こんにちは。

当記事をご覧下さり、ありがとうございます。

本日は、「大衆との同化に気を付ける」と題して書いて参りたいと思い、聖書の記述を前提として考察を書きます。

まず、前提として、毎度申しておりますが、聖書(パウロ書簡を除く)には真理が書かれています。真理とは不変の真理と言われるように、本当のこと、誠の道理(広辞苑無料検索)であり、嘘偽りが混じっていないことを意味します。聖書の終末預言を読んで「神が人を滅ぼすのは酷い」という類の感想が出てくる事は人情といえるかもしれませんが、人情が聖書の真理を変えることはありません。自戒を含めて申し上げれば、人は神が予め決定された事項に対して物申しても、決して変更されることがない事を確り弁えておく必要があります。主観的な物事の捉え方によって理解を誤るからです。また、聖書の真理と世に溢れる宗教の違いは、聖書は人類の歴史書且つ預言書であり、過去の預言が外れたことが無いことです。よって、世の圧倒的多数派が聖書を読まない、または不信仰(神の律法を守らない)の状態でいたとしても、それを理由として、聖書を知らずとも問題無いと考えることが間違っていると分かります。最終的に世相が悪化しこの地は滅びることが定められている為です(人が必ず亡くなるように、この地にも終わりがある。)。過去も偽預言者達が、偽りの安心感を抱かせる発言を神からの預言として提供しましたが、それらは実現せずかえって厳しい現実を迎えることになった歴史上の失敗により、間違った安心感を他人に抱かせることはよくない行為と学ぶこともできます。ですから、この地が滅びる事が決定していますが、神は人に唯一の希望として神の律法を守って、罪を悔い改めるという道を残して下さったのであり、人はその道を選び、歩んでいくべきだと考えます。

聖書と神の律法を元に、安心感に浸っている隣人、自分を戒め、正しい認識に至るようにと、記事を書いております。神の律法を守るべきは旧約時代から今に至るまで変わらず、以下聖句の通り、神の律法の失念者に対しては、神が神の民として認知されないと、注意喚起されています。

お前が知識を退けたので、わたしもお前を退けて、もはや、わたしの祭司とはしない。お前が神の律法を忘れたので、わたしもお前の子らを忘れる。(ホセア書四章六節)

神に認知頂く為には、律法を覚えて守ることが必須です。

今回はルカによる福音書四章から読み取れる大衆の行動様式と現在の人々の様子とをあわせて考察しながら、律法を守らぬ不信仰な状態からどう脱却していくべきかを考えてみましたので述べて参りたいと思います。以下聖句をご覧ください。

 

ルカによる福音書四章十六節~三十節

 

イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある箇所が目に留まった。主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために。主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。

イエスは巻物を巻き、係りの者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」

イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うに違いない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れていき、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

 

ナザレの会堂に集まった人々は主イエスの出自を知っていたので、恵みの言葉が実現すると述べられたことに感嘆していました。しかし、旧約時代の預言者エリヤ、エリシャは誰に対しても恵み深いしるしを行わなかった事に話が及んだ結果、主イエスが、ナザレにおいて、いやしの業を行う意図が無いとわかり、様子が一転、憤慨して主イエスを会堂から追い出し、崖から突き落とそうとした描写です。ルカによる福音書に書かれた以上の描写はマタイ・マルコには書かれてはいませんが、ここではルカの描写を事実として考える事とします。当該聖句では、耳ざわりのいい話には好意を示し、益をもたらさない話や耳が痛い話には、態度を頑なにして聞こうとしない人間的性質が表れております。この人間的性質、いわゆる肉なる自我は、ナザレの人々だけではなく、悔い改めていない人間の誰もが持っている性質であると着目します。聖書から導き出される真理(神の律法を悔い改めることが唯一の救いである狭い道)を述べ、律法は正義、慈愛の掟という趣旨を説明しても、全く響かない事が多い為です。打っても響かない主たる要因は、内なる自我にあると考えられます。「受け入れること」が自分自身の為であるにも関わらず、初めから「関係ない、世の常識とは甚だ異なるしそんなはずはない、理解したくない、理解すると苦労しそうだ」等という苦難を避ける自我です。確かに、主イエスがあなたがたには世で苦難がある(ヨハネ十六章三十三節)と仰ったように、キリスト者が苦難を経験することは避けられません。しかし、苦難を避けていれば、人としての成長は止まってしまい、退化していくのみです。また、苦難を避けることによっては、何を得られるでしょうか。一時の肉の欲の満足を得てこの世では楽を得ることにはなりますが、一方では苦難から得られる鍛錬の機会を失うことにもなってしまいます。この世での満足と鍛錬も両方得られるという都合のいいことは起こり得ないのではないでしょうか。あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。(ヘブライ人への手紙十二章七節参照)と書かれており、主は御自身が愛される人を鍛えられますので鍛錬を受けることは非常にありがたい事です。鍛錬は、「厳しい修養によって、心身や技能を磨く」という意味がありますので、内にある自我が強ければ、この厳しい修養を避ける傾向にあるのではないかと思います。態度を頑なにしたナザレの人々の様子を見ても、凡そ似た性質を持っていたと推測されるので、上述した聖句から学べることを以下に書いていきます。

 

ナザレの人々から学べること一(不信仰の弊害と低い者として奉仕することの大切さ)

マタイ十三章五十三節~五十八節・マルコ六章一節~六節が上記ルカと対応する部分ですが、マルコによる福音書を見ると、ナザレの人々が不信仰だったゆえあまり多くの奇跡を御出来にならなかったと書いてあり、ナザレの多くの人々は不信仰だったことが窺えます。

