若き親友への手紙 -4ページ目

空っぽになろう。

複数のプロジェクトが次々と佳境を迎えて、
君に手紙を書くのも
しばらくぶりのことになってしまった。

7月も後半に入り、
真夏の日々が続いている。

夏はただの季節ではなく、
心の風景だ。

青い空と白い雲を見上げながら、
途方に暮れていたあの日々こそ
僕の青春の日々なのだろう。

だからこそ、ブルースカイは、
僕にとっては哀しみの象徴にほかならない。

真っ青な空を見ていると絶望してくるのは、
きっと僕だけではないだろう。

さて、ようやく
ただなりゆきに身を任せていただけの日々から
脱しようと歩み始めた君だが、
そう簡単には結果は現れないといっておこう。

努力の落とし穴は、
すぐに成果となって実りはしないことだ。

いままでの君を器に例えれば、
君という器のなかには、
ありとあらゆるものがなみなみと注がれ、
それが淀んだままでいる。

まず、その淀みをすべて流し捨てて、
自分を空っぽにすることから
はじめなければならない。

そうでなければ、新しいものを
君のなかに注ぎ込むことはできない。

いまの君に新しいものを注ごうとしても、
古い淀みと混ざってしまい、
その淀みはさらに困惑を増すだけだろう。

まず、自分自身を空っぽにすることから、
すべてを捨て去ることからはじめればいい。

焦ることはない。

むしろそうすることが
新しいことを身につけるための
近道になるだろう。

夏は延々と遠い道を選ぶ季節だ。

そこで流した汗のぶんだけ、
きっといい秋がやってくる。

この夏の間に結果を出そうと
焦ってはならない。

夏は自分を空っぽにする季節だ。

どこまでも捨て去ったその後に残る君が
ほんとうの君なのだから。

なんとしても。

きょうからゴルフの全英オープンがはじまる。

実は、この全英オープンはもちろん、
つい数日前に開催された全米女子オープン、
さらにその前に開催された全米オープンの広告を
僕の会社で制作させていただいている。

君がゴルフにどれだけ興味があるか知るよしもないが、
前回の手紙の内容につづけて、
挑戦することの苦難と喜びについて話そうと思う。

ゴルフではイップスという苦難が
少なからずのゴルファーを苦しめる。

パットをするとき、手が動かなくなってしまう、
そんな病気がイップスだ。

どうしてイップスになるかといえば、
簡単にいえばはずしてはならないという
プレッシャーが原因に違いない。

だから、僕ら下手の横好きのアマチュアゴルファーは
イップスなど無縁だ。

しかし、真剣にゴルフをすればするほど、
またトップアマ、プロゴルファー、トッププロと
頂きに上がれば上がるほどイップスの魔の手が襲いかかる。

そして、イップスが原因で
ゴルフ界から去っていったゴルファーは
一人二人ではない。

だが、僕はこの事実に納得することはできない。

少なくとも、自分の周りにイップスに苦しむゴルファーがいたとしたら、
「それがどうした、イップスでもいれろ」というだろう。

君はいま、君だけの誰にも理解してもらえない
そんな苦難と立ち向かっているのかもしれない。

でも、
「それがどうした」
なのだ。

君が撤退する理由など
100万個あるに違いない。

しかし、君は君の夢や目標を前にして、
決して撤退してはならない。

いや、君が君の夢や目標を
ほんとうに、心の底から、
なんとしてもかなえたいと不退転の決意と覚悟を
しているのならば、だ。

もし君がそこまでの決意と覚悟ではないというなら、
それはそれでいいと思う。

ただし、これだけはいっておこう。

君が君の夢や目標をかなえられなかったのは、
君がそうしただけだから。

君は、君の夢や目標をかなえることより、
ほかに大切なこと、たとえば自分のやり方を貫くとか、
自分のやり方でやっていきたいとか、
それを優先しただけだから。

夢や目標は、
その夢や目標をかなえることを
優先順位の一番に掲げたひとにしか
かなえられない。

それだけは、
わかっておいてもらいたい。

そのうえで、
君が君の夢や目標をかなえることより、
君の自己重要感を優先するなら、
それはそれでいい。

そして、君のその想いどおりになり、
君の自己重要感は満たされるのだろう。

ただし、これだけはいっておこう。

君の夢や目標はかなわなかったのではなく、
ただ君がかなえなかっただけだから。

ひとには事情がある。

この前の手紙で、
やめる理由を探してはいけないと話したけれど、
それはあくまで自分自身のことだということを
つけくわえるのを忘れていたようだ。

ひとには、それぞれ理由がある。

その理由はさまざまで、しかも複雑だ。

そのひとが隠し抱いている理由のすべてを
こちらは知るよしもない。

ひとがやめると言ってきたとき、
もちろん、悩みを聞いてあげて、
励ましたり、相談にのったりしてあげることは
欠かせないことだが、
最終的にはやめるかやめないかは
本人が決めることだ。

