不思議、大好き! -9ページ目

不思議、大好き!

文章はすべてフィクション。ほぼ1話完結。

君とのドライブ。

夜中、暗闇の中、車を走らせた。

お互いが好きな音楽を聞きながら。

たまにコンビニで飲み物を買ったり。

それは最後のデートだった。

僕らはこの日を境に離れ離れにならなきゃいけなかった。

別れなきゃいけなかった。

いろんな都合で。

今までのこと、これからのこと、胸に、様々、思い描いていた。

僕らは、それぞれに、それぞれの想いが雑多に浮かび上がっては消えていった。

交わす言葉は、とても、とても少なかった。



明け方に海辺にたどり着いた。

そのままシートを倒して、両腕を挙げて、目を閉じたら眠ってしまうような、心地良い疲労が身体には溜まっている。

でも、まだ眠るには早い。

僕らは外に出た。

海岸を歩く。

薄暗い海岸には、黒く光る波と柔らかな潮騒が聞こえた。

僕はうつむきながら歩く。

君は海を、ときおり見ながら歩く。

波打ち際を歩く君が波にさらわれないかと少し不安になって、僕はたまに盗み見る。

でも、大丈夫。

君は波を上手にかわし、綺麗に足跡を可愛く描いてた。

ふと、明るくなった。

水平線に太陽が顔を覗かせる。

思わず君へと視線を上げる。

君の顔の輪郭が、オレンジ色に縁取られてた。

君は僕に顔を向けた。

君は微笑んでいる。

君は美しい。

僕の心に君の笑顔が焼き付いた。

そのあと、僕らは車のシートに横たわり、僕は片腕を挙げて眠った。

とてもよく眠れた。

僕のもう片方の腕は下ろされていて、君の小さな手を握った。

目を覚ましたら、今日が最後だってことがなくなればいいのにと、僕は思った。






眠った後、僕らは近くのファミリーレストランで遅い朝食を採った。

そのとき、僕は切り出した。

3年後とか、5年後とかじゃなくて、10年後に、もう一度ここで逢おう。

近い未来のことはなんとなく分かったけど、十年後なら君とやり直せるかもしれないと、僕は微かに思った。

遠すぎて、僕も彼女も力なく微笑んだ。

もう一度、逢えるといいね。










10年後、僕は独りで海を見詰めていた。

君とのデート。

朝早くから待ち合わせて。

バスに乗って。

人混みを避けようとしたら、自然と交通手段はバスになったんだ。

君の笑顔や可愛いしぐさ、僕へ心を寄せてくれている雰囲気をきちんと感じたかったから、少しでも気が散るような人混みは嫌だったんだ。

そうして、僕らはバスに乗った。特に行く当てはなかったんだけど。

バスの中では、お互い好きなことを話したりしてた。『僕は猫が好きなんだ。小さい頃猫を飼っていて、冬場はジャンパーの中に猫を入れて日向ぼっこするのが好きだったんだ』。なんてこと。

すると、君は僕のコートのポケットに手を入れてくる。僕は君の手を握った。柔らかくて温かくて。嬉しくなった。

そうこうしてるうちに、バスは人気のないバス停に止まる。僕はピンときて、『降りよう!』って君を促した。

バス停の後ろには林が見えて、古い寺院が見えたんだ。

拝観料みたいなのを払って入るようなの。

樹に囲まれた長い小径を僕らは歩いていた。僕は、ポケットの中で、この上なく可愛い子猫を抱きながら。

神聖で澄み切った空気が、僕らの想いをどんどん研ぎ澄まして、神格化すらしていく。

神格化されたお互いの想いに包まれた僕らは、嬉しくて、幸せで、言葉なんて全然要らなかった。

言わずとも、君が僕の気持ちを分かっているのを僕は感じていたし、僕も君のことが手に取るように分かった。不思議だけど、当然のことのように思えた。

そんなときは、君以外のことは何も頭に浮かばない。君の事と君への想いで溢れてる。

そんなデート。こんなデートを、君としてみたい。君となら、できるような気がする。

こんな風に思えて、実際に出来ていない今ですら、君がいてくれるから…君が僕に心を寄せてくれてるから…こんな風に思えて。本当にありがとう。

涙が溢れ出そうなくらい、僕は君には感謝してる。

僕のことを好きでいてくれて、ありがとう。







彼の遺書は誰も理解できなかった。

とても暗く、淋しい山奥の舘に僕はいた。日の光は高くそびえた樹木に遮られ、舘には窓がなかった。歩く度に、古びて軋む漆黒の床板は悲痛な音を立てた。

朝から晩まで重労働を強いられ、夜は大きな広間に何百人と雑魚寝をした。食事は僅かで、いつもお腹が空いていた。何かを思ったり考える暇などなく、ひたすら単純で重い作業を延々と続ける毎日だった。