ナザレの人々は不信仰で、神の律法を守らぬ状態であった為に主イエスの御言葉を受け入れませんでした。ナザレの人々が信仰を行いで示していれば、主イエスが述べ伝えることが正しいと理解し、迫害せず話を聞こうとしたであろうからです。不信仰による傾聴・忍耐力の欠如が、迫害という誤った行為に及んだ原因と考えられます。

使徒ヤコブが御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。(ヤコブの手紙)と書簡に書き記した通り、信仰は聞いたことを行うことが正しい姿の為、行いの前段となる傾聴や忍耐を欠くナザレの人々の姿勢は本来正すべき姿勢でした。

また、行いや神の律法を守ることは、ミカエル氏が神を愛するということと人が生きる意味 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)で書かれているように、神を愛する動機によるものです。

~以下引用~

神の掟は守らなければならないのは当たり前なのですが、何故守らないといけないと思っていますか、救われるためですか。そうだとすれば、それも偽善です。律法主義に陥っています。義務感から神の掟や戒めを守っているのは、まさに律法主義者なのです。心から神を愛していないのです。私が言いたいのは、神を愛すれば、自然に掟も守るようになるのです。

中略

過去記事「ヨブ記にみる正しい信仰と大艱難」で話したとおり、もし、あなたが創造主の神、主イエス・キリストを信じるのは、自分が滅びたくないから、天の国に入りたいから、この世を生きる間に神から恵みを貰いたいという動機で信じるのであれば、これも偶像礼拝です。何故か分かりますか。愛が無いからです。

~引用終わり~

以上に述べられている通り、神への愛によって神の律法を守る信仰に対して、ナザレの人々の行動には主イエスに対する愛や敬いの気持ちが見られず、むしろ心の中には敵対心があったと想像致します。主イエスが人間の心から悪い考えが出てくる。(マルコ七章二十一節参照)と仰った通り聖書が戒めている肉の思いがあると、悪い言動が表出するからです。

以上の通り、ナザレの人々の行動によっては、不信仰な反面教師の例として理解することが出来ますが、この例を傍観者として捉えるのではなく、「自分がその場にいたらどう対応しただろうかと冷静に考えてみる」ことも大切ではないかと思いました。なぜなら、「周囲の人が行うことに、あなたも従うのは当然」という同調圧力は至るところに存在し、同調圧力に追従することに罪悪感を感じない人も多いと思うからです。例えば、周囲の行いに同調する例をあげると、匿名性の高いネット上での誹謗中傷(根拠なき悪口)や野次の言葉、野次に同調する事、また、政府をはじめ、医療関係者、工作員、そして無知な人によるワクチン推奨と同意、性的な乱れ、5Gや6Gといった有害な電磁波を許可したり商売すること等、様々な愛がない行為が蔓延っています。このような現状から、将来的に獣の刻印をうけなければ物の売買ができない時代を迎えた時、人が肉の欲に負けて食糧欲しさ・生活の維持を目的として獣の刻印を安易に受け入れる未来に至ること、想像にかたくありません。(ヨハネの黙示録の描写は誰一人として無関係で済む人はおられません。)

人は各自が責任を持って考え、行動しなければ、以上のような同調圧力に追従してしまう機会は非常に多く存在するが故に、聖書を読む時、「自分は、絶対に神や預言者を迫害する愚かな行動や発言はしない」と過信することは、高慢ではないかと個人的には考えるようになりました。ペトロも自身への迫害を恐れて、主イエスを知らないと三度発言した例からも、人は自らが辛い境遇におかれることで、自分の本性を真に理解することが御座います。

故に「人にしてもらいたいと思うことは、何でもあなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」と主イエスが仰った戒めは、自分がしてもらって嬉しい事を、他者に対しても考え行う、隣人愛を体現する行動規範だと考えられます。ただし、自分が甘やかされることを望んで、何でも相手を甘やかしてやってあげることが、真に相手の為にはならないこともあるので、その点に注意が必要です。

以上に述べたことから、ナザレの人々の様子からは、信仰を持ち短気にならず傾聴すること、周囲と自分の行動を冷静に見極めること(自分だけでは気づかない落ち度がある事も考えられるので、信仰の兄弟と交流し、悪い部分を改善する必要あり)、他者の益となることを行う意志と実践が大切だと感じています。

ナザレの人々が不信仰な状態にあった事には違いありませんが、現代に生きる私たちも、信仰によって相手への配慮をどう体現していくかが大切だと思いました。

 

ナザレの人々から学べること二(多数派に従う時は感情的で、客観的視座が欠落している)

先述したように、実際その場に居合わせてみると、多くの人が場の空気に流されて同調して行動します。

多数派の行動に倣っていると、まあいいかといった類の妥協の思いが湧き、罪に対する意識が薄れてしまいます。それゆえ、神の律法には、あなたは多数派に追随して、悪を行ってはならぬ(出エジプト記二十三章二節参照)という掟があります。多数派が必ずしも間違っているということではありませんが、この掟を守る為には、何が善で何が悪なのかを見極め、自身の行動を選択していく必要があります(それ故に、主観的ではなく、客観的視点を持つことが必須となる。)。それには、一人では判断がつかないこと、心もとないこともあり、やはり頼れる信仰の兄弟が必要だと考えます。