ひとにはさまざまな事情がある。

ひとにいえない事情もあるだろうし、
いいたくない事情もあるだろう。

いまはそのタイミングではないということもある。

自分には厳しく、ひとには鷹揚にということが
人間関係を温かくする。

たとえば、メールの返事が来ないと
ついつい憤ってしまいがちだが、
相手には相手のさまざまな事情があるのだ。

それをあれこれ詮索しても
こちらも、相手も、決して気分のいいことではない。

何の意図もなく、
単純に忘れてしまっているだけかも
しれないのだ。

もちろん、その忘れるということが
許せない場合もあるだろうが、
自分だって忘れることは多々あるだろう。

それをいちいち目くじら立てられたら
たまったものではない。

いや、自分のことを考えるときには、
そんな忘れるなどということはあってはならないことだ。

だが、自分には厳しく、ひと様には寛容にということを
君にはぜひ言っておきたい。

それは残念ながら、
僕がこれまでの人生でいちばん失敗してきたことから
学んだことのひとつだ。

ひとにはさまざまな事情がある。

なにがあっても、なにがなくても、
ぜひ許してあげていただきたい。

英語では「許す」という言葉を
「Forgive」と書く。

「For Give」、そう、与えるために。

ひと様に、自分自身に
人生の大切ななにかを差し上げるために
君はひとを許すことを、
そして自分自身を許すことを忘れてはならないのだ。

自分自身の夢や目標をかなえるために、
夢や目標をかなえられないあらゆる理由を
探さないこと。

ひとが夢や目標をかなえられないで
傷つき、悩み、苦しんでいるときに、
そのひとの事情を黙って受け入れてあげること。

その根底にある想いは、
もしかしたら同じことなのかもしれない。

ひとは誰よりも自分に厳しく、
ひとには優しくあるべきなのに、
自分には甘く、ひとには厳しくなりがちだ。

いや、他ならぬ僕自身がこれまでそうだったことは、
数ある僕の後悔のうちでも、
最も大きな後悔のひとつかもしれない。

君には僕と同じ徹を踏んでもらいたくないから、
きょうはこんなことを書いてみた。

参考にしてもらえれば、
これほど嬉しいことはない。

それがどうした。

夢や目標を掲げて突っ走っていると、
きまってさまざまな逆風に見舞われる。

その逆風は、どれも走るのをやめてしまう
うってつけの理由になる。

ほんとうは言い訳といいたいところだが、
ここで問題にしたいのは、
走るのをやめるに足る、充分な理由であるということだ。

そんな理由があれば、
それは仕方がないと、誰もが頷くような
そんな理由であるということだ。

はっきりいって、ここが運命の分かれ道なのだ。

そんな真っ当な、やめても当然な
そんな理由を前にして、
それでもやめることなく突っ走りつづけられるか。

そこでやめてしまったとしたら、
それは結局そこまでの夢や目標でしかなかったということだ。

こういうことをいうと嫌われるから、
誰もそうはいわないが、はっきりいって関係ない。

どんな理由があろかがなかろうが、
いったん夢や目標を掲げたら
なんとしてもそれを達成するまでやり続けるのだ。

苦しいことがあるのは当然のこと。

ありとあらゆる障害が待ち受けるのは当然のこと。

君に僕が言えるのはただひと言、
「それがどうした」というだけだ。

苦難や困難を、夢や目標の達成をあきらめる
理由にしてはいけない。

いや、むしろ、そんな苦難や困難と立ち向かえる、
それは挑戦者の特権に違いない。

いまから20年近く前、
1994年のサッカーワールドカップ
アメリカ大会。

決勝のイタリア対ブラジル戦は、
PK戦となった。

最後のキッカー、ロベルト・バッジョの蹴ったボールは、
無情にもゴール左上に大きく外れていった。

その哀しいシーンは、
いまでも僕の脳裏に焼き付いている。

ハードなコンディションのなかで、
さらにハードな闘いを経て、
それでも勝者を決しなければならないという無情に、
見ている誰もが引き分けでいいではないかと思っていた。

