僕は、新鮮な今を純粋に楽しむことを大事にしています。

瞑想するときや共鳴しているとき、または、
何かに夢中になっているときなどもそうですね。

この命が自然に体現されるままに味わっている状態です。

それは理由のいらない無条件のもので、
生きているだけで嬉しい気分になります。

今に生きる命を感じているときは最高ですね。


人生について深刻に考えてしまうときがあれば、
なるべく視点を切り替えてその状態に浸ります。

最近はいかに生きるかを自分なりに考えていますが、
考えようとしなくても全体から起こる流れの中で、
人生が運ばれていくことも実感しているからです。

想定範囲内の人生は安全領域なのかもしれませんが、
僕は想定範囲外の展開を受け入れる覚悟があります。

予想もしていなかった展開がまた面白いですからね。

それは、自分の想像を超えた流れが創造されることです。

自分が経験していない未知なる領域にも好奇心があります。

想像を超えた展開や未知なる領域を体験しても、
本当の自分がブレてしまうことはありえません。

本当の自分は、今に気づいているすべてだからです。

たとえありふれた日常を送っていたとしても、
その中での新鮮さを体感することが好きなのです。


時は毎瞬のように過ぎ去り、常に新しい今を迎えています。

時代の流れは刻一刻と変化しているのですね。

普段から当たり前に過ぎ去っていく日常も、
すべてが変化していく流れの中にあります。

僕は、新しい自分と新しい現実を受け入れようと思います。

これまでの自分や現実を否定することではありません。

時代の流れと共にすべての変化を受け入れながら、
新しい今を創造していく力を養っていきたいです。

それが自分にとって、新鮮な今を純粋に楽しむスタンスです。

映画館で今話題の永遠の0を観てきました。

「いかに生きるかを考えさせられた」という
映画を観た人のレビューを見たのがきっかけです。

自分にとって大事なことだと感じました。

実際に考えさせられる内容です。

この映画はこれまで見てきた戦争映画とは
また異なる刺激と感動がありました。

日本の神風特攻隊(零戦)で死んでいった者を、
現代に生きるその孫達が、生き残った人達に直接会い、
当時を振り返りながら進めていくストーリーです。

戦争の醜さや恐ろしさもそうですが、それ以上に、
戦争に関わった人やその家族の背景を描いていて、
それぞれの想いや感情も鮮明に伝わってきました。


映画を見終わった今、生きている尊さを再認識しています。

当時の日本兵は、国の為に死を選ぶことが当たり前でした。

約70年前までは、死を覚悟して戦っていた時代だったのです。

大勢の若者達が日本の為に死んでいったのですね。

それも自ら志願して。。


僕達は、戦争で死んでいった者達の過去があって、
現代の平和な日本の中で生きることができるのです。

そのことを忘れてはならないと思いました。

もし現在も当時から戦争が終わらずに続いていたら、
僕は今の年齢まで生きられなかったかもしれません。

産まれることさえできなかった可能性だってありますね。

戦争当時に生きていても同じだったと思います。

死の覚悟をせざるを得ない状況ということです。

今の感覚じゃ考えられません。

でも当時は、それが当たり前でした。

死んでいった者達にしか本当の気持ちは分かりませんし、
死を覚悟することがどれほどのことかは想像できません。


戦時中だとしたら、周りの仲間達が次々に特攻を志願し、
そして死んでいく姿を見て、どう想い、何を感じるのか・・・

果たして、自分も後に続くように、死を覚悟できるだろうか?

それとも、周りから臆病者と言われても、生を選ぶだろうか?

常識や概念って、一体何だろうと改めて思いました。

生きるか死ぬかさえ、外側の常識や概念によって、
人生の選択を迫られてしまう時代があったのです。

戦時中であれば、選択する間もなく死んでいった者達は大勢います。


外側の常識や概念に一切影響を受けることなく、
生きていくって簡単なことじゃないとも思いました。

現在は生か死かは問われないにせよ、
何かしらの影響は受けているはずです。

自分がこの社会で生きていられるのは、
常識や概念にも支えられているからですね。
(人間関係や法律、政治、経済などの社会的な体制など)

