会話好き | Novel & Scenario (小説と脚本)

Novel & Scenario (小説と脚本)

お越しいただきありがとうございます。
このサイトはKATARAのオリジナル小説とシナリオを掲載してます。

テレビ番組で一番好きなジャンルは何かと考えると、ニュースよりもドラマよりもスポーツ中継や音楽番組よりも、トーク番組です。しゃべりが主体のプログラム。

でもトーク番組と言ってもいろいろで、大勢の芸能人が順にエピソードを披露するようなのはあまり好みじゃありません。あれはおそらく番組スタッフが事前にアンケートを取り、ネタを厳選してるんでしょうが会話じゃない。エピソードのあとにいろいろやりとりはあっても、まずは発表の場です。1つ1つの話題は個別で細切れで、プログラムと言えばそうでしょうが自分の好きなのは自然な流れの会話、フリートークの番組です。

「ボクらの時代」などはいいですね。話したいことを話してる感じ。流れで誰かが進行役になってもカンペの指示とかじゃなさそうだし、何も決まってないような自由感がいい。

そしてその会話をただ撮ってる、それを見せるだけ、というスタンスもいい。

ここで突然小説の話ですが、自分は昔から小説を読むのが苦手で、「読みにくい」と感じたのはどこかと考えると、視点があるせいだと思います。

その視点はいろいろで、客観的な神様視点(三人称)があれば、主人公の視点(一人称)もあるし、複数の視点を行き来する場合もある。

いずれにしろ誰かから見た描写で、それは文章だと仕方ないんですが、こちらは(読者は)選べない。その視点で物語を辿るしかない。

作者のこだわりでやたら緻密な描写だったり(こっちはそんな興味ないのにね)逆に説明が足りなくて納得いかないこともある。自分とかけ離れた主人公のために「俺ならこんなリアクションしない」と思っても、「私ならもっとツッコんで聞くな」と引っかかっても、進行を受け入れるしかありません。

それがとても窮屈でした。書かれたものを「ただ受け入れる」というのができなかったんですね(我が強いネェ)

これが映画やドラマだと同様に視点はありますが(どの向きから撮るか、どの場面を切り取るかも意図的な視点)しかし映像です。文章じゃない。定点で進行されても文章ほどの縛りはなく、見せられた映像のどこを見るか、誰の身になって話を追うかは自由、こちら任せ。

その方が断然楽しめました。とにかく自分流で見たいのかな(我が強いネェ。2回目)

ただ文字で書かれたものが全部ダメかと言うとそうでもなく、インタビューや対談は好きでした。フィクションではなく記録ですしね。それだって相槌が多ければ省略したり、脱線した話題は削ったりあれこれ編集してるはずですが、小説ほどのイニシアチブはない。メインは交わされた言葉です。うまく記録されたものは会話をイメージできるし、話者の人柄も想像できる。

でもこれは決して正確じゃないでしょう。勝手気ままに膨らませてる部分は多いはず。

だけどそれがまた楽しい。頭の中で活き活きと話者たちが話す。想像しつつ話者になり切るような(演じるような)楽しさも生む。

文字ではなく声での会話(ラジオなどですね)となると当然リアルな口調や間が加わり、さらにテレビのトーク番組では表情も加わるので自由な想像は失せます。でもそれはそれで面白い。

それは生に触れる楽しさだと思います。

芸能人て普段は見るだけの対象、鑑賞物ですが、会話の中で独自の考えや体験を聞くと、身近な「人」になる、そう感じる。

なので対談番組で見た人のことは大抵好きになっちゃいます。嫌いになることは滅多ない。

まぁ結局は番組ですからいいとこ取り、まずい部分は切ってるでしょうし実物はまた違うんでしょうが、それでもなお信用できるのは、やはり会話だから。

会話は相手あってのもので誤魔化せない部分が多いと思います。たとえば話したいことがあっても、相手のリアクションによっては言い方を変えたり。時には話すのを諦めたり。

そういう瞬間瞬間のチョイスは嘘がつけない、どうしても素が出るでしょう。

さらに互いのそれが作用しつつ会話は進む。思わぬ方に行く。

それは生放送だとスリリングで、どこに向かうんだろうというワクワク感、その時間を共にしてる一体感も抱く。

そういう会話の醍醐味や魅力を感じてから、自分は小説よりシナリオを好んで読むようになりました。基本セリフだけで内面を書かないフィクションです。察するフィクション。読んでどう想像するかは自由。脳内で演じるのも自由。

自分が小説でめざすのもそれです。会話が主なのはキャラクターたちの人柄や関係性などの細かな部分はそれでしか表わせない、と思うからで、地の文(誰かの視点)で書くと微妙に違ってしまう。神様視点で書けば端的になっても偉そうになり、一人称で書けば回りくどく曖昧になったり。そしてキャラクターの気持ちや個性や関係性を察する読者の楽しみを削ぐ。

地の文は自分にとって会話場面の繋ぎや補足でしかありません。書かざるを得ないもので最小限に留めたいもの。緻密な表現や美しい文章などは興味なく、それは作者の我、視点へのこだわりでしょうし、自分が書きたいのはそれじゃない。

そんな風に文章より会話が好きで、今回「会話好き」と題したのはそういう意味です。会話を見たり読んだり聞いたり、書いたりするのはすごく好き、という意味。

でも自分自身は特におしゃべり好きじゃありません。どちらかと言うと苦手な方です。人と話すのはうまくないし疲れる。傍観してるのがいいんで混ざりたくはない。

一般的な意味の「会話好き」じゃありませんね。なのでタイトルで誤解しここまで読んじゃってたらごめんなさい(なんか政治家のお詫びみたい)

最後に1つ思い出しました。トーク番組が嫌いという知人がいました。あるアイドルグループの大ファンでメンバーが出てるドラマや映画は欠かさず見るのに、トーク番組やバラエティー番組は一切見ないと。アイドルを欲してるんで等身大の姿は見たくないと。

へぇ、と感心しました。面白いなぁ、と。そういう人もいるんですね。そういう話を聞くのは大好きです。でも「聞くのは」です。ともだちにはなれませんでした。
 

 

物語についてのエッセイ・目次

 


▼クリック感謝! 
にほんブログ村 
人気ブログランキング