福島原発20キロ圏内視察ツアー①~浪江町~
福島原発20キロ圏内視察ツアー②~双葉町・大熊町~
から続く。
一行は、富岡町に入った。
富岡は、この4月1日より町の多くが避難指示解除地域となる。
今までのように、一時帰宅ではなく、「帰ってきて住み続けてよい地域」となるのだ。
現地ガイドの仲山さんは生まれも育ちも富岡町。
まずは、福島第二原発の見える海へ一行を案内していただいた。
第二原発は、事故を起こしていない。
が、仲山さんによると「間一髪」だったそうだ。
「ここも第一と同じように、津波によって、外部電源が失われました。
津波は波だけがくるのではなく、ガレキという障害物を運んでくるのです。
しかし、4回線あるうちのたった1つの電源が生きているのが
わかりました。
そこで、200人の職員が何トンもする重いケーブルをかついで、
人海戦術でケーブルを800メートル先の建屋までつないだのです。
電源をつないで冷やさなければ、第二も爆発する。
3/12の深夜1時頃、ようやく建屋とケーブルがつながって、
最悪の事態は回避されました。
200人でつないだ仮設ケーブルの総延長は9キロ。
タイムリミットの2時間前だったそうです。
もし第二も爆発していたら、東日本全体に何らかの避難指示命令が
出されていたかもしれません」
当時、住民には事故はどのように伝わっていたのだろうか?
「津波と川の氾濫に備えて、多くの住民が各避難所へ
集まっていました。
そこで、ヒソヒソと『どうやら第一がヤバイらしいよ』と噂されてはいました」
「けれど、ヤバイといってもまさか最悪の事態に
なるとは思ってなかった。
どうにかしてくれるだろうと。」
「だから、3/12に避難指示が出た時も
それは念のためで、3~4日で帰れるだろう
ぐらいに思っていたんです。」
「人によっては、小銭の入った財布と免許書ぐらいを
持って、車で避難しました」
「となりの川内村は、車で20分ぐらいの場所。
しかし、富岡から行く車の大渋滞で4~6時間もかけて
避難したのです。」
仲山さん一家は、親戚を頼って、わずかな現金と着替えを持って
いわき市へ避難したそうだ。
▼3/12朝の第二原発の写真
「あってはならないものが写っています。それは建屋からあがる煙。
第二も間一髪でした」と説明するガイドの仲山さん
目の前にたつ福島第二原発。
ここも第一同様に
30年といわれる長い年月をかけて廃炉となる予定だ。
こちらは、震災後に建った「廃炉にするための研究センター」
「原発マネー」といわれる豪華な富岡町役場の前に建っている。
この後
一行は、富岡町の中心地を通り、商店街へ。
トイレ休憩に借りた場所は
「さくらホールとみおか」というショッピングセンターで
ホームセンターとフードコートがある。
4/1 住民の帰還に備え、昨年末に仮オープンしたそうだ。
なお、私たちが行った翌日の26日、ここで
「浜魂」と呼ばれるイベントが開催されたらしい。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170225-00000011-minkei-l07
そして、ここがかつての商店街
バス停は「富岡上町」とある。
一見、普通の商店街に見えるだろう。
というか、商店街だ。
酒店、銀行、病院、本屋、米店が並ぶ。
仲山さんの家もこの先の「時計店」である。
だが、人がいないのだ。
「そのまま住めそうでしょ?でもね見てください。
雨漏り、ネズミの糞の被害です」
といって、ロープの貼られた1軒の店内を見た。
中の写真をも撮ることさえ、躊躇してしまうような荒れ方だった。
蔵のある本当に美しい家なのに。
被害は、雨や小動物だけではない。
なんと震災後1週間には、窃盗団が入り
金品すべて取られたそうだ。
仲山さんの家も
「商品、貴金属、すべて持っていかれました。
私が大事にしていたお茶の道具も。
それらはネットオークションで売られるんです」
今でも窃盗対策のため、パトカーが見周りするそうで
「富岡は日本一、パトカーと遭遇する街なんですよ」
最後に、一行は、桜の名所である夜ノ森地区へ移動した。
4月になれば2キロの桜が咲く町民自慢の地で、まわりには新しい住宅が多い。
2011年の3/11までは、普通の暮らしがあり、多くの住民がいたはずだ。
が、今、そこにあるのは・・・
バリケードのなかには6年前からの車もあった。
おしゃれなアパートからは、今にも住民が出てきそうな気配がする。
信じられないのだが、
この道路1本隔てて、右側が「帰還困難区域」
左は、4/1より帰還できる区域だ。
考えられるだろうか?
自分の家を出たら、向かいにはバリケードがあり、
無人の家々が並ぶ光景を。
そして、これを日常のものとして受け入れる生活を。
「この区切りは、放射線量なんですか?」と質問してみた。
すると
「そうではないのです。本当に線量だけで区別するなら
極端な話、1軒の家の居間で分断となります。
それは現実的でないので、線量が強い場所がある地域一帯を
こうして道路や行政区で区切ったのです。
だから、こうして通行止めでも、実は線量の低い場所もあるはずです」
酷な質問と思いつつ、仲山さんに聞いてみた。
「帰りますか?」
「今は帰れません。うちは年寄りと私だけなので
帰れるなら帰りたい。けれど、あのままでは住めないので・・
業者にはリフォームするより、立て替えた方がいいといわれています。
なので、あの商店街も、いずれこれからいったんは更地になるはずです。
復興じゃない、もとには戻れない。
富岡は新興なんです 」
半日、ガイドしてくださった仲山さんと浪江インターで別れ、
高速で北へ向かった。
途中、相馬サービスエリアで、無邪気に遊ぶ子供を見た。
なんだかすごくほっとした。
7:00に盛岡を出て、その日はじめて子供の姿を見たのだ。
と同時に、バスのなかで仲山さんが最後に話してくれた
言葉の意味を噛みしめる。
「富岡に子供たちが帰ってきたとき、
その時こそ、富岡の出発だと思っています」
震災前の富岡町の人口は16000人
町は、除染の作業員も入れて、4/1以降の人口を3000人と
予測しているそうだ。
▼桜の名所を背に記念写真。
写真の右側は4/1から住んでよい地域、バスの左側は以前として帰還困難地域
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