舘の裏にある鉱山で、荷車に大きな石や濡れて重くなった土砂を運ぶ作業が続く。ものの数十分で二の腕と背中が悲鳴をあげた。限界を通り越し、もうろうとする中で繰り返される苦痛でしかない現実。

寝静まる夜には、何人かは必ず呻き声をあげた。その苦しげな声は、自分の将来を約束していた。不安は毎晩増していく。

また、脱走を防ぐため、舘には魑魅魍魎が解き放たれていた。寝るときですら、僕らを監視し、精神の動きすら封じ込めていた。

ある夜。僕は思った。ここから抜け出そう。

僕は薄い布団を音を立てずにはぎ、大広間から出た。魑魅魍魎はじっと注意深く闇に身を潜めて、僕を監視した。僕は構わず駆け出した。

この現実から抜け出せる。こんな毎日は嫌だ。死んだっていいとすら思い、目一杯駆け出した。

舘を飛び出し、道無き道の山を下りていった。真っ暗の中、息を切らして全速力で山を下りた。山を抜けた時には、遠い記憶が甦るように、お日様が僕を照らした。

僕はその足で、人里に入り、酒場で酒と食べ物を摂った。いつまでもいつまでも飲み続け、食べ続けた。誰とも話さなかったし、飲み食べることしかしかなかった。

気が付くと、夜だった。

僕は酩酊した意識の中で想った辛い日々のことを。

次の瞬間。

僕はまた、あの山の入り口に立っていた。そして、舘を目指して山に入っていた。鬱蒼とした館での苦しみを描きながら。

子どもの頃、今とは世界が全然違った。見える景色も、感じることも違う。時間の進み方さえも違った。

でも、今は子どもとは違う。記憶にすらあまり残っていない。ときおり眠たそうに、音や感触で、ふと甦るだけ。

誰かに肩を抱かれる。どこにも戻らないはずなのに、ふとあの頃に戻る。そんなとき、今が嘘半分だと思う。

僕の居るところにいなくて、僕の居ないところに君がいるだけ。

夜空に星と月。あるはずのところになくて、ないはずのところにある。雲の上にはきっとある。

でも僕には見えないや。なくてもあって、あってもない。僕はそうした世界にぶら下がってるだけ。

自分探しなんていうと二十代初期の青年がピースボートに乗って世界中を駆け巡るみたいなニュアンスがある。でも、僕の場合はそうじゃない。

最も広いものは言葉。空海も言ってた。それは宇宙よりも広い。

僕らは宇宙を宇宙と命名することで、宇宙とそれ以外を区切ることができる。ほら、もう無限ですらある宇宙は限定的なものになった。言葉にはそういう限りない拡大包含的な広さがある。

ピースボートで出かけるよりも、自分や自分を取り巻く世界に目を向けた方が、そこに言葉を遣って見いだす方が、遥かに広い世界が存在すると思ってるんだ。


最近考えてることは、過去現在未来のこと。これはデカルト座標のように俯瞰した時に見える一直線上に並ぶものじゃないような気がしてる。

僕らは過去に縛られ、未来に縛られすぎてるような気がしてるんだ。たとえば、過去という通過点があって、未来という到達すべき時点があると考えてる、一般的に、普段。でも、ほんとにそうかな。最近僕が徐々に考え進めてるのは、そうじゃないってことなんだ。

絵で描くと分かりやすいんだけど、ここでは描けないから、言葉で説明するよ。

僕という現在の存在がある。それを球体で考えて欲しい。その球体は海に浮かんでる。膨大な過去という海に半分浮かび、また同時に未来という海上の空間に半分顔を出している。そして、そうした過去や未来は、現在の僕に押し寄せる影響(記憶だったり可能性だったりする)を絶えず与えてる。この影響を喩えると、海の感覚(冷たさや浮力など)や空間(風や空の景色など)だったり。

つまり、何が言いたいかというと、過去や未来は通過点ではなく、テストの平均点(実際に平均点を取ってる人はいないかとても少ない)のようなもので、幻のようなものに近い。ちょうど、平均的な人間が実はいないように。

