テレビの連続ドラマで極悪非道を繰り返したキャラが終盤あわれな目に遭い、最後非業の死を遂げると「○○ロス」などと言われます(○○はキャラ名)
しかし自分はこれモヤモヤします。極悪非道を繰り返したキャラだし。最後の数回あわれだと簡単に許しちゃうって「どんだけ忘れっぽいの?」「軽いの?」
それはロスになる視聴者より、ドラマを作る側に対してより思います。そういう反響は狙ってでしょうから。
悪役のまま終わらせたかったら同情を引くような場面は足しません。にっくき敵役を通す。○○ロスとなるのはいざなわれた結果です。
視聴者としては最初に嫌ったせいもあるんでしょう。数々の非道を見て「なんてヤツ」と思ったけど実はかわいそうな人だった。誤解したのを気に病み、悪かったと思うから余計同情する。ロスになる。
でもたぶん誤解じゃありません。終盤まで徹底的に悪く見せたのはドラマの方で、別の見せ方だってあったのにしなかった。一切同情させなかったのはあえて、狙い。終盤での反転効果を上げるため。つまり誘導です。
物語はそういうものですね。工夫を凝らし感情に訴え、目的の方に導く。
だから見慣れると「ハイハイそっちに持ってきたいのね」とわかります。バレないようにやるのがうまさだったりしますが、それでも見直せば大抵わかる。そして普段は「やっちょるやっちょる」としか思いません。
しかし極悪非道を忘れさすような方に持っていくと、「いかがなもんか」と思う。
悪代官が恨みを買って殺されても「死んだんだからもう終わり」「死者を悪く言うのはよそう」となるのは違うでしょう。
死者は反論できないから悪く言うのは気が引ける、というのはわからなくありませんが、そんな感情に流されては退行です。
悪代官のせいで今まで苦しんだ人がいるのに(なかには命を落とした人がいるかもしれないのに)その無念は忘れ悪事を水に流すのは、心が綺麗とかじゃなくただ憎んだり怒ったりが嫌なだけだと思います。そんな過激な感情は苦手だから。
死者を鞭打つと罰が当たるんじゃ、という怖さもあるのかな? オカルト的な。だとしたらそれはそれで別の退行ですね。
怒りや憎しみや嫌悪などは負の感情のように扱われますが、それらも他の感情と同じ、いだくには理由があります。妬みでも軽蔑でも殺意でもそうで、すべては等しく一感情。自分はそれらを善悪や好悪では見ないようにしてます。
我が子を殺されたら犯人には殺意をいだいて当然。自分だってそうなる。憎しみや復讐心があるからなんとか生きていけ、簡単に忘れないこと、執念深いことはむしろ大事じゃないか。軽く変わらないこと、考え続けること。
悪事を検証せずすぐ許しては学びになりません。次の悪代官を生む土壌を維持するだけかもしれない。危ういとさえ思います。
ありがちな悪役で終わらせず存在感のある人間、そのあわれさ、人生の残酷などを描きたかったにしても、最後どう締めるかで印象が決まるなら、数々の非道を死後プレイバックする方法だってある。
なのにそれをせず「○○ロス」となる方に導いて終わるのは、作り手の本質のあらわれ。危うさより盛り上がりを取り、水を差せなかった。「あとは視聴者次第」「捉え方は好き好き」と投げた。
まぁそれはそれ、今回書きたいのは物語の危うさについてです。
物語は意図する方に導くもの、導けるもの、洗脳さえできる危険物で、楽しいだけのものじゃない。
なので心を許し身を委ねていると、いつの間にか感情をコントロールされとんでもないところに行き着く。そのおそれがある。
そうならないためには、途中で書いた「慣れ」が必要でしょう。物語にたくさん触れ、見慣れれば「あー、またこのパターンね」と気づける。簡単には乗せられない。
なので物語はたくさんあればあるほどいいんじゃ、と思ったりします。どんな駄作でも凡作でもいい、ないよりはいいんじゃ、と。少ないとそれだけで価値が上がってしまう。
そして慣れと共に、深く知っていくとさらに注意ができそうです。物語は工夫を凝らし感情に訴え、目的の方に導くもの。そうとわかってれば身構える。リアクションは違ってくるはずです。
そして心を動かされた時は、自分で自分を疑うのも有効そう。
キャラをあわれに思ったり許そうとしたら、それは憎悪からの逃避かもしれない。自分の軽さのせいかもしれない。
自己分析で安易な感情移入や感動を防ぐ。踏みとどまる。
しかしこれらはなかなか難しそうです。
まず物語は感情を動かしたくて触れるものだったりします。ハラハラドキドキや感動は普段ほぼないから。退屈をまぎらせたくて物語を欲する。自ら飛び込むのにブレーキを踏むのは難しい。
そして物語で体験する感情移入、感動などは、「いいもの」とされてます。先に書いた「負の感情」の逆ですね。推奨できる素敵な感情。そう印象づけられてる。
特に感動などは滅多にない心の動きなので大切にされがちです。最近は「エモい」と言われたり。
心に響いたもの、実感したものは間違いないと思うし、途中でも書いたようにどんな感情も理由がある。それは信頼に足る、と思える。
しかし矛盾するようですが、洗脳や軽さでも感情はいだきます。感動もします。
感情はその時々の状況、体調でも変化するし、なんとも頼りない。
それでも頼ってしまうのは、その時の自分にとって嘘偽りないから。
客観的な正確さより、自分の思いを尊重する。重視する。
自分はこの人生の主人公。世界の中心。
自分を通して世界を眺め、出会ったものは運命的で、得たものはかけがえなく、いだいた感情は意味があるし価値がある。
しかしそういった自意識のせいで、視点は歪み視界は狭まり偏りは蓄積するんだと思います。
それでも構わない、と開き直りがちなのは、やはりこの人生の主人公、世界の中心、一度きりの人生だから。望むものだけを集め幸福感や活力を得ようとする。
それはまんま物語、それを作ってるんですね人は。人生で、毎日の生活で。
自分で工夫を凝らし、自分の感情に訴え、目的の方に導いてる。
人と物語は切っても切れないんだろうと思います。一心同体と言えるかもしれません。
だからこそ物語を好むし、警戒したり抗うのは難しい。
でも逆に言うと、そこさえ押さえれば十分じゃ、とも思います。
宗教にしろ文学にしろ根っこや中心には物語がある。古今東西の人々に共通するのもそれ。物語によって人は知を深め、進化し、思いを共にしてまとまり、時に癒やされてきた。
しかし同時に、物語は人を誤らせ、狂わせ、支配し分断し、争わせてきた。
今も昔も人の世がそう変わらないのは、原点に物語があるから。それを直視してこなかったから。物語だけはずっとヒイキにして来た。
負の面をもっと知らないと、というのが今回の趣旨です。
そのために○○ロスの例を持ち出し、納得してもらうための内容と順番を考え、ここに至る…というのがまた物語。同じ手法をとってます。
至った結論が果たして危ういものかどうか。じっくりご検討いただければと思います。