先程ベランダに出たら外は雪景色でした。

夜になってからの数時間で結構積もったようです。

僕は雪を見るとワクワクしてきちゃうんですよね(笑)

これまで細かいパラパラ雪はありましたが、
奈良の方で積もる雪は今シーズン初めてです。

8日は各地で結構降るみたいですね。

外出時や車を運転される方は大変だと思いますが、
足元を滑らせたり事故にはお気をつけください。


ベランダの雪を掴みながら、雪の結晶が思い浮かびました。

雪の結晶って、一粒一粒が異なる形をしてるんですよね。

空から降ってくる間に一粒一粒が異なるって、
改めて考えると凄いことだなぁって思います。

とても不思議です。

本当に降ってくる雪の一粒一粒が異なるのであれば、
一体どれだけの種類になるのかは検討がつきません。

僕は子供の頃、雪印みたいに
全部が同じ形だと思ってました(笑)

雪の結晶の写真を見ると同じ六角形ですが、
それぞれが繊細で美しい形をしていますね。

そして、一粒一粒がそのままで完全に見えます。


それは人間にも言えることかもしれません。

雪の結晶の一粒一粒が美しい形をしているように、
一人一人の本質はそのままで美しい姿なんだと。

雪の結晶の繊細さは、人の体の細胞の
一つ一つが繊細であるのと同じですね。

そして、本来は何も付け足さなくても、
本質的にはそのままで完全なんだと。

それは人に限った話ではありません。

存在しているすべてに言えることです。

僕は個人的に自分のことを不完全だと思っていますが、
完全な中で不完全を演じているだけなのかもしれません。

自分を不完全だと思うようになっているのは、
外側の変化に適応した進化をとげていくための、
生命に備わった働きだと都合よく捉えています(笑)

いつも自分は完全だと認識していたら、
人として成長する幅がありませんからね。

でも、存在の本質に立ち返ることは大切だと思っています。


久々の雪を眺めながらそんなことを考えていました。

ちなみに、美しい結晶が見られるのは、
気温がある程度低い方がいいようです。

そういえば、ゲレンデとかで見かけるパウダースノーは、
一粒をよーく眺めてみると確かに結晶になっていました。

顕微鏡で見たら一粒一粒が異なる形をしていて、
それぞれに個性があって美しいのでしょうね。

まさに、空から地にかけて降り注ぐ神秘的なアートです。


雪の結晶集

僕が20代中盤頃、生きるとは何だろう?って
考え始めるときがやってきました。

自分は何のために生きているのか疑問だったのです。

それまでは何も考えずに生きていました。

今日までやりたいことをしてきた方だと思います。

仕事でも遊びでも、僕はハマると熱くなるタイプでした。


その中でもバンドは最高に熱くなりましたね。

10代から20代前半まで、僕はバンドマンでした。

いつも音楽のことしか頭になかったです。

ちなみに、僕はギターボーカルをしていて、
ベースボーカルとドラムの3ピースバンドを組んでいました。
(3ピースとは3人バンドという意味です)

毎日仕事が終わったらギター練習して、作曲もして、
週末になればスタジオに入って仲間と音を合わせて、
月に1回のペースくらいでライブをやっていました。

あの頃を思い出すと懐かしいです。


あの頃は、生きるとは何だろう?とは考えずに、
思いっきり自分を生きている感覚がありました。

バンドでプロを目指すために高校もすぐ中退しています。

周りが何を言おうと関係ねぇって勢いでした^^;

中学生のときは塾にも通って勉強を頑張り、
せっかく希望の高校に入れたのですが、
中学卒業と同時に何かが弾けてしまったようです(笑)

授業がつまらなすぎていつも寝ていました

そして学校を辞めて働きながらバンドに熱中です。

今も学校を辞めたことに後悔はありません。


あの頃から自分の生き方を選択したのです。

若い頃から、世間体の常識とは少し外れていました。
(少しどころじゃない時期もありましたが^^;)