ナザレの人々は、周囲の雰囲気にのまれたことで、善悪の判断をする暇もなく、感情的になり、主イエスを迫害する行動に及んだのであろうと考えられます。また、近現代では、ナチスのヒトラーも大衆が行動する主要因は多数派の動向であることに着目し、「共通の敵を作り大衆を団結させよ」、「敵の悪を拡大して伝え大衆を怒らせろ」、「大衆を熱狂させたまま置け。考える間を与えるな」、「利口な人の理性ではなく、愚か者の感情に訴えろ」等、感情に訴求する手法を起用しました。ヒトラーが使った手法による効果として、ミカエル氏:多数派に属す者は破滅に至るで、人々が、「大衆形成」と言われる愚かな行動をとってしまうことが書かれている為、是非学びの為に、御参考ください。

聖書には、愚か者は自分の感情をさらけ出す。(箴言二十九章十一節)と書かれているように、多くの人は、プロパガンダ(政治的宣伝広告)に乗り、感情的であるが故に、感情を制御出来ず頑なになることが非常に厄介です。熱狂性を帯びると、外部から論理的に説得して改心させることが不可または非常に困難となるからです。

ナザレの人達の例やヒトラーの例、そして日本全体がマスク・ワクチン信仰になった例、いずれも大衆による同調行動が発生したことで、多くの人が感情的で、客観的視座による行動が出来ない証明になりました。また、多くの人が学校で学び、資格をとったり、企業に就職し仕事をして、昇進や金稼ぎといった人参を求めて日々時間を使う一方で、政治には全くの無関心・無抵抗で、その帰結として、国民は相次ぐ物価高や増税、社会保険料上昇等により益々苦しくなっています。かような苦境下においても、悪政をやめさせるような大規模な抗議活動に発展せず、日々不満の感情を持ちつつあくせく働くことに、思考と行動の画一化が見られ、非合理的行動のように考えられます。以上に見てきたように、このような大衆形成が行われるのは日常茶飯事である為、多数派に属すことが誤りとして確信を持った場合、次は何をすれば有益な結果を生み出すかを考えて行う必要があると考えます。

あなたは多数派に追随して、悪を行ってはならぬ(出エジプト記二十三章二節参照)という戒めが正しいと納得すると共に、戒めを守る為に聖書と共に、正しい法律・政治・歴史を学び、客観的思考を鍛えて行動に移すことが必要だと考える次第です。

 

ナザレの人々から学べること三(多くの人は正しい事に聞く耳を持たない。)

ナザレの人々が憤慨した様子から、彼らが説教に対して聞く耳を持たなかったことが分かります。ナザレの人々に対して発した言葉ではありませんが、神の御言葉を聞かない理由について、主イエスは、「神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」(ヨハネ八章四十七節)と仰いました。神に属していないとは、正しい生活をしない者(ヨハネの手紙一 三章十節)、耳を傾けないことによって惑わしの霊だと見分けられる(ヨハネの手紙四章六節)、悪を行う者(ヨハネの手紙三 十一節)です。

この世はこの世の神である悪魔が支配している(この世全体が悪い者の支配下にあるのです。/ヨハネの手紙一 五章十九節)為に、多くの人が自覚無しに悪魔に唆され、結果として聖書について、神の御言葉について聞く耳を持たないようになっているようです。残念なことではありますが、予め定められたことでもあります。但し、人の対応として、成り行き任せで自暴自棄になり、聞く耳を持たない姿勢は当然のことながら望ましくもなく、ヤコブは、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。(ヤコブの手紙一章十九節)と戒めました。また、聞くことについては、諺で、「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」があるように、知らぬことを恥じて聞かないで一生知らぬまま居続けるよりも、積極的に聞く方がよいという意味合いがあります。この諺から分かるように、一時恥をかいても、早めに聞く方がその人にとっては、成長があり、よい結果が生まれることが多いと思います。ただし、分からないから聞くといった他人任せな態度では主体性が無い為、調べても分からない、理解出来ないことがあれば、自分の意見を表明しつつ聞くといった姿勢が成長していくに大切だと思います。

また、怒るのに遅くあるべきことは、「短気は損気」というように短気が自分の損になるとして表現されたりもします。故に、現代日本人こそ、ヤコブの手紙の戒めやこの諺を心に覚え、異なる意見、理解出来ない意見を傾聴する姿勢を持つことが重要だと思っています。聖書について、多くの人が聞く耳をもたず瞬時に拒絶しており、ナザレの人々の姿勢に重なると思えるからです。冒頭でも申しましたように、聖書は宗教(仏教、ゾロアスター教、ヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教等)とは異なり、真理であるが故に、はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。(マタイ十八章三節)と主イエスが仰ったことに可能な限り早く耳を傾けるべきです。時間は無限にある訳ではないからです。主イエスが仰った心を入れ替えるとは、悪事を反省して、考え方や行動などを新たにする。Weblio類語辞典)の意味がありますので、聞くだけではなく、行動も改められる必要があります。心を入れ替えるとはまさに聞いて悔い改める(神の律法を守る)ことを言及されているのだと考えられます。

慈愛から心を入れ替えるようにと主イエスが呼びかけてくださっておられますが、多くの人が聞く耳を持たず悔い改めない理由について、何が考えられるでしょうか。知ったことではない、我関せず!何を信じるかは人夫々!今の生活を維持する方が大事!といった姿勢ではないでしょうか。確かに世の状況を見るとそのような姿勢になりやすいこともよく分かりますし、行動選択の自由はあるのですが、呼びかけられている愛に応じるつもりがないのではないかとも感じます。個人的には、呼びかけに応じないことについては、親が親心からやるべきことを子に教示しているものの、やる必要性が理解出来ず、行わない子のような印象を持ちます(現代社会において親が必ず正しいと言いたい訳ではないです。)。