ここで、いやいや過去は確かに起きた事実で、幻なんかじゃないと君は言うかもしれない。でも、そうじゃない。僕ら人間にとって、事実とは物事のほんの一側面でしかないんだ。大事なことは、その過去に対する印象であり、解釈であり、意味付けなんだ。だから、そんなものは過ぎ去ってしまえば、幻だ。捉え方は無数にある。

大事なのは今現在。それを感じることなんだ。上に描いた図絵のように、過去や未来に縛られない、過去や未来は通過点や到達点ではなく、今現在の僕に影響を与えるものとしてしか意味を為さないということなんだ。このニュートラルな今現在を感じることが大事なんじゃないかと思ってる。重要なのは、押し寄せる過去や未来から、何を今現在の僕に引き寄せるかだと思うんだ。

これが自分探しなのかどうかは分からないけれど、少なくとも今の自分を僕はそう捉えたいと思ってる。

それは、本当にささやかな物だった。近くのコンビニで買ったクイニアマン。甘い蜜を衣にしてみればカリッと揚げた菓子パン。

一口食べると幸せだった。仕事帰りに一つ買って帰る。その習慣が彼女の日常を支えていた。

何度か、特に仕事でコテンパンに疲れた時には、大人買いしたくなる衝動にも駆られた。でも、それはしない。一つだけ買って帰ることが、幸せには必要な気がしてた。

小学五年生の時に読んだ漢文の影響かもしれない。過ぎたるは及ばざるがごとし。ささやかさを彼女は大事にした。


でも、そんな習慣も止めなくてはならない日がやってきた。病が彼女を蝕んでいたからだ。胃潰瘍。

胃に負担の掛かる食べ物は控えるように。そう医師から言われた時、最初に頭に浮かんだ物はクイニアマン。彼女は肩を落とした。

すぐに治ると思っていた。すぐに、また食べられるようになると思っていた。ちょっとだけ我慢すれば良いんだ、そう簡単に考えていた。

でも、思った以上に病は快方に向かわなかった。

胃潰瘍はすぐに癌へと変わった。それは仕方のないことなんだと医師は彼女に告げた。事実は事実として彼女の前に差し出された。

外科手術の決まり、入院する前夜。彼女は内緒でクイニアマンを食べた。ゆっくりゆっくり味わいながら食べた。

一口食べては、走馬燈のように、今までのことが想い出された。嫌なこともあれば、嬉しいこともあった。でもどれも遠い過去の事。

学校の帰り道、男の子にランドセルを奪われ、中身を放り出されて踏みつけられた事。突発的なそれは、なんでそんなことをするのか全く見当が着かなかった。ただただ、悲しかった、お祝いに祖父母から貰い、大事に使っていた教科書やノートをそんなことをされたのが、とても悲しかった。

部活の帰りに、好きな男の子から、名前で呼んで良いかと尋ねられた事。ドキドキしてうなずくことしかできなかった彼女の胸の内は嬉しさで満たされていた。その夜中、彼のことを考え、身体が熱くなって、とても嬉しかった。

就職祝いに両親が上京してきて、少し高級なレストランで食事した事。父親は黙って目を細めて、彼女の独り立ちを喜び、母親は幼い頃からの彼女の様子を語り、感心したように、目尻に皺を寄せていた。自分のことより、両親が喜んでくれたこと、こんな両親の元に生まれたことを彼女は誇りに思い、感謝した。

月明かりが、部屋を照らしていた。青白い光に包まれ、彼女はクイニアマンを大事に頬張った。今この瞬間を迎えた事を、この瞬間まで体験してきた事とともに、彼女は全身で感じ取っていた。