もはや、ボールを蹴るどころか、
一歩も歩けはしない、
そんな状況でPK戦は行われた。

そして、ゴールの枠の外側どころか、
遥かな空に
イタリアの夢は飛び去っていった。

厳しいイタリアのメディアは、
決勝までイタリアを導いたバッジョに対して、
厳しい批判も遠慮しなかった。

それに対して、バッジョは、
「PKを失敗できるのは、PKを蹴る勇気を持った者だけだ」
と反論したという。

そう、挑戦しつづけることは
決して容易ではないことは僕もわかっているつもりだ。

そして、君が直面している
さまざまな苦労についても理解はしているつもりだ。

しかし、
「それがどうした」と
僕はいいたい。

そして、君もまたバッジョになれるのだ。

ワールドカップの決勝のピッチで、
君が大失敗して、世界のすべてのひとから
非難の嵐を見舞われた夜、
ふたりで乾杯しようではないか。


さて、ここ数日、君への手紙が滞ってしまった。

いや、実はいろいろなプロジェクトが重なって、
などと言い訳はやめよう。

それがどうした、と君に言い返されてしまっても
返す言葉が見つからないから。

次の手紙は、早々に出すようにするから
どうか許していただきたい。

日本オープン開催記念ワイン。鷹之台カンツリー倶楽部、名門の矜持その47。

開催まで、あと3ヶ月余りに迫った
第76回日本オープンゴルフ選手権。

雨と太陽が交互に繰り返されるなかで、
ラフもすっかり伸び、もうゴルファー達を
悩ませるに十分な長さに達している。

けれど、これからが本格的な
日本オープン仕様に仕上げの季節。

この夏を境に、
僕らアベレージゴルファーには
とても太刀打ちできない、
獰猛な顔つきの鷹之台に変貌していく。

一方で、日本オープンの華やかなお祭り気分も
日ごとに盛り上がっている。

そして、この日本オープンのどこまでも華麗な舞台に
ふくよかな香りを漂わせるのが、
鷹之台オリジナルの日本オープン開催記念ワインだ。

鷹之台の食堂を率いる、給仕長の内藤さんが
世界のワインから選び抜き、
厳正な試飲会をくぐり抜けたのは、
フランス・ジャンバルモン社の赤と白。

赤は南フランス、ラングドックの畑で育った
カベルネ・ソーヴィニヨンから生まれた
「ヴァン・ド・ペイ・ドック」。

雑誌『一個人』の「極旨ワイングランプリ」で
No.1に輝いた頂上赤ワインだ。

白はフランス北部ロワールの
寒暖の差が激しい気候で育まれたシャルドネの
「ヴァン・ド・ペイ・ヴィニョーブルド」。

なんと世界シャルドネ・コンクールで
銀賞を受賞した、こちらも頂に立つ
白ワインの名作の一本のひとつだ。

どちらも、
日本一のゴルファーを決める頂上決戦の
日本オープンを記念するに相応しい
まさに頂上ワイン。

ボトルには、鷹之台のロゴのはいった
記念ラベルも飾られ、
お土産にもうってつけだろう。

このワインを飲むために
鷹之台にゴルフをしにやってきていただく。

そんなゴルフの目的も
また、
素敵ではないだろうか。

ハーフを終えた後のブレイクに、
ラウンド後のくつろぎに、
ぜひ召し上がっていただきたい。


若き親友への手紙-110703

主人公になれ。

君は主人公になれ。

君は君の人生の主人公になれ。

君は世の中の主人公にも
なれるだろう。

だが、まず君は
君の人生の主人公になれ。

主人公は、
誰にも左右されない。

主人公は、
どんなことがあっても、
ハッピーエンドまで突き進む。

主人公には、
もちろん敵役もいるだろう。

主人公は、
誰よりも過酷な運命が降りかかる。

そんなことは、
当たり前ではないか。