以上の通り、親子関係を例として個人的な思いを持っておりますが、聖書を信じないということの多くの原因は我関せずの姿勢であろうとも推測しますし、それでよいと思っている場合はこの先もそのように生きていかれるものと考えます。一方、興味はあるけど生活をしていくために仕事が忙しすぎる等の問題がある場合は、どうにかして生活様式をかえていく必要があります。キリスト者が生きていくには、辛い世の中ではあり、この先は益々状況は厳しくなろうことから、キリスト者として生活を確立している兄弟にご相談されることを検討してみてはいかがでしょうか。

こうした呼びかけをミカエル氏をはじめ、教会に集う兄弟が行っております。

呼びかけに応じて心を入れ替える人が大幅に増えていかないことは神の定めでもあろうとは思うものの、心苦しく、もっとそのような人が増えて欲しいと思っています。

それでも悔い改めることがない場合もあることは、「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがないようになるためである。」(マルコ)という御言葉が、過去から現在に至るまで実現しており、聖書の正しさを裏付けているように思います。

ナザレの人々以外にも、聞く耳を持たない例は聖書の使徒言行録にも描かれており、ステファノが最高法院の人員に対して、主イエスの殺害に加担したと指摘した結果、彼らは大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目掛けて襲いかかって、石を投げ始め殺害に及んだ描写があります(使徒言行録七章三章参照)。この描写からも多くの人が聞く耳を持たず自分の罪を悔い改めようとしなかったことが明白で、水と油のように、正義と悪は決して相容れることはありません。ナザレの人々や最高法院の人々の例のみならず、現代人も不信仰者、パウロ教信者を筆頭に律法遵守の必要性に聞く耳を持たず、かえって律法遵守に対する反感を抱く人は多いですが、神の律法に立ち帰るべきということを御理解いただきたいと思って申し上げております。現代社会の状況と自分自身を客観的に観察して、神の律法のどこに不義があるのか、なぜ守る必要が無いという結論に至るのか、牧師や神父のような権威主義を盲信する等の偶像崇拝をせず、聖書を基に再考される必要があると感じております。

また、聖書のことのみならず、憲法改悪やワクチンの危険性を筆頭に、世の中の不義の蔓延についても世の多くの人々は聞く耳をもたないが為に無関心です。例えば、こちら(x)の動画のように、コロナワクチン後遺症に関する街頭演説に対して、ほとんどの通行人は素通りしております。まさに、素人の言う事なんか信用ならないし、自分の知ったことではないという反応を示しております。また、改憲反対運動においても、当事者たる日本人が赤の他人がごとく全く興味を示さない一方、通りすがりの外国人達が興味を持ち、どのような趣旨の抗議活動かを訊いてくることがありました。外国人達は、権力者達を放置することの危険性を自らの経験によって理解していることもあるのでしょうが、このような外国人と日本人の姿勢の差はどこから生まれてくるのでしょうか。

やはり、実際に「訊く」、「聞いたことに聞く耳を持つ」という基本的な行為を行うか否かの違いによって根本的な姿勢に圧倒的な差が生じているように思われます。このような「訊く・尋ねる」、「聞いたことに聞く耳を持つ」と人間として基本的な行為をしない理由に、「関心が無い」、「訊きたくても訊けない」等の理由があるとすれば、「他者への愛が無い」、「臆病」という要素があることをある程度裏付けているようにも思います。聖書では慈愛が一番大切だと説かれておりますし、臆病も悔い改めるべき内面性であると言う点から、日本人の不信仰がこのような内面性の劣化を引き起こしていると考えられます。日本人の皆さんが呼びかけ、呼びかけに応じ、万単位以上の人員で定期的に抗議活動ができるようになれば、報道機関や権力者達を牽制できますし、政治家が緊張感ある中で仕事を行う姿勢になりますが、日本人総無関心のままでは、彼らが悪事をやめるはずがありません。

あの時、忠告を素直に聞いておけば・・・等と後で後悔しても遅く、覆水盆に返らずという言葉で表現されるように、過ぎた時間は取り戻せません。以上の通り、ナザレの人々やステファノを最高法院で取り囲んでいた人々の例から、耳を傾ける重要性と誰の声に耳を傾けるべきかを見極めて立ち振るまう必要があると考えました。
 

四.ナザレの人々から学べること四 多くの人は偶像崇拝(御利益信仰)である

 

主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。

そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。という主イエスの御言葉は、ナザレの人々にとっては、非常に耳ざわりのいい御言葉だったに違いありません。自分が労することなく、恵みを得られると考えられるからです。しかし、その後の主イエスの御発言により恵みを受ける対象外だということが分かると、立腹して、崖から突き落とそうとしました。

この行動の流れから、ナザレの人々は、神を信仰したいという純粋さによって主イエスをほめていたわけではなく、恵みを受けることに心が向いており受け身の姿勢だったことが分かります。神と富とに仕えることができない。(マタイ六章二十四節)のように、人は神か金銭かどちらかしか選べないのであり、ナザレの人々は、後者を選ぶ不信仰の姿勢であったと想像されます。神に仕えることについて、主イエスは自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マタイ十六章二十四節)と仰ったように、自己利益を放棄する行動へと繋がり、必然的に富の蓄えには繋がることがありません。