脈絡のない走馬灯は続いていた。でもどの思い出も、今の彼女を肯定して慰めるように、なんだか優しかった。思わず涙がこぼれた。

恨むようなことはなかった。悲しい事も、嬉しい事も、感謝した事も、どれも有り難い事のように思えた。今、まだ生きていること自体が奇跡のように感じた。


その夜、まとめた荷物の傍ら、彼女は眠った。


それから何週間が過ぎた。彼女が使っていたベッドは新たにメイキングされた。でも、どこにも彼女の姿はなかった。

彼女が一人暮らししていた部屋の電話が鳴った。誰も出る者がいないと、留守番電話に切り替わった。メッセージが静かに流れた。

「今度はいつ帰ってくるの? 分かったらお母さんに連絡ちょうだいね。みんな逢いたがってるよ」

もう少し。

もう少しでアイツは来る。もう改札を抜けて向かっているはずだ。もうアイツの気配を感じる。

俺の方が強い。そういう気が漂ってきてる。もちろんその気は僕のにおいを嗅ぎ分けて向かってくる。

ダークサイドだ。周りの空気が冷たくなってきた。緊張で、空気が張り詰めてやがる。

果たして俺の攻撃が通用するのか。アイツの練り上げられたら筋肉に。とてつもないヤツと対決することを改めて思った。

でも。通用しないからこそ、120パーセントをぶつけられるとも思う。実力が拮抗してたり、相手の痛みを感じては得られない興奮が湧き上がった。

俺のすべてをぶつけられる。

そう思うとビリビリと肌が震えた。アイツの気配と興奮が刺してくる。決戦はもう目の前だ。

すると、アイツが現れた。

ほら、やっぱり来た。

黒のタンクトップからのぞく盛り上がった肩の筋肉、太い首、分厚い胸筋、よく手入れた鍛え抜いた腕。

そして見ただけで噛みつかれそうな鋭い目つき。俺の方が強い。すぐそこまで来たコイツの気が、俺を包囲し始めた。

全く惚れ惚れする。よくぞ、そこまでビルドアップしたもんだ。よくぞ、そこまで天稟に恵まれたものだ。

アイツが一歩一歩近づいてくる。ダークサイドが色濃くなる。悪い知らせを聞くのように重くのしかかった。

対峙する。

神々しさすらする見事な肉体と意志。ビリビリとした戦慄に震え上がった。もう、後悔など遅いのだ。

突然、火蓋は落とされた。

じゃあ始めるか。

コイツの一言で始まった。

砲丸玉のような重く詰まった拳が伸びた。まともに顔面にヒット。避けようと思う暇すらなかった。

その一発で鼻の軟骨が折れた。急いで構えるが、遅すぎた。逆の拳が、わき腹に命中。

この一瞬で息が出来なくなった。鼻血が流れ出し、呼吸を邪魔した。圧倒を超えた驚きが頭の中でスパークした。

思わず何歩か後退した。たまらい。でも、これでやっぱり規格外にコイツが強いことを思い知った。

もちろん、コイツは迫ってきた。グングンというより、ひと跳びで。ダメだ。

腕を交差し、重心を後ろに置き、防御を固める。

ふんっ、と鼻で嗤うと構わず十字に固めた腕に殴りかかった。完璧な打撃だった。打撃のインパクトが完璧だ。

俺の腕が早くも悲鳴をあげた。このままじゃ折れる。皮膚は感覚を失い、冷たさすら感じた。

でも、俺には分かった。渾身じゃない。せいぜい背筋で撃つ打撃だ。試してやがる。

それでも十字を解くわけにはいかない。反撃しなきゃ…。この状況を抜けださねば。

左右の打撃の隙を図る。リズムがある。そのリズムの隙間を狙うんだ。

右、左、右、左…。

よし、今だ!

軸足を左に置き、半円を描いた、俺の渾身の膝蹴り。

相手の脾臓を正確に狙った。

でも…当たったのはコイツの右の掌だった。

ニヤリと笑った。

俺はまさかと思った。タイミングはちゃんと計った。反撃も正確だ。

でも、コイツ。…笑ってやがる。読まれてた。

次の瞬間。ふぅぅと深く息をすると、コイツは言った。悪魔のように微笑みながら。

…これで、終わりだ

ズドン!!

コイツの左足が地を蹴った。

ぶわっと砂埃が舞う。

すると、精巧な機械のスイッチが入ったみたいに、高速で足首、膝、腰、背中、肩、肘が順に動いた。

もちろん、伸びてきたのは左の拳。

ズゴン!