どこまでも信じられないような
仕打ちを受けながら、
それでも君はすべての向かい風をものともせず、
突き進むに違いない。

なぜなら、君は
主人公だから。

君は、脇役ではない。

君は、主人公なのだ。

君は、
すべての出来事を受け止め、
すべてのひとと交わり、
すべての運命を受け入れる。

それでも、君は、
君の夢をかなえていく。

君は、主人公になるひとだ。

君の人生の、主人公になるひとだ。

たとえ誰も君のことを
振り向かなくても。

たとえ誰も君の可能性に
気づかなくても。

君は、君自信の未来を
確信していなけれぱならない。

君は、主人公だ。

君の人生の、主人公だ。

そんな君を、
僕は
誰よりも応援しているから。

頑張れ。

頑張らなくて、どうする。

君は、主人公なのだから。

修行時代。

きょうも芥川賞作家、藤原智美さんの
『文は一行目から書かなくていい』の抜き書きを
紹介しよう。

「私は書くことにたいして、
 どこか恥ずかしさを感じ続けているような気がします。
 しかしその恥ずかしさを超えて書き進めると、
 そこに真実が顔をみせることがあります。
 文章にはウソや演出がもりこまれるものですが、
 力強い、だれかに伝わる言葉は、
 そうしたハードルを乗りこえたときに
 生まれるものかもしれません。」

君にひとつ約束してもらいたいことがある。

きょうは、この抜き書きのなかの「書くこと」ということを
君が日々最もエネルギーを注いでいる人生のテーマに
置き換えて読んでもらいたいということだ。

「毎日書くことの大切さも後で述べるつもりですが、
 まずは文章を書くという作業の海におぼれてみることです。」

そう、もうこの一文から、
何事もやり続けること、とことんやり抜くことの
大切さを藤原さんは教えてくれている。

「視点のあいまいな文章に、人を動かす説得力はありません。
 力のある文章とは、自分のカメラの位置を明確に意識したものです。」

この一文も同じだ。

このなかの「文章」という言葉を、
君のテーマの言葉に置き換えて読んでみると、
いろいろ気づかされることもあると思う。

「大切なのは書く行為から離れずにいることです。」

君は、君の人生のテーマから
離れていたり、逃げていたりはしないだろうか。

「文章が人の心を打つのは、
 それが誰かに向かって書かれたものだからです。」

ひとの心を打つのは、
なにも文章だけではない。

君の仕事だって、ひとの心を打つ仕事では
ないだろうか。

「なぜ文章は完成しないのか。それは文章が生き物だからです。
 生きているので、時間とともに変化します。
 正確にいうと書き手のほうが変化しているのですが、
 どちらにしても読み返すたびにそれまでと違った表情を見せ、
 書き手はまた手を入れたくなるのです。」

そう、仕事に完成はない。

「読書は単なる情報収集とは違った、
 いうなれば底なしの深い海に潜っていくような
 思考を伴う行為であってほしい。」

「読書」とは書くためのトレーニングであり、
君の仕事のトレーニングにも
この一文と同じ心構えで取り組んでもらいたい。

説教ばかりになってしまったようだ。

少し、本来の文章を書くということへのヒントについて、
藤原さんが教えてくださっていることを抜き書きしてみよう。

「文章の書き始めで苦労するのは、
 前日に思い浮かんでいたことをすべて書いてしまうからです。
 すべてを書いてしまうと翌日は
 からっぽの状態から続きを考えざるを得ません。
 ゼロから文章を生み出すのはエネルギーを要するため、
 続きを考えることが億劫になってしまいます。」