一方、現代社会では商売繁盛といって神社で願いがけするような御利益信仰がございます。その単語の意味を調べてみると、「人や物によって受ける恵み」(goo辞書より御利益の意味のみ引用)と「特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと」(goo辞書より信仰の意味のみ引用)の記載から、「恵みを受けることを重視している状態」であると考えられます。恵みを受けることを重視しているということは、自己利益に目が向いており、相手に何かしてあげようという気持ちが薄くなる状態であると考えられます。

御利益信仰は聖書で罪と規定されている偶像崇拝にあたり、ミカエル氏はキリスト者の成長に必要なことの中で偶像崇拝について、以下のように述べられています。

~以下抜粋~

度を超えて世のものに依存するなら、それは神の律法で禁じられてる「偶像崇拝」に当たるからや。また、使徒ヨハネが「世を愛してはならず、世にあるものも愛してはあきません。もし誰かが世を愛するならば、御父の愛はその人の内にありません。」(ヨハネ一 二章十五節拙訳)と言うたことから、この世と世にあるものを愛することはあかんことや。

~抜粋終わり~

従って、御利益信仰や偶像崇拝行為は、ヨハネが戒めたように世を愛する(自己利益を愛する)行為であって、神と隣人を愛する行為ではなく、そのような行為を行う動機には主イエスがお持ちのような慈愛が無いと考えることができます。

世を愛して行う間違った行為の一例として、この世で成功とされていること(金銭、美食、異性、名誉、その他本人の目に好ましいもの)を出来る限り容易に手に入れたいと考える習性から、自分が他者に貢献出来ることを考えるよりも、高給に目が眩んでいかがわしい仕事に手を出してしまうことも少なくありません。

こちら(X)でも分かりますが、ワクチン接種業務のあまりの高給ぶりになぜこのような高給なのかと違和感を感じずに業務を行う人も多数おられるのではないでしょうか。

また、叱責されることを避けたい、褒められることをよしと考える風潮も、ともすれば自身の名誉を保ちたいといった一種の偶像崇拝思想と考えられます。ナザレの人々や現代人の物事に対する姿勢の例から、信仰者も、「救い」という対価を求めるよこしまな考えをもたぬように、十分に気を付けて、伝道や善い行いをするべきと思いました。

以上、ナザレの人々から学べる点として、四つの点を挙げさせていただきました。

【不信仰で居る理由とやるべきこと】

不信仰であることに関して、上述した聖句の通り、「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして立ち帰って赦されることがないようになるためである。」と主イエスが仰った通り、神は、聖書の内容を理解せず悔い改めることの無い不信仰な人達がいることも予め知っておられます。また、以下聖句のように主イエスが生温い信仰者を厭われており、信仰に招かれたとしても人は主イエスの教えを守って固く繋がっていなければ、不信仰の状態へと戻る不幸な結末が考えられます。ペトロは信仰に招かれて一時的な信仰に入っても途中で棄教して不信仰な状態になると、信仰に入る前より一層悪い状態になるので気を付けるようにと、戒めています。

 

熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。(ヨハネの黙示録三章十六節)

 

わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。(ペトロの手紙二 二章二十節)

 

以上の御警告から、信仰には、神の律法を守り通す強い意志と実践と継続が必要だと分かります。人はふとした瞬間に油断し安心してしまう生物です。一方、神の御決定は絶対なので、油断した末に下される裁定に、後から不平不満を申せる立場にないこともよく弁えておかなければなりません。

以上を弁えて、また私自身の経験を踏まえて、人が不信仰から脱却する為に出来ることについて考えていきます。

 

〇聖書通読未完・内容未理解による不信仰とやるべきこと

 

聖書通読未完・内容未理解による不信仰への対策は、当然のことながら、聖書通読と内容理解が必要です。

そこで、言うまでも無いことではありますが、以下のように当然やるべきことから行動してみてはいかがかと考えます。

 

【対策】

〇重い腰を上げ、本屋に出向く、またはネットで旧約/新約聖書を購入する。

〇聖書の頁数から、毎日何頁読むか計算をする。読み始めて約一ヶ月での通読完了を目指す。(最初から完全に理解することは出来ない為、複数回通読が必要。)

〇毎日の通読時間確保の為に、現在の生活習慣から空き時間を捻出する。毎日読む習慣をつける。

〇先述の通り、ミカエル氏のブログ記事一覧|真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)を始めから読む。

以上で必要なのは、聖書を買う、時間を計算して読むという簡単な行動です。一人で悩んでい悶々としているならば、「やれることを可能な限り早くこなしていく」姿勢がよいと考えています。

 

〇素直に行動できない不信仰とやるべきこと

 

聖書とミカエル氏のブログを読み始めていくと聖書や世の悪事に関する知識が備わっていきます。一方、知識が増えても、聖書に書かれている神の律法を実践出来ない怠惰や臆病な状態のままではいけませんし、出来ていると思って高慢になり、途中で信仰から離脱してしまうことも避けねばいけません。

以前から申し上げている通り、新たな行動を阻む怠惰、臆病、高慢といった内面性は全て聖書で戒められており、悔い改めるべきです。多くの人がこれらの内面性を持ち、楽な方向に流れる故に、必死に行動せず、先延ばしにする傾向があります。