俺は片足を上げたまま、思い切りぶっ飛んだ。

自分の身体がこれほど軽いものだとは今までついぞ知らなかった。俺だって70キロある。でも、コイツの手に掛かると驚きの軽さ。

重いというより、腕の前で爆発が起こったみたいだった。もちろん、十字は解かれて、顔面を撃ち抜いた。何メートル飛んだか分からなかった。

地面への作用反作用と関節の加速度で打撃はどこまでも威力を増すことができるとは、聞いた事があった。

でも、まさか自分がそれを体験するとは夢にも思わなかった…。

半端ねぇ…

大の字で倒れながら、俺は思い続けた。

手も脚も出なかった。

完敗だ。

あの子がここにいなくて良かった。

そう思いながら僕は麻痺した全身が再起動するのを待ち続けた。

そして、とめどなく流れる涙の意味を考えた。

来るんじゃなかった。

もうすでに後悔していた。ぢりぢり照らす太陽は容赦なく気をそいでいた。天を見上げると、太陽はなんと勇ましく自分を見下ろしていることか。

そもそもなんで俺があいつと闘わなきゃいけないんだっけ。あぁ、そうだ。女の子の穫り合いだ。

あぁ、やめときゃ良かった。最初から勝ち目はないんだ。勝てっこない。

でも。とも思う。俺だって今まで強くなるために練習してきた。

強い人間などいない。いるのは強くなろうとする人だけだ。おまえはどうやって強くなるんだ。

先生の言葉。怠け心との戦い。機会や試練から逃げないことが大事だと教えてくれた。

いや違うんだよ、先生。こんなカッコイイ理由じゃないんだよ。先生の言葉を思い出しながら、すぐさま俺は否定しなきゃいけなかった。

俺とアイツが賭けた女の子。その子が原因だ。長い髪をなびかせて、こう言った。

じゃあ私のためにたたかって。私、強い人が好きなの。勝ったらデートしてあげる。

彼女は学校で一番人気。学校中の男を虜にしてる。教師にだって人気がある。

美しく伸びる長い黒髪は彼女の清潔さを表し、下からのぞきこむ大きな瞳と長いまつげは、明確な愛らしさを湛えていた。ほっそりとした身体を走る大きな胸とお尻はツンとしてて、妖艶と健康さを兼ね備えた曲線美に男子はみんな目眩を覚えずには見られなかった。そして、口角をキュッとあげて話すその言葉は機知に富んでいて、どんな相手の話を聞くこともできたし、絶妙な相づちは多くの男子を救った。

そんな彼女。俺が虜にならないワケがない。同じ教室にいると、自分のすべての努力や頑張りは彼女のためにしているという甘美な錯覚さえ許した。夜も顔を浮かべるとなかなか眠れなかった。

その彼女とデート出来ると思うと、思わずニヤける。あらぬ妄想は留まることを知らなかった。妄想が暴走。

でも、闘うアイツは強敵。とてつもなく強い。三国志でいう万夫不当。ケンカの時の気迫は鬼気迫るものがあって、学校のすべての男子が束になっても勝てないだろう。

身長190、体重90。スポーツテストでの握力90、百メートル11秒7、走り幅跳び9メートル80。片手で楽に林檎をつぶし、蝶のように舞い蜂のように刺す、怪物だ。

だけど、彼が最強の名を欲しいままにしているのはそれだけではなかった。攻撃の当て感に才能がある。空間認知能力がスバ抜けてる。

彼は数学の図形問題がよくできた。ここが3センチならここは何センチ?って問題。彼は目で測って瞬時に正答できた。

ケンカになるとたまったもんじゃない。パンチの威力は握力に比例する。そして抜群の当て感。

ボコボコなんてもんじゃない。もう一発目から、エッって感じて、見ている者の度肝を抜く。戦闘力53万対1って感じ。

俺だってとも思う。道場では先生から一目置かれてる。基本を徹底的に練習できるからだ。

誰もが組み手ばかりやりたがる中、俺は拳の握り方、立ち方、打ち方を何時間もやり続けることができた。他に才能は全くなかったが、つまらないことをやり続ける才能は残されていた。

おかけで、箸で米粒を掴むように正確なパンチが打てたし、手を振るようにハイキックができた。気がつくと、これほど簡単に出来るのは俺だけだった。これができると、思うよりも速く身体が勝手に反応した。

いくつかのささやかな大会で優勝もした。でもアイツはもっと強いように思えた。僕は林檎をつぶせないし、ケンカもしたことない。

やめときゃよかった。

でも、そう思いながらも、拳を握ったり離したりしながら、暑さで歪む彼女の陽炎を見ていた。

あぁ、もうすぐアイツが来る。

「それでもいんじゃないかな」

それは彼の口癖だった。空を眺めながらよくそんなことを言った。なんでもない風に。

彼は半年ごとに彼女を変えた。どうしてそんなことをするのか僕には分からなかった。だってどの彼女も同じ顔をしていたから。

彼はとても上手く生きていた。証券会社に勤めて、ボーナスは僕の倍も貰っていた。そして定時きっかりに仕事を終えてデートをする。

たまに僕に付き合ってくれる時もあった。

「最近、とても息苦しいんだ」
「わかった。じゃあ、今夜7時にコンチネンタルホテルのバーで」

ひとつ返事で僕の誘いを受け入れてくれる。彼は決して遅刻しない。そしてパリッとしたスーツを着込んでやってくる、まるで来日したハリウッドスターのように。

「空気が薄いんだ」
「そうだね。でも大丈夫。残りわずかだけど、息を潜めればまだなんとかなる」
「でも残りの空気が少ないんだ」
「平気さ。まだ無いわけじゃない。うまくやっていこう」