「自分の書いた文章を読み直すと、どうも冗長で締まりがない。
 そう感じたときは接続詞を切り落としてください。
 接続詞の「そして」「また」「だから」を省いただけで、
 文章がシャープになることがあります。
 構成のしっかりした、よく練られた文章には接続詞は少ないものです。
 一文ごとに書かれている内容が明確で、それらが適切な順番に並んでいれば、
 接続詞で文と文との関係を示さなくても意味が通ります。
 「雨が降った。だから傘を差した」ではなく、
 「雨が降ってきた。傘を差した」で十分です。」

「最近、違和感を抱くのは、
 逆接になっていない「でも」「逆に」です。
 先日、電車のなかで学生数人が
 旅行の計画について話しているのを聞きました。
 「こんどは北海道に行こうよ」
 「逆にハワイは?」」

「単独ならインパクトのある表現も、
 同じ文章のなかで繰り返し使うと、
 リズムが単調になって効果が薄れます。
 とくに注意したいのは語尾です。
 「Aには気をつけよう。
 Bにも気をつけよう。
 さらにCにも気をつけよう」
 これではABCのどれに対しても
 気をつけようとは思わないでしょう。
 こうした場合は、語尾に変化をつけます。
 「Aには気をつけよう。
 Bにも注意したい。
 さらにCにも気を配るべきだ」
 このように語尾を変えただけで全体にリズム感が出て、
 先ほどより文の内容が頭に入る気がしませんか。
 私の場合、三回同じ語尾が続いたら、
 うち一回は語尾を変えられないかを
 考えてみることにしています。」

「別の語尾を思いつかないときには、
 主部と述部をひっくり返すという簡単なやり方もあります。
 たとえば「気をつけよう」「注意したい」以外の
 いい方が思いつかないときは、
 「さらに注意したいのは」の形で述部を文頭にもってきて、
 主部と述部を入れかえるのです。
 そうすると必然的に述部は「Cである」となって
 変化がつきます。」

「二〇代の男女を主人公とした現代小説を読んでいて、
 首をかしげるような表現に出くわしました。
 金持ちの男性が女性に向かって、
 「おまえには豪華な自動車が似合う」
 と囁くシーン。
 いまどき若い男性が日常会話で「自動車」といった言葉を
 口にするでしょうか。」

