。「呪われた者達、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の為に用意された永遠の火に入れ。」(マタイ二十五章四十六節)

 

神は罪を犯した天使達を容赦せず、暗闇の中で縛り、地獄に引き渡し、裁きの為に閉じ込められた。(ペトロの手紙二 二章四節参照)

 

そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者達は昼も夜も世々限りなく責め苛まれる。(ヨハネの黙示録二十章十節)

 

その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。(ヨハネの黙示録二十章十五節)

 

以上の通り、悪魔と命の書に名がない悪人達が裁きの後に引き渡される永遠の場所が地獄であると聖書には書かれていました。熱い鉄板に少し触れただけで痛みを感じる人間としては、想像もしたくない場です。しかしこれらの聖句によっては、神は罪が無い世界を求められている為に元々は悪魔達の為に、次に悪魔に唆されて悔い改めなかった人達には厳罰を用意されていることも分かります。悪魔達が創造の秩序や律法に逆らっている為に地獄に引き渡されるように、創造の秩序や律法に逆らい悔い改めないことが人が想像出来る以上に神にとって罪深い行為であるということが分かる内容です。だから地獄が恐ろしい行先であることだけをもって、神は非情であると人間は断じることが出来ません。真実で正しきは神の裁きだからです。(ヨハネの黙示録十九章二節参照)いくらかの人がワクチンや気候変動詐欺に気付き始めて、支配層、政府、製薬会社、報道機関の悪事を強く非難しているのを拝見しています。しかし、彼らがワクチン接種の推進や気候変動詐欺をやめることはないことから、非難が功を奏しているとはいえませんが、そうした悪事が完全に消え失せる世界がくるのであれば、本来はその世界を喜ぶべきなのではないでしょうか。もし第二の死があることを想像したくないとすれば、他人の悪事は非難はする一方、自分の非は直そうとしない性質を人間は持っていると言うことはできないでしょうか。我々人間は辛い境遇になると、それまで受けていた恩恵や優しさを途端に忘れてしまい、辛い境遇やその境遇にした人を恨んだり、怒り出したりします。しかし、ヨブのような義人は、わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。と個人にふりかかった災難にも直情的にならず、神を非難されることはありませんでした。神の御決定に対して極めて従順な姿勢です。

先にも述べたように、御言葉に反して罪を犯したアダムとエバにも前言された通り、「死」という罰があり、人類は一度は必ず死ぬ存在となりました。ノアの時代も人々の悪を容赦されず、大洪水による罰を受けました。性的不品行が蔓延っていたソドムとゴモラもその罪に対する厳罰を受け滅びました。その他ユダ王国やイスラエル王国の王達も偶像崇拝故に、異国の民による激しい侵略を受け滅びました。彼らを侵略し破壊の限りをつくしたアッシリアやバビロンもその高慢さ故に滅ぼされました。十二使徒の一人のユダも主イエスを裏切った後に、後悔して自害しました。アナニアとサフィラも自らが売った土地の代金を、聖霊の力が働いている使徒の前でごまかしてその報いを受けました。これらの罰に悲しんでしまいがちですが、神に主権があることを忘れてはいけないです。真の目的は、人が神を正しく畏れさせ、神に立ち帰らせる為と考えられます。人間が不義を悔い改めることなくして、罰しないことは無い神であられるのです。主は忍耐強く、その力は大きい。主は決して罰せずにはおられない。(ナホム書一章三節)とも書かれています。

今の世の中は、殺人、窃盗、姦淫、偶像崇拝、同性愛等、神がやってはいけないと戒められた罪が無くならないどころか、益々増大している状況であり、神はそれでも人の悔い改めをお待ちになり忍耐されていると思います。しかし、その時がくれば主イエスは見よ、わたしはすぐに来る。わたしは報いを携えてきて、それぞれの行いに応じて報いる。(ヨハネの黙示録二十二章十三節参照)と予め仰った通り、主イエスは各人が生きている時に行ったことの報いを携えて再臨されます。審判を経て、ある人は、死後天で生き、ある人は、地獄にいき第二の死といういずれも永遠の報いを受けます。何故永遠であるかについては、肉体が朽ち果てた後でも霊は死なない性質(塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る/コヘレトの言葉十二章七節参照)で、神の御子を踏みにじり、御自分が聖別された契約の血を汚れたものと見なし、慈しみの御霊を侮辱する者は、どんなに重い懲罰を受けるに価するであろうか。(ヘブライ人への手紙十章二十九節)と書かれている通り、聖霊に言い逆らって悔い改めを拒み続けることは非常に重罪であるということだと思います。

弊ブログでも悔い改めることが大切だと伝えて参りましたが、私がミカエル氏のブログと聖書を読んで尚、ぐずぐずして悔い改めを先延ばしにしてきた事、その他の悪事を神がお赦しになるかはわかりません。しかし、その経験から、今までの行いが悪かったと認識できている方は、悪いと感じている行いを改めること、また先延ばしにされないように勧めております。ミカエル氏はいつ主イエスの恩寵が終わるのかは人には分からない(いつ真の悔い改めが出来なくなるかは人には分からない)故、悔い改めを先延ばしにしないことを最近の周囲の様子と大半の人々が陥る罠 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)の記事等で、聖書の内容に即して警告されています。是非読んでみてください。


〇結び

人は死に向かって生きています。寿命は男女共に八十歳代だそうです。最長寿でもこちら (gendai.media)のように、人の寿命の限界点は百二十才程度だと京都大学IPS細胞研究室所長山中氏が述べています。(新型コロナワクチン接種を勧めた人物であり注意すべき人物ですが。)彼が改めて人々に教えるまでもなく、過去記事でも創世記六章三節人の一生は百二十年となったとある通り、人の人生の長さの限界を御定めになったのは神であり、御定めになった時から現代に至るまで不変の事実です。進化論というまがい物の理論が近代になって誕生してからというもの、人々は猿から進化したと教えられ、それが当然だと思って生きている人が多いのは残念なことですが。

元々は人の寿命はもっと長かった(最長寿は九百才以上だった)のですが、百二十年にまで短縮されています。なぜ、短縮されたのかは創世記六章三節(新共同訳)には、主は言われた。わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。と書かれていました。一方で新共同訳と異なった底本を採用している欽定訳(KJV)では新共同訳とは少し異なった意味にとらえられるように書かれていて、そして主は言われた。私の霊はいつも人と争うべきではない。人は肉に過ぎないのだから。と訳せます。(יָדוֹן (ディン)には、戦う、争う、裁く、統治する等の意味がある為。)

霊が人の内にいつまでも留まることは無いことが定められている為、人は必ず死にます。必ず死んでしまう存在が、この世で生を受けた意味は何かを考えると、ただ無為に生きるのではなく、本物の神に感謝し、神を仰いで生きること以外に、正しい答えを得ることは出来ません。

ですから是非、悔いのない御決断をしていただくようにと願っています。

拙文ながら、最後までお読みいただきありがとうございました。