そうして僕らは乾杯をする。僕はビールを、彼はウィスキーを。彼の笑顔を見るとなんとなくホッとする。

バーの時もあれば、彼の家の時もあった。どちらかというと、彼は家の方が饒舌だった。僕は聞き役にまわる。

「君は夜中の3時に公園に行ったことがあるかい」
「ないな」僕はゆっくり首を振った。
「夜中の3時というのは魔物が跋扈してるんだ。木の上や土の下に身を潜めてて、見えないところで行き交ってる。そしてたまに僕の頭にも入ってくる」
「知らなかったな」

僕はその光景を想像してみた。彼らはどんな姿をしているんだろう。きっと毛むくじゃらで、おそろしく大きいに違いない。

「姿は見たことあるの?」
「残念ながらないんだ。気配は感じるんだけど、彼らは僕らに決して姿を見せない。でも感じるんだ」
「どんな感じ?」
「彼らはとてつもなく大きくて逞しい。毛むくじゃらで、その体毛の下には樹の幹のような分厚い筋肉がある。きっと僕の首なんかひとひねりだね」

彼はそう言うと笑った。それがどんな種類の笑いか分からなかった。でもまだ話の途中な気がして僕は黙っていた。

「僕が背を向けて油断してると、彼らは僕の頭に入ってくる」
「頭に入ると、どうなるの?」
「僕の頭の中は僕の領域さ。だから…」

缶ビールが空だった。彼のグラスも。彼はそこまで言うとキッチンに酒を取りに行った。

僕にビールを投げて、彼は新しいワインのボトルを開けた。戻ってくると彼は続けた。微笑みを浮かべて。

「捕まえてやろうと思ってる。頭の中で。僕の領域では彼らの力強さもたいして役に立たない」
「成功したの?」
「まだなんだ。彼らは巨体の割にとてもすばしっこい。でもいつかね」

そこで電話がなった。彼女からで、彼は長電話した。僕はその間テレビをつけて、WOWOWを観ることにした。

WOWOWでは戦争ドラマをやっていた。WWⅡ。ガダルカナル島で米兵と日本兵が死闘を繰り広げていた。

闇の中を閃光が走り、米兵の何人かに当たり、死んでいった。米兵は機関銃を使って弾幕を敷いた。おびただしい数の日本兵がその弾幕に倒れていった。

死闘が終わり、明け方に一人の米兵が日本兵の荷物を拾った。その小さなバックからはまだ若い奥さんの写真と御守りの人形が出てきた。それを米兵が眺めていると、突然「天皇陛下ばんざい!!」と言って、生き残っていた日本兵が米兵を何人か巻き込んで自爆した。

僕は試しに番組案内を見てみた。そこには、凄惨な戦争体験を経た彼らがどう社会復帰したのかを描く戦争ドラマ、と書かれていた。僕がそれを読み終えると、彼は長電話を終えて戻ってきたから、僕はテレビを消した。

「何を観てたの?」
「WOWOW。戦争ドラマ。暗闇の中でとてもたくさんの人が死んでた」
「その場にいたら、きっととても怖い思いをするんだろうね」
僕は上手く想像できなかった。「分からない。暗闇だから?死んでしまうから?」僕は聞いてみた。
「どっちも。でも、どちらにしても恐怖とは外にあるんじゃない。つまり、ここに在るんだ」

そう言って彼は自分の頭を指差した。

「そして君は頭に魔物を飼おうとしてる」

「その通り」

そう言って彼は笑った。

その後、彼は海外に赴任することになった。中東の方に行ってしまった。でもきっと上手くやっているだろう。

ふと、僕は、彼は魔物を捕まえたんだろうかと思うことがある。それは僕に恐怖や死を連想させた。でもきっと彼はそれでもいいじゃないかと言うのだろう。