こちらに、先延ばしの弊害と先延ばしを避ける為には、締め日を決めることと、やることを小さく分解して単純化することが書かれていますので、ご参考ください。

世俗の事でもやるべきことを先延ばしするべきではありませんが、特に信仰における悔い改めの先延ばしは禁物です。悔い改めは一日や一ヶ月という短い期間では出来ない故に、切羽つまる前に開始する必要がある為です。先延ばしを避ける対策として、神の律法で戒められている事を~日までに達成する、という目標設定を行うことも良いかと考えます。例えば、神の律法に反している部分(例:房付きの和服着用【綿や麻等、単一素材のもの】)を~日までに行うという目標設定は出来ます。一方で臆病、怠惰、高慢、貪欲、好色等といった品性の改善については、私自身の追い込みがまだまだ甘い事も原因として考えられますが、急激に変わるというよりも少しずつ変わっていくという印象を持っております。日々肉なる思いを捨て去れるように祈り、行動によって改善していくものと感じており、それはこの先も継続していかねばなりません。そして、以上のような利己的な要素の改善には、役に立つことをしようとする思いと行いの継続が必須ではないかと考える次第です。

以上の通り、悔い改めには時間がかかることに加えて、真のキリスト者に相応しい姿と信仰 後編に書かれているように、聖霊に逆らい続けていれば、自分では気づかぬ内に恩恵期間が終了し悔い改め不可になるおそれもありますので、悔い改めの先延ばしは禁物だと申し上げました。

主イエスが「もう罪を犯してはならない。」と仰せになりこれまでの罪を赦されると共に罪を再犯するなと警告なさっていますので、素直に聞き行うことが大切です。

エジプト出国後にモーセがイスラエル人達にカナンの土地偵察を命じ、ヨシュアとユダ族カレブはアナク人という巨人を目の当たりにしても怯まず攻め入ることを提言した例からも、神がお認めになる信仰者は神の御命令に素直に聞き従う気持ちを堅くもっていたと考えられます。主イエスは、「天の父が完全であられるようにあなたがたも完全になりなさい」(マタイ五章四十八節参照)と仰った通り、神が御認めになる基準にまで人が成長することを御命令として課せられており、我々は素直に聖書に書かれた神の御言葉を学び、聞き入れ成長していくことが必要です。我々不完全な人間は、完全になることを目標とする故に、ミカエル氏は人々の誤認識と今後必要な信仰と心の準備で以下抜粋の通り、信仰に一切の妥協がないと述べられています。

~以下抜粋~

改めて、キリスト教の本質について申します。

キリスト教は、各個人に決断を求め、妥協が一切ありません。主イエス・キリスト以外に、マリアを崇めたり、偶像を崇めたり、太陽等の物質を崇めたり、他の神々も尊敬したりしてよいということは絶対にありません。また、聖書が教えるモーセの律法や神の掟等も遵守して生活することが必要です。過去記事「安息日の重要性とモーセの律法」で説明したように、一部だけ守れないものがあってもいいというのは有り得ません。さらに、自分の命がかかった時、棄教や背教を迫られても屈しないという決断も求められます。この理由は、主イエスが仰り、明確に聖書に書かれているからです。

新約聖書 マタイによる福音書 10章22節(私訳)

また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最期まで耐え忍ぶ者は救われる。

 

新約聖書 マタイによる福音書 10章37〜39節(私訳)

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担わずにわたしに従う者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

 

殉教者たちは、主イエスのこれらの御言葉を胸に刻んで信仰が揺らがなかったからそのような決断ができたのです。選択は二者択一であり、主イエス・キリストに従って死まで神に従順であり続けるか、サタンに従うかのどちらかです。命が惜しくて、棄教や背教してまで、この世で生き長らえようとする人間は、サタンに仕える、世に属する人間であるのは明白です。

~抜粋終わり~

 

今我々は、キリスト者に迫る大艱難に向けた訓練を受けている局面にいると考えるべきではないでしょうか。現時点で神の御言葉や兄弟からの助言に対して素直に行動出来ないとすれば、命がかかった時には尚のこと、果敢に行動することは困難になるのではないでしょうか。信仰に入るのであれば、今の内に、行動出来ない原因が何か、どのように改善すればいいかという点について、模索して行動していくことが望まれます。また、どうするべきか悩んでいることがあれば、ミカエル氏が、二種類の基礎の記事で相談を受け付けておられますので、是非とも投稿前の注意事項をお読みの上、ご連絡をされてみてください。

 

〇世にある誘惑に負けない為にやるべきこと

現代社会は、食欲、性欲等肉の欲が刺激されやすい世の中です。悪魔はこの欲に働きかけると人が靡きやすいことをよく理解しています。悪魔は主イエスが四十日間の断食期間を終えた後、「神の子なら、これらの石がパンになるよう命じたらどうだ」と挑発し、主イエスは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と抵抗されました。このことによって信仰とは、神の御言葉によって肉の思いを誘発する誘惑と常に戦うべきことが分かります。人がもし、石をパンにかえることが出来たとすれば、四十日間もの断食をしたのだから、少し位いいかという妥協の心が生まれて石をパンに変えてしまいそうですが、主イエスは、奇跡を使って食を得ることよりも、神の御言葉を守る大切さを人間に教えようと模範になられたのだと思います。

一方、現代社会は、過酷な労働環境と不満のガス抜き対策なる3S政策(スポーツ・異性・映像)による各種の娯楽があふれているので、娯楽を楽しむことに心が向き、暴飲暴食・好色・高慢・貪欲・怠惰・利己心・ねたみ・短気・愚かといった肉の欲・悪い品性改善が疎かになり、神の御言葉を守ることに重きがおかれておりません。肉の思いだけが一方的に満たされて、霊の思いが満たされていない状態だと考えられます。