人との関わりや社会の営みの中で生きている限り、
自分にとっては良くも悪くもそう言えます。

人里離れた山奥でひっそりと暮らす分には、
常識や概念に縛られることなく何からも自由ですが、
実際はそのように暮らすのは大変だと思います。

社会的な生活の中で生きていくのであれば、
一般的な常識や概念を踏まえながら、
いかに生きるかを考える必要があります。

それに縛られながら生きるという意味ではありません。


現在は幸いにも一人一人の命が尊重されています。

戦争で死を覚悟する必要もありません。

社会革命を起こさなくても自由な選択ができるのです。

何を表現しようと、どこに行こうと、誰と会おうと、
自分がどうしたいかを可能な範囲で選択ができます。

それが許されている時代に生きられるのは幸いですね。

もし社会的な不都合を感じているのであれば、
外側のせいにしながら責任転換し続けるよりは、
先ずは自分を変える方が優先だと思っています。

現在の日本の平和と自由は、過去に戦死した
大勢の人が残してくれた贈り物でもあります。

そう思うと、戦死者を弔う気持ちと感謝で一杯です。

その上で、自分をいかに生きるかを考えていきたいです。

僕は昔から、このままの自分じゃ駄目な感覚がありました。

今の自分では満足しきれない想いが強かったのです。

一体何をすれば自分らしく満足に生きられるだろうかと、
自分なりに様々な情報に触れてきて学び続けていました。

自己啓発や成功哲学、願望実現や引き寄せの法則、
人生哲学や心のこと、真理の洞察を深めるために
宗教関連の本なども読み漁っていた時期があります。

ビジネス系のセミナーには何度も足を運びました。

20代の半ばあたりから起業したこともあります。


でも殆どのことは空回りでした。

何をしても上手くいきません。。

学んだことを実践しても壁にぶつかると挫折するし、
せっかく学んだことも時が経てば忘れてしまいます。

何を試しても長続きしないですぐに飽きてしまうし、
そんなことを繰り返している自分が情けなかったし、
心の中でずっと自分を認めることができませんでした。

そんな己の至らなさが悔しかったです。

現実逃避したくなるときもたくさんありましたし、
すべてを忘れてしまいたくなるときもありました。


外側の価値基準に流されて生きてきた経験の一つです。

もちろんそれが全て無駄だったわけではありませんし、
その経験から今に繋がっていることは間違いありません。

でも、自分らしかったかと言えば疑問が残りますね(笑)

その経験をしなければ気づけなかったこともあるし、
僕の中ではそれが分かったことに意味があります。


いや~、お金も時間も相当使ってきましたね^^;

自分の可能性を広げるため、そして、
自分を磨くために投資してきました。

努力が空回りしているような状況でも、
プライドだけは人一倍強かったです。

いつか自分らしい花が咲く日が来ることを信じて、
自分を磨き続けることが趣味になっていました。

もちろん遊ぶこともたくさんしてきたのですが、
心の中はいつも不安や不足感で一杯だったのです。

僕の20代はそのような心の葛藤も多かったですが、
今はそのような経験もすべてが尊く感じられるし、
だからこそ人生は面白いと思えるようになりました。


30歳になってから本当の自分の本質的な意識に触れて、
不足感はエゴが作り上げているものだと気づきました。

僕にとっては大きな発見です。

カルチャーショックに近い感覚でした。

今ここに存在している自分に気づいたのです。

根本的に最初からある存在のことを、
それまでうっかり忘れていました(笑)

心の中では不足感や葛藤が働いたとしても、
それをいつも見守り続ける揺るぎない存在です。


それが自分を自分たらしめている実在でした。

何からも制限されることなく可能性に満ちていて、
どんな自分も受け入れながら自由である存在です。

僕がブログを通して伝えている本当の自分って、
普段これが自分だと思っている思考とは異なり、
自分をいつも支え続けている命の根源のことです。

すべてを生かし、すべてを存在させている大いなる命ですね。

その大いなる命が、自分の命を生かしているのだと思っています。

すべてと共に今を生きているという実感も強まりました。


僕にとっては、本当の自分に気づいたこれからが
第二の人生の始まりと言っても過言ではありません。

3年前にこれが意識の目覚めであることも知りました。

間違いなく人生のターニングポイントになっています。

僕はこの3年間で、本当の自分を日常から意識し続け、
瞑想や意識共鳴を続けながら体感を深めてきました。

本当の自分は知識や概念を超えているので、
頭で理解しようとするよりも体感が一番です。
(知識や理解が必要ないという意味ではありません)

個人セッションやイベントなどの活動を通して、
その体感を多くの方と分かち合ってきました。

僕は存在の本質で分かち合えるのが好きです。

その喜びや感動をみなさんと共に味わうことができました。


今現在は、本当の自分を大前提にしたうえで、
自分らしく生きることに意識を置いています。

本当の自分に目覚めようと目覚めなかろうと、
人はそれぞれの世界観の中で自分を生きていて、
すべてとの関係性の中で刺激を受け与えています。

意識的なあり方だけにこだわらなくなりました。

人間体験してるんだから、人間臭さも好きなんです。

その人らしい世界観や個性を表現している人も魅力的です。

どうあるかと同じく、どう生きるかも大切ですね。

この命として与えられた心と体の自分を
いかに生きるかの方に関心を持っています。

自分を生きることから逃れるためだったら、
目覚めない方がましだと言えるくらいです。

すべては起こるべきことが起こると言われているし、
宇宙や魂の流れに乗ることも大切だと感じています。


でも僕は、時に試行錯誤したっていいし、
迷ってしまうことがあっていいと思っています。

そんな時期も、後から振り返ると貴重な経験だと気づけました。

よりよい自分自身と出会うためにも必要な時期です。

それが魂や自己の成長に繋がるものだと思います。

完全な意識状態があることを知ってはいても、
人として不完全な自分を成長させたいのです。

外側の変化を受け入れながら自分を進化させます。

そのままでOKな前提で、自分らしさを問い続けます。

意識の目覚めは自分自身を生きるきっかけですね。

そして、自分らしさを開花させていきながら、
人生で起こる一つ一つの体験を楽しんでいきます♪