ココハドコ? アタシハダレ? -14ページ目

ココハドコ? アタシハダレ?

自分が誰なのか、忘れないための備忘録または日記、のようなもの。

 カメラを持って散歩に出るのは特にこれが「趣味」と言えるほどのものではないのだけれど、それでも、一応撮った写真の「出来」は気になる。気にはなるけれど、よくよく見ると、いつも同じ写真を撮ってるような、いやな気分になる。ファインダーをのぞきながら、自分なりに気に入る構図でシャッターを押すのだけれど、その構図がマンネリ化している。他人の撮った写真を見ていいなと思うことはしばしばあるのだが、なぜ、それを自分で撮れないか、カメラやレンズの特性を熟知していたとしても多分同じものは撮れない。所詮感性が違うのだ。感性を鍛えないことにはいかんともしがたい。

と、そんなことを思いつつ、出来の良し悪しを気にせず、いつもと違う感じで撮ってみたのが今日の写真。

 

 

 

 近所を散歩しながらファインダーを覗いていると、被写体というのはどこにでもあるんだという思いを強くする。しかし、私の場合そう思えるのはモノクロで撮っている限りである。撮ったものをカラーで見るて良いなと思う経験はあまりない。なんでモノクロなんだと時々思うのだが、その答えをある映画の中にみつけた。

 

 

 映画のタイトルは「都市とモードのビデオノート」。ドイツの映画監督ヴィム・ヴェンダースが日本のファッション・デザイナー山本耀司氏を取材したドキュメンタリーである。制作されたのは1989年、パリ・コレ準備中のアトリエでのインタビューが中心になっているが、知られている通り山本耀司氏のデザインはほとんど黒い生地で統一されている。なぜ、黒かという質問に氏は次のように答えている。

 

 「私にとって黒は単純なのです。私が作りたいのはシルエットやフォルムなので色は必要ないのです。黒の生地は生地でしかない。何らかの色がついていると、そうした色によってさまざまな感覚や