外側に無理に合わせようとすると、
自分らしさが失われるのを感じます。

それはいまだにそうです。

外側の基準に合わせて生きていくことが、
もし息苦しくて窮屈に感じることがあれば、
無理に合わせていく必要はないと思っています。

それは、自分らしく生きていないよというサインかもしれません。

僕は10代の頃から自分の道を選択していますが、
その道を選んで良かったと心から思っています。

外側を気にしながら常識に縛られた生き方じゃ
体験できないこともたくさんしてこれました。

僕の過去の自分らしい生き方とはそんな感じです。

苦労したことはたくさんありましたが
もともと我が道を突き進むタイプでした。


自分らしい生き方は、いつだって自分で決められるんです。

本当はこうしたいと思うことがあれば、
それを選択する自由が与えられています。

昔はそれが許されない時代もありました。

今の時代は社会の許される範囲で、
自分らしい生き方ができるのです。

自分らしい生き方とは、こうしたいと感じるままに、
誰だって、今ここからスタートすることができます。

もしこうしたいと感じるままに生きられない状況であれば、
それを抵抗しているものが何かを知る必要があると思います。

心の中のブロックか、誰かの目か、世間体が気になるのか、
自らの可能性を信じていないのか、何かしらあるはずです。

自分の生き方は、誰かが選ぶのではなく、自分で選択できます。

誰かの為に生きることを選択する人もいるかもしれません。

自分の人生で体験したいことを選択することができます。

もちろん今すぐに体験できないことはありますが、
そうしたいと望むことはいいことだと思っています。

自ら選択しないで流れを楽しむという選択もありますね。

その時は起こるままに体験を味わうことができます。

選択をしない選択もあるということです。


今は、生きてること自体が体験だと捉えています。

今この瞬間からも、生きてるだけで体験してるんですね。

本当は自分が望む体験をしようとしなかろうと、
今生きてるだけで計り知れない価値があります。

良いも悪いも、体験できることに生きてる価値があるのです。

それに、どんな体験をしても大丈夫だと知っています。

存在の本質的には何も問題がないということですね。

だから生きてる間はとことん体験しようと思ってます。


追伸

最近、Facebookで繋がった地元の同級生が、
3ピースでバンドを組んでいるのを知りました。

写真を見ながら、昔のバンド時代を思い出して懐かしくなります。

やはり自分の好きなことをしている人は輝いていますね。

3人とも生き生きとしてめっちゃ楽しそうです^^

今度ライブ観に行くのが楽しみです♪

今回は、過去には捕らわれない新たな自分で生きる
とういことについてお話させていただきます。

過去に捕らわれないようにするためには先ず最初に、
過去の自分を受け入れることが大事だと思っています。

本当の自分は受け入れようとしなくても、
すべてを受け入れてはいるのですが、
心の中では受け入れていなかったりするのです。

現実として起こる出来事や人間関係の中で
無意識的に反応する心のパターンの殆どは、
過去から培われた心が反応しているからです。

現実は心のフィルターを通して見ているからですね。

このことはブログで何度かお伝えしてきましたが、
大事なことだと感じているので改めてシェアします。


これは僕の体験から言えることでもありますが、
今の自分をありのままに受け入れるためにも、
過去の自分から受け入れていく必要があります。

それはポジティブな経験だけではなく、
ネガティブな経験でも同じことです。

その経験自体にポジティブもネガティブもなく、
それを自分で勝手にジャッジしちゃっています。

自分にとってポジティブな経験は受け入れられますが、
ネガティブな経験ほど受け入れたくないものですよね。

たとえば、その経験を心の反応として言葉に表せば、
不安、悩み、怒り、恐れ、孤独、弱さ、寂しさ、悔しさ、辛さ、
悲しみ、苦しみ、憎しみ、罪悪感、嫉妬、恨み、執着などです。