そのため、神の御言葉を守って品性を改善していきたいと願うのならば、世俗の事への時間の使い方や常日頃お付き合いする人間関係には十分気を付けるべきことと考えます。ガリラヤの領主で権力者であったヘロデがへロディアとの間において、姦淫の罪を犯したのは、人間関係から生じる誘惑に欲望が刺激されて招いた結果だと推測致します。ヘロデは洗礼者ヨハネに律法違反の旨を指摘され(おそらくは悔い改めることなく)、最終的に洗礼者ヨハネの殺害に及びました。悪い習慣、人付き合いによって利己心が芽生えるおそれがあり、ヤコブも利己的な心を戒めています。

もしあなたがたが心の中で激しい妬みや利己心を持っているならば、誇ったり、真理に逆らって嘘をついてはいけません。この知恵は、上からおりてくるものではなく、地上のもの、肉の思い、悪魔的なものです。(ヤコブの手紙三章)

上記の「肉の思い」と訳した原語は、ψυχική です。原語の意味は食欲や情欲などの感覚を喜ばせるという意味と、獣の生の原理という意味があるようです。新共同訳では「この世のもの」と訳されていましたが、以上の意味を踏まえて、「肉の思い」と訳しました。

故に、肉の思いを抱かぬ様に、我々が出来ることは、以下のようなことだと考えています。

 

〇客観的に自分を把握する(どんな行動にどれくらいの時間をかけているか。行動の結果、どのような思いがよぎったか、誘惑をうけたか、誘惑に負けなかったか。)

〇趣味や娯楽に費やしていた時間を極力減らし、聖書の通読、研究、信仰の兄弟と交流する

〇誘惑を可能な限り受けない環境を作る(信仰に不要なものを捨てる、売る。都会の喧騒に近づかない。)

〇罪の元となる諸要素に自ら飛び込まない(姦淫、暴飲暴食、その他油断の元になる、テレビ・動画、広告等を極力見ない。)

〇肉の欲・肉の思いが湧きあがっても我慢し、継続する

〇御心ならば、肉なる思いを消して頂けるように祈る

〇何でも相手の益になることをするように心がける

 

〇継続できないことへの対策

 

聖書を読み、罪を犯さないように自制し、伝道活動をしていると、隣人から聞く耳をもたれず、誹謗中傷を受けたり、変人扱いされる、富の蓄積から疎遠になる等といった事態が起こります。また、自身の肉体的、精神的な弱さ、世に対する無力さを経験します。

また、世俗のことの対応で疲れ果て、聖書を研究したり、伝道を行う労力をかけることを怠ける場合もありそうです。これらの事が起こります為に、その過程で忍耐が続かず、途中で信仰生活を離脱することもあると考えられます。よって途中離脱の対策として以下を考えます。

 

〇世俗の仕事に携わる時間を減らすことが出来るようであれば減らす。

〇ゆっくり休息し、祈る時間を確保する。

〇信仰の兄弟と励まし合う。

➽日本人は不信仰故に、多数派、権力者への偶像崇拝者が多い為、伝道、世の悪事について周知することで上述したように反発をうけることもあります。その時に主イエスを信仰する兄弟と励まし合う(傷のなめ合いではない)ことが、継続的な活動の原動力になり、高慢になって信仰から離脱しない為に必要な行動だと考えます。

〇自分の義を打ち立てようとしない。

➽世俗的なことに時間を費やしていると利己心が芽生える機会が多くなります。その延長で、自己利益の為に信仰生活を送るといった動機になっていないかを注意深く観察せねばなりません。なぜなら利己心があれば、相手の反応がいいか悪いかを過度に気にしてしまうからです。

神と隣人の為になる活動するという心をもって継続することが必要と考えます。

〇日々、時間を決めて活動する。

➽時間設定をして活動していないと、時間ばかり過ぎ、間延びするおそれをがあります。まずは時間設定を行い、その中で活動することをお勧めします。

 

【信仰と愛と素直さ】

 

以上、ナザレの人々の様子を想像しながら、不信仰から脱却する為にやるべきことを自分の経験を踏まえて、書いて参りました。この点は自戒でもありますが、おそらく多くの人が、神や隣人よりも自分を愛して生活していると思われます。一方、神を全身全霊で愛する人であれば、その言葉の通り、心の中に一点の曇りが無く、忠誠心から神の律法を守って行動している状態であると考えられます。ヤコブも、いささかも疑わず、信仰を持って願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています(ヤコブの手紙一章六節)。と述べた通り、願う時には一切疑いの気持ちを抱かないように伝えています。即ち、信仰を持ち愛を全うしていれば、疑いや不安になる気持ちを持たない(確信がある)状態だと思います。仮に、疑ったり、不安になることがあれば、神を全身全霊で愛していないことの表れと考えられ、その時にはどのような点で神の御心に従っていないのかを点検する為、聖書やミカエル氏のブログを読み直し、行動を見直すことが必要だと考えています。

主イエスは、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担って、わたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ十章三十七節~三十九節)と仰いました。親族を愛することを否定するのではなく、親族や自分自身よりも神を愛するようにという趣旨の御発言であり、主イエスに従う人は、自分を捨てて主イエスに従順で慈愛を説いた律法を守るが故に、隣人に対する愛も完成されていることが分かります。一方、現代は人々の愛が冷え込む終末時代故に、人によっては、「愛する」とは、一体どういったことなのかを理解しにくい時代でもあると思います。愛には、人が困っている時に助ける等の優しさに加えて、主イエスが人々の見本となる為にご活動されたように、神の律法を守り通し、悪いことは弾劾し、正しい道から外れた人を戻そうとしたり、人を鍛える為に確り指導する強さもあると思います。冒頭申し上げましたように、偽りの安心感を提示して人の歓心を買ったところで、現実は厳しく、双方にとって成長無く、何の益をもたらさないと思うからです。