芥川賞作家にして、
こうして日々文章修業に励んでいらっしゃるのだ。

そのことをなにより
学ばなければならないと
僕自身強くそう思う。

修行時代は一生つづく。

逆に、自分が高まれば高まるほど、
高いレベルでの修行ができる。

また、若い頃、力のなかった頃、
経験やキャリアの足りなかった頃は、
修行しても実は修行になっていなかったりする。

だから僕は、いま
自分が20代の頃にやっていた修行を
もう一度繰り返している。

すると、ほんとうに自分の身になるのだ。

はっきり言おう。

君が結果を出せないのは、
修行が足りないからただそれだけだ。

才能に逃げるな。

感性を言い訳にするな。

運を嘆くな。

すべては自分次第だ。

そう思って、きょうも僕は修行を続けている。

そして、その修行は
きっと永遠に続くのに違いない。

明日の「文章講座」では、
そんな僕の文章修業で気づいた
とっておきの奥義の数々を披露するつもりだ。

時間がない、用事があると
プライオリティが低いだけの言い訳をせず、
ぜひ足を運んでほしい。

君に会えるのを楽しみにしているから。



$若き親友への手紙
線を入れて読ませていただき、抜き書きもたくさんさせていただいた。

いい文章を書くために。

実は、今週木曜日の夜、
文章を書くためのさまざまなコツをご披露する
「文章講座」を開催する。

僕は、ひといちばい文才がないくせに、
コピーライターという文章を書く仕事を選んだ。

30年間、コピーライターとしてやってきて、
いまも現役のコピーライターとして、
書く仕事を続けている。

そんな僕が七転八倒の末、身につけた
さまざまな文章を書くノウハウを
まさに包み隠さずレクチャーさせていただくつもりだ。

といいながらも、
僕はいまもいい文章書くための文章修業をつづけている
発展途上人のひとりだ。

最近、芥川賞作家の藤原智美さんがお書きになられた
『『文は一行目から書かなくていい』検索、コピペ時代の文章術』
という本を読ませていただいた。

こんな素晴らしいテキストを目の前にして、
僕ごときがなにを語れるのかと逡巡してしまうのもまた事実だが、
いくつかの抜き書きを紹介しよう。

「もしあなたが「思うように書けない」「自分は文章がヘタだ」
 という自覚があれば、
 まずはそれだけで、上手に書くことの第一歩を
 踏みだしているのだ、と思います。」

書けない書けないと途方に暮れていた、
30年前の僕にこの言葉を聞かせてやりたかった。

「毎日書くことの大切さも後で述べるつもりですが、
 まずは文章を書くという作業の海におぼれてみることです。」

そう、書けないというひとに限って、
書こうとしないのだ。

下手でもなんでもいいから、まずは書いてみる。

それは、書くことに限らず、
どんなことでも同じに違いない。

とにかく、やってみる。

やらなければ、よくやることもできないのだから。

「気分転換は問題の先送りになりがち。」

「大切なのは書く行為から離れずにいることです。」

このふたつの言葉も同じだ。

書かない理由を言い始めたらきりがない。

それと同じように、なにかをしようとして
しない理由、できない理由を並べ始めたら
ほんとうにきりがない。

「『野性の呼び声』で知られるアメリカの作家、
 ジャック・ロンドンは
 「インスピレーションは待っていてもやってこない。
 こん棒で頭を殴りつけるようにして書く」
 というようなことをいっています。
 著名な作家でさえ、何もないところから絞り出すようにして、
 必死な思いでテーマを探すのです。」

ある程度書けるひとや、才能のあるひとが陥りがちなのが、
神さまが降りてきてくれるのを待つ悪癖だ。

そう、誰も手を差し伸べてはくれないのだ。

この本には、もちろん精神論だけではなく、
具体的ないい文章を書くための方法論が紹介されている。

僕も「文章講座」では、
僕がこれまで発見し、身につけた
書くためのノウハウを
できるかぎり数多くご紹介しようと思っている。

けれど、やっぱり大切なのは、
どんなに苦しくても、書けなくても、
書くことから逃げずに、書き続けるということだ。

別に作家になりたいと思っていなくても、
さまざまな文章を書く場面に君も巡り合うに違いない。

短いメールの文章だって、立派な文章だ。

もし時間があれば、ぜひ。

必ず聞いてよかったと、
思ってもらえることだけは、
僕が約束する。


$若き親友への手紙

励ま詩の夜。

今夜、僕がやっている活動のひとつ、
「励ま詩LIVE」を
池袋のライブハウス、鈴ん小屋さんで開催した。

大石綾子さんというピア二ストの方の
ピアノの演奏をバックに、
僕の「励ま詩」を朗読していく。

きょうはチャリティ開催で、
盲目のヴァイオリニスト、穴澤雄介さんも
いらしてくださった。

ピアノとヴァイオリンの
贅沢なアンサンブル。

即興で詩を作るコーナーでは、
穴澤さんも即興でヴァイオリンを奏でてくださった。

チャリティとして5万円近く集まった義捐金は、
今回のLIVE開催をお手伝いしてくださった
出版プロデューサー早川愛さんの地元、
福島県のアクアマリンふくしまさんに直接全額寄付させていただく。

