感動について | Novel & Scenario (小説と脚本)

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歳を取ると涙もろくなる、とよく言われます。

実感はありますが、なぜ涙もろくなるんでしょう。理由はいくつかありそうです。

まずは歳を取るとユルくなる。

涙腺に限りませんね。オヤジギャグなんてのもそう。つまらない冗談を言って周りを凍りつかせる。

あれは思いついたことをつい言いたくなっちゃうんです。言わずにいられない。貯めとけない。ウケるかどうかはどうでもよくて、とにかく出したい。まぁまぁ迷惑です。若い頃なら白眼視を怖れてセーブしたのに気にしなくなる。

ユルいッスねぇ。

涙もろくなるのもそう。人前で涙を見せたりは普通こらえるものですが、そこらもユルくなる。すぐ泣いちゃう。

あとは人生経験もあるでしょう。いろんな経験をして、いろんな場面の気持ちが想像できるようになって。

歳を取ると想像力が増すと思います。若い頃は平気だったのに、ベランダの手すりから乗りだして下を見るとゾッとする。高所恐怖症。

あれは想像力ですね。この手すりが壊れたら? いま地震が起きたら? 手すりが壊れなくても地震に驚いて飛び上がったり、自分の変な動きで落ちるかも。そして死ぬかも。

いろんなことを想像をしちゃう。どんどん怖くなる。

もちろん逆もあります。経験を積んだせいで気持ちがわからなくなること。慣れで動じなくなる。鈍くなる。

だから一般論です。子供の頃から想像豊かでいろんな恐怖症だった人もいるでしよう。未知や先入観や経験不足が理由なら慣れでいくらかは克服できそうですが、そうじゃない場合も多そうです。

ともあれ個体差はあって、子供の頃から人はいろいろだし、それが様々な経験をしてさらに分岐していろんな大人になっていく。

でも年齢によって似通ってくる部分はあるんだろうなと。例えば草木を愛でるようになったり。

若い頃は花を見ても何も思わなかった、という話はよく聞きます。

それが老いて自分の限界、先が見えてきたりすると、あとに残すこと、種を蒔くこと、自分が消えても何かが続くことを望んだりします。自分の活力が十分だった時は微塵も思わなかったのに。

そして根を張った場所から動けないながらも伸びよう、育とうという植物に、何か応援したくなるような、あったかく見守りたいような気持ちになる。世話しないと枯れてしまう存在によろこんで手を貸したくなる。

どんな優秀な人でも若いうちは理解できないこと、凡人でも歳を取れば自然にわかってくること、というのがあるんだと思います。

だから「年寄り敬え」というのじゃなく、「涙もろくなる」なんてのもそう、決して立派なものじゃありません。共感能力が高まるとかじゃないですしね。だいたい共感なんてそうそうできるものじゃない(というのもある程度大人になるとわかってくる1つでしょう)

もっと一方的なものです。勝手に想像してウルッと来ちゃう。泣いてる人を見てジーンと来たり。

子供が泣くのは珍しくないけど大人が泣くのは珍しい。さっきも書いたけど普通は我慢するものですし。なのにその大人が涙をこらえきれずにいるのを見ると、もうそれだけで目頭が熱くなる。余程つらかったんだろう、我慢したんだろう、と勝手に想像して泣けてくる。もらい泣き。一青窈。ちょっと厄介だなこれ。

で、本題です。お題の「感動」について。やっと本題です。前置き長っ。

いろんな人がいますから感動するツボもいろいろです。ある人に響いた映画がまるでピンと来なかった、終始真顔だった、なんてことはよくありますね。

でも別に感動できなくても薄情なんじゃなく、ただバックグラウンドが違うだけ。

感動する理由はいろいろで、元々感じやすい性格だった、それまでの人生経験と重なった、年齢で急に響いた、最近失恋して気持ちが弱ってた、いろんな要素で心が動く。

ただ映画などのフィクションを作る側は、なるべく多くの人に感動してもらおう、と考えたりします。

すると個人的なツボじゃダメですね。読めないし。一般的なツボを押さえることになる。

で、それが「感動作」と呼ばれたりします。

人が感動する典型的なパターンというのはありますね。例えば「献身」「自己犠牲」

フィクションではありませんが先日こんな動画を見ました。バイカーがヘルメットに付けたカメラで撮ったものです。高速を運転している時にその道路にかかった橋から飛び降りようとする若者を見つけました。バイカーの男性はとっさにバイクを停めて引き返し、通過前の場所まで戻って説得しました。「そこを動かないでくれ」と。「少し話そう」と。「一緒にバイクに乗ろう。きっと気分が変わる」

高速道路ですから停まるのも引き返すのも違法だし危険です。実際何台もの車とすれ違い、ほかの車を巻き込む危険がありました。橋の下で説得するのもそう。バイカー自身が事故に遭うかもしれなかった。幸い後続車は気づいて停車してくれ、バイカーの説得で飛び降り自殺は食い止められました。

バイカーは自らの危険より、放っとけなかったんでしょう。赤の他人なのに。そのまま見過ごすなんてできなかった。

損得抜きで後先考えない行動は胸を打ちます。なぜそこまでする?

「秘めた思い」というのもあります。

ダスティン・ホフマンとトム・クルーズが共演した「レインマン」という映画がありました。大好きな映画です。ダスティン・ホフマンはサヴァン症候群の兄役、トム・クルーズはその存在を知らなかった弟役です。父の死をきっかけに兄の存在を知り、父の遺産のほとんどがその兄に渡されたとも知って、弟は兄を施設から無断で連れ出します。遺産目当てです。しかし他人とうまく交流できない兄は道中いくつもトラブルを起こし、弟は手を焼く。兄が施設に入っていたのはそのため。そして入所したきっかけが幼少の自分のためだったのを知る。

いろんな思いをしていたのに、耐えていたのに、それを知らなかった、誤解していた、というのは胸がつまります。知らずに見くびっていたこと、すまなかったという思い。

そして誰も悪くなかったのに、みんなが生真面目だったのに、それでもすれ違い、食い違い、悲しい結果に至るしかなかった「運命」にも涙します。

それでもなお「前に進もう」とする意志、「乗り越えよう」という心意気にも感動します。

これまで感動した映画や小説や漫画などのフィクションがあれば、どこにどう感動したかを振り返ってみると共通点が見つかるでしょう。自分だけのツボもあれば、一般的なツボの場合もあるはずです。

そんな分析はちょっと嫌ですけどね。感動するってなかなかないから。歳で涙もろくなってもしょっちゅうあるわけじゃない。滅多にない感情です。

だから大事にされる。感動体験は特別なもの。それきっかけで人生を決めたりもしますし。

なのでそれを与えてくれたもの、それが映画ならその1本は勿論のこと、感動を与えてくれる「物語」は好かれます。愛される。

その物語を紐解いたり、感動した理由を探ったりは、どちらも傷つけそうな気がしますね。あの時の感動が色褪せそうな躊躇。物語が楽しめなくなりそうな怯え。

しかし感動のパターン、感動させるテクニックというのは確かにある。

それにやすやす乗ってたまるかよ、という気持ちが自分はあります。
 

 

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