それも救われる為という取引的義務感からではなく、神の為に自分が出来ることを考えて行うことを、自然に出来る状態が望ましく、神を全身全霊で愛することを、本来は人として当然に出来ているべきことなのだと考えられます。神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。(ヨハネの手紙一 五章三節)とあるように、本来は出来たからといってよくやったと自分を誇ることではないと考えられるからです(あまりに世俗に馴染みすぎているが故に神の掟を守ることが難しいと感じる。)。以上に述べたことにより、何が神の為になるのか、隣人の為になるのか、観察し、洞察を鍛え、それを行っていくことが重要ではないでしょうか。

また、先述したこととも重複致しますが、神の律法を守り成長するか否かは、疑う気持ちを持たずにどれだけ素直さを持って「行動するか」ではないかと考えます。先述したヨシュアやエフネの子カレブもダヴィデも神を信じる気持ちが行動に繋がりました。

主イエスはわたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。と仰っています。

素直を意味するἀκέραιοιには、純粋、悪い思いが無い状態、狡猾さが無い、潔白であるという意味がありました。素直さには悪い思いや狡猾さが無いので、心が神と自己利益どちらも求めるといった中途半端な状態や狡猾さが無い状態だと考えられます。従って、信仰にあたっては自己利益を求めずに神の律法、御言葉に従う素直さが、成長する上で大切な心持ちではないかと思います。聖書を読む時、伝道をする時、兄弟と交流する時、善い行いをする時、世俗的な行動に時間を使う時、どのような心持で行っているのか、やましい気持ちは持っていないかを、客観的に見るべきだと思いました。

また、的確な忠告を受けた時、「自分には無理」、「また日を改めてやろう」、「自分は出来ているからやる必要無い」等と、心を頑なにして、忠告されたことをやらずに自分流で行ったり、やらないと言わないまでも先延ばしにして時間を空虚に潰していくことを極力減らしていく必要があると考えています。ルカ十四章十七節~二十節では、信仰に招かれても、世俗のことを優先して信仰に入ろうとしない人達のたとえ話が書かれ、マタイ十九章十六節~三十節には、金持ちの青年が主イエスから「行って持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい。」と主イエスが御命じになったことが出来ないと感じて、その場から立ち去ったことが書かれています。これらの描写によって、世俗の事に対する思いが、神の御言葉に素直に聞き従うことを遠ざけていることが分かります。また、マタイ十三章十九節においても、御言葉を聞いて悟らない事、艱難や迫害が起こると脱落する事、世俗の事に対する思い煩いや富の誘惑によって成長しない事、本物の信仰に至らない三種の原因について書かれており、いずれの場合も、世俗に対する我執が素直に御言葉に聞き従うことを困難にさせる要因だと考えられます。人は、神に従うことと世俗に従うこと、どちらを選択するべきでしょうか。世俗から離れられないと、諦めず、聖書を読み神の律法、戒め、掟、御言葉を守ろうとはじめの一歩を踏み出していくことが、肝要ではないでしょうか。

ミカエル氏が成功するためには | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)で、今からでも遅くはない。早よやり始めな、いつやるのってなりますよ。どんどん世相が悪くなり、始めたくてもでけへんようになったらもう恩恵期間の終了です。拙者もいつまでこうして呼び掛けたり、教えたり、助言したり出来るかについては、もうそう長くないかもしれへんよ。いつ終わるか知らんで。と呼びかけているように、時間がいつまでもあるわけではありません。たとえ今日元気に一日活動できたとしても、明日どのような状態になるかは人には分かりません。それ故に、悩んだり、行動せずに時間を無駄にしていることがあれば、出来る人からの助言に素直に応じて早めに行動にうつしていくことが大切だと考えています。(尚、助言してくれる相手を誰彼構わず信用するのではなく、その正しさを見極めていく必要はありますので、念のためにお伝えします。)

ミカエル氏が「成功するためには」の記事で、皆さんから投稿されることを呼びかけておられます。投稿前の前提条件を書いた上で会話されてみることを是非ともお勧めします。お金は一切かからず、本当に親見になって、各人の状態を適切に判断され、相談に乗って頂けるからです。

コンサルタントや弁護士等のように相談だけでも金銭対価を払うことを擁する関係であっても何の解決にならないこともあることを踏まえれば、与えられた機を逸するのは非常に勿体ないと思われませんでしょうか。自身が困っていることを素直に開示されることで、厳しい指摘を受け心が傷つくこともあるかもしれませんが、新たな発見と成長へのきっかけとなり視界が開けていくかもしれません。冒頭でも鍛錬は受け入れるべきだと申しました。世俗社会でも、試験の成績が悪い時、営業成績が悪い時、自分とは違う視点から指摘をされて、課題に気付いてやるべきことが明らかになることがあります。外部の要因のせい(時間が無かった、教え方が悪い、環境が悪い等)にするのは容易ですが、それでは改善へと結びつきませんので、世俗のことと同様に信仰についても、素直に助言を聞きやってみる、この行動が、成長へと結びつける大切な要素だと思います。

主イエスは、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(マタイ五章四十八節)と御命令なさっています。成長する機会を頂けたことに心から感謝し、完全な者になれるように共に頑張っていけたら幸いに思います。