被災地の東北では、むしろこれから
本格的な支援が必要になってくるだろう。

僕らもできる限り以上のことを
しつづけていきたいと思う。

今年の暮れには、
「励ま詩クリスマスLIVE」として
またチャリティ開催しようと思うから、
そのときはぜひ。

ステージに立ち、みなさんの前で詩を朗読し、
少しお話もさせていただいた今夜。

もし君が来てくれたなら、
どんな感想を抱いてくれただろうか。

頑張ること、頑張り続けることは、
容易なことではない。

でも、やっぱり頑張らないといけないし、
頑張ることを照れたり、放棄したり、
あきらめてはいけないと思う。

頑張ろうとしても頑張れない、
そんな自分もときには許してあげたいけれど、
頑張らない自分は許してはいけない。

そう、これはすべて僕自身にいっている言葉だ。

そして、君といっしょに
これからも頑張りつづけられれば
これほど幸せなことはない。




$若き親友への手紙
早川愛さんからいただいた誕生プレゼントの、「励ま詩おせんべい」。


$若き親友への手紙
木谷安憲画伯が描いてくださった、励ま詩の油絵。

チェジュ島の8時間。

さて、ソウルの金浦空港から
2時間のフライトで
チェジュ島の玄関、チェジュ国際空港に。

古くは流刑地として、
哀しい歴史も刻まれてきた済州島。

チェジュ島というと、
「冬のソナタ」とか、
カジノ、リゾート、ゴルフと
どこまでも明るいイメージにあふれているが、
済州島というとイメージは一変する。

日本軍がかつて
許し難いとんでもないことを
この島のひとたちにしでかしたことも
僕らは決して忘れてはならないことだろう。

ソウルで、今回のガイドを務めてくださる
韓国が誇る世界のトップ企業の方と落ち合い、
同じ飛行機でチェジュ島に飛んだ。

チェジュ空港からはレンタカーで
今回の仕事先を回る。

慌ただしく午前の仕事を終え、
午後の訪問先に向かう途中で
昼食を取ることになった。

韓国に来てはじめての
食事らしい食事は、黒豚焼き肉。

オモニが丁寧に焼いてくれるのを待って、
サンチュで巻いてほおばる。

美味なるものには
昼とはいえどもビールが欠かせない。

心のエネルギーもたっぷり補給して、
午後の訪問先に向かう。

夕方まで仕事をして、
空港に向かう途中、
「抗日記念館」の文字が。

これは、日本人として
見学させていただく義務がある。

そう思って、
アテンドしてくださっている方に
相談申し上げると、
「私たちもはじめてです」と
おっしゃるではないか。

「抗日記念館」では、
日本軍が犯したさまざまな愚行非道を
生々しい写真とともに紹介している。

拷問、子どもたちの虐殺は、
戦争という言葉で言い訳してはいけない。

いや、もし君が
チェジュ島を訪問することがあったなら、
ここには必ず立ち寄るべきだ。

複雑な胸の内を隠しながら、
チェジュ空港へ。

立派な建物だが、
期待していたお土産物屋さんはなく、
デューティーフリーの品揃えも残念だった。

しかし、あの「抗日記念館」で目撃したことを想うと、
そんなことで文句を言っている場合ではない。

それやこれやで、
6時過ぎの飛行機で出発し、
成田に着いたのが8時半近く。

羽田から出て、成田に戻る1泊2日。

疲れ具合からは朝出夜帰りの
2泊3日といった感覚だった。

韓国の南の島、チェジュ島は、
決して表面的な楽園ではなかったが、
どこまでも有意義な
韓国滞在18時間、チェジュ島滞在8時間だった。

次は、ぜひゆっくりゴルフをしにきてくださいと
おっしゃってくださった韓国の国際ビジネスパーソンは、
実は翌日日本にいらっしゃるとおっしゃっていた。

無事出張を終え、
ひとりキムチを食べながら
ビールを飲んでいるうちに日付は変わっていた。

とりとめのないチェジュ島報告で
君をがっかりさせてしまったかもしれない。

でもそれは、韓国の、チェジュ島のせいではなく、
僕のせいであることだけは
忘れずに申し添えておこうと思う。