1月17日、みそっかすははじめてライブハウスとの共同企画を行った。
私は今でもそのライブの悔しさを忘れることが出来ない。
大概の辱めを経験し、羞恥心の受容器官はすっかり磨耗してしまっていたが、今回のライブでは違う場所を刺激されてしまった。
我々も以前とは変わってきたのだ。
その2日後、そのライブの失敗を踏まえたせいかアウェイのライブでまずまずのライブをする。
その時私ははたと思い当たった。カス人間の我々は、普段から多数の友人に囲まれる機会を逸していたので、アウェーに対する経験値しか積む機会もなかったのではないか。なにしろホームであるはずのキャンパスが、4年間ずっとアウェイだったのだから。
だが私たちはいきなりホームでイケイケになれるほど器用ではない。もし私たちがもっと器用だったなら、たくさんの友人に囲まれて下手くそにラッドウィンプスのコピーバンドでもやってキャーキャー言われているだろう。
ホームとアウェイの切り替えが出来ぬほど不器用ならば、いつでもアウェイのつもりでいればいい。これが私たちの出した結論だった。そう考えると不思議と落ち着いてしまうのが私たちのやさぐれた悲しい性である。友人の少ない人生がこのような作用をもたらすとは、優秀なスクールカウンセラーですら予想がつかなかったであろう。
とにもかくにもわたしたちは2月にレコーディングを済ませ、3月の自主企画に備えた。
私の脱退ライブである。
脱退当日もみそっかすは最後までみそっかすらしく30分を駆け抜けた。
アナログの頭脳、美浜緑苑、黒いチェリー、jackie low、all that jazz
音楽でであった尊敬すべきミュージシャンたちと最後のステージを迎えられた私は本当に幸せ者だった。
このときばかりは、私はクソ人間でよかったと思った。
派遣切りという大禍の真っ只中にいたファック中野も、生きて駆けつけてくれたことがとても嬉しかった。一時は生死のほども定かではないほど情報が途切れていたからだ。
彼のダイブにより私の友人が負傷、立腹のあまり早々に退場したが、彼が生きていた方が嬉しかった。
さて、この後のことはわたしの手を離れてしまっているので、細かい動きなどはあずかり知るところではない。
しかし、はるきちが免取になったり、全員介護職員になったり、かとおもったらあわやメジャーデビューがちらついたりしながら作曲活動に励んでいるらしい。
わたしは独り静岡にて農作業をしながら吉報を待っている。
※2010年3月、私は一旦バンドを脱退し、5か月後に復帰。2年近く静岡から名古屋に通いながらバンドを続けることになる。
私は今でもそのライブの悔しさを忘れることが出来ない。
大概の辱めを経験し、羞恥心の受容器官はすっかり磨耗してしまっていたが、今回のライブでは違う場所を刺激されてしまった。
我々も以前とは変わってきたのだ。
その2日後、そのライブの失敗を踏まえたせいかアウェイのライブでまずまずのライブをする。
その時私ははたと思い当たった。カス人間の我々は、普段から多数の友人に囲まれる機会を逸していたので、アウェーに対する経験値しか積む機会もなかったのではないか。なにしろホームであるはずのキャンパスが、4年間ずっとアウェイだったのだから。
だが私たちはいきなりホームでイケイケになれるほど器用ではない。もし私たちがもっと器用だったなら、たくさんの友人に囲まれて下手くそにラッドウィンプスのコピーバンドでもやってキャーキャー言われているだろう。
ホームとアウェイの切り替えが出来ぬほど不器用ならば、いつでもアウェイのつもりでいればいい。これが私たちの出した結論だった。そう考えると不思議と落ち着いてしまうのが私たちのやさぐれた悲しい性である。友人の少ない人生がこのような作用をもたらすとは、優秀なスクールカウンセラーですら予想がつかなかったであろう。
とにもかくにもわたしたちは2月にレコーディングを済ませ、3月の自主企画に備えた。
私の脱退ライブである。
脱退当日もみそっかすは最後までみそっかすらしく30分を駆け抜けた。
アナログの頭脳、美浜緑苑、黒いチェリー、jackie low、all that jazz
音楽でであった尊敬すべきミュージシャンたちと最後のステージを迎えられた私は本当に幸せ者だった。
このときばかりは、私はクソ人間でよかったと思った。
派遣切りという大禍の真っ只中にいたファック中野も、生きて駆けつけてくれたことがとても嬉しかった。一時は生死のほども定かではないほど情報が途切れていたからだ。
彼のダイブにより私の友人が負傷、立腹のあまり早々に退場したが、彼が生きていた方が嬉しかった。
さて、この後のことはわたしの手を離れてしまっているので、細かい動きなどはあずかり知るところではない。
しかし、はるきちが免取になったり、全員介護職員になったり、かとおもったらあわやメジャーデビューがちらついたりしながら作曲活動に励んでいるらしい。
わたしは独り静岡にて農作業をしながら吉報を待っている。
※2010年3月、私は一旦バンドを脱退し、5か月後に復帰。2年近く静岡から名古屋に通いながらバンドを続けることになる。