それのような経験を思い出すことに抵抗あると思いますが、
自分の中で受け入れきれていない過去があるとすれば、
勇気を持ってでもあえて向き合うだけの価値はあります。

僕は過去に、そのような感情をたくさん味わいました。

でも、そのネガティブな経験があったからこそ、
それを乗り越える原動力になったのは確かです。

ネガティブなエネルギーは、ポジティブの燃料になっているのです。

ポジティブの背景には、ネガティブの要素が
支えていると言ってもいいくらいです。

心の中では両方の要素が働いているということですね。


しかし、ネガティブをバネにポジティブになれたけれど、
そのネガティブな自分を否定してしまうことで、
今を生きることにも影響を与えてしまうことがあります。

否定していなくてもネガティブだとジャッジしたものを、
心の深くに封印したままにしていることがあるからです。

その封印させている心に触れたときに過剰反応したり、
何気ない日常生活の中で嫌な感情が浮上してきたり、
人のネガティブ性に対して敏感に反応してしまったり、
そうでなければいけないという思いが強かったりなど、

心の過剰反応を数え上げたらきりがないのですが、
それは心が抵抗してしまうような反応に近いです。

ありのままの状況(状態)を受け入れられないときですね。

心のフィルターが瞬時に過去の経験と照らし合わせて、
無意識的な反応として現れてきてしまうものなのです。

過去に蓋してきた感情が溢れてくるきっかけでもあります。

一般的には、ネガティブな感情には蓋をしてしまいがちなのです。

本当はポジティブもネガティブもないのに、
ネガティブだとジャッジしたものについては、
見ないようにする習性があるからだと思います。


僕は、ポジティブやネガティブという相対的な心を支える
純粋な意識があることを思い出すことができました。

純粋な意識とは、本当の自分のことです。

心の自分だけではない、本当の自分の存在に気づいたのです。

それは相対性を超えたニュートラルな意識状態ですね。

すべてではなく、すべてであるという、
何とも言葉では表現しづらいものです(笑)

今に在り、すべてと共に存在していることを知ったのです。

それが存在の本質なんだと体感で理解しました。

最初からあった命の根源に意識を向けたという感じです。

現在も瞑想や意識共鳴を通してその意識を深めています。

それに伴って心の浄化も自然に起こってきましたが、
自らあえて心と向き合うことはしてきませんでした。

その必要性を感じていなかったからです。


最近は、心と向き合うことでさらなる解放を実感しています。

それまでは、本質的な意識であればいいと思っていました。

心と向き合うことを怠ってきたのです。

特にネガティブな経験ほど封印させたままでした。

それが解放されたことで、以前より心がスッキリしているし、
どんな自分も受け入れられているような感覚があります。

意識的なあり方としてだけではなく、
心から受け入れているということです。

心の反応を、心から許容することができています。

僕は、自分の心や現実と向き合うのは怖いから、不安だから、
本当の自分の意識に逃げ込むことだけは避けるつもりです。

意識の目覚めは、現実から逃れるためではなく、
リアルな現実を生きるためにあると思っています。


色々と語りましたが、今回の記事でお伝えしたいことは、
ポジティブだけではなく、ネガティブも認めちゃって、
どちらの自分も受け入れましょうということです。

生きている限りは、どちらの側面もあるからです。

ネガティブに抵抗する心が働いている場合は、
それを許せていない過去の心が働いています。

その反応があれば、過去の記憶をさぐることをきっかけに、
封印していたネガティブな感情エネルギーを解放させて、
感じつくして成仏させればスッキリしてくるはずです。

そのことは以前の記事でも紹介したことがありますので、
よろしければそちらも参考にしていただけたらと思います。

「過去に保存されたネガティブな感情を感じつくして成仏させる」


どんな自分がいてもいいと心から受け入れること、
どんな自分がいてもいいと心から認められること、
それが自らの制限が外れることに繋がると思います。

制限が外れたら、可能性も無限大に広がります。

自らを制限しているのは自分でしかありませんからね。

それが過去の心の記憶が制限させている場合があります。

もちろん制限が外れたことによって悪いことをしたり、
非道徳的なこともできるという意味ではありません(笑)

自らのことを不自然だと感じるものとも異なります。

この自分が自然体でしっくりくるという感じですかね。

制限のない新たな自分らしさも見出せると思います。

現在の自分は過去の経験の集大成でもありますが、
過去には捕らわれない新たな自分でもあります。