皆さんこんにちは。ノートル パリです。 ご訪問頂きありがとうございます。
昨日のマリーアントワネットに引き続き、今日は、可愛そうな息子ルイ17世のお話。
マリーアントワネットには、女の子2人と男の子2人がいたのですが、その内の2人が小さい時に死んでしまったので、長女のマリー テレーズ14歳と息子ルイ シャルル7歳と夫ルイ16世と家族で、タンプル塔の牢獄に入ります。
ルイ16世ギロチン処刑が最初に行われ、その日、マリーアントワネットは、息子ルイ シャルルの足元に膝まづいて、ルイ17世と敬うのです。
が、マリーアントワネットは、昨日のブログに記載したコンセルジュリー牢獄に連れていかれ、1793年10月16日にギロチン処刑されます。
最後まで、タンプル塔牢獄に残されたのが、ルイ17世なんですが、ひ弱で専属医者が必要だったんですが、担当医も医者も次々に殺害されてしまいます。
太陽も当たらない牢獄で、爪も伸び放題で、不清潔な状態で、満足な食糧も与えられず、誰とも話さず、忘れらえて、放置されてしまったのです。
靴屋のシモン夫婦が世話するはずが、満足なお世話もしなかったのでしょう。
結局、1795年6月8日、牢獄の中で10歳で死んでしまいます。
母親のマリーアントワネットと離れて、2年近くが過ぎています。
結核だったようですが、解剖した医者によると、腫瘍があちらこちらに出来ていて、胃袋も胃液で膨れ上がっていたとか。。。
ママ、僕、、、、
と言葉もしゃべれず、母親が死んだことも知らず、きっと、太陽に当たっていなかったので、まともに歩けず、傷みもあり、お腹もすいていたでしょう。
このルイ17世の事を思うと、いつも泣けてきます。(´;ω;`)
しかも、遺体は、共同墓地にほかりこまれていたのです。。。
それが、下記です。
プレートには、『サン マルゲリート墓地の跡地。 非道徳的だったであろう1794年のバスチーユ広場でギロチン処刑された73人と1795年6月10日にタンプル塔牢獄で死亡した子供』
と、名前は記載されていません。
パリ市内のバスチーユ広場に近いサント マルゲリート教会は現在もあります。
しかし、隣の墓地はもうありません。
しかし、ルイ17世のお墓の跡として十字架が添えられています。
随分後になって、やっと、ルイ17世も両親達と一緒の王家の墓に入れました。
やっと両親に会えて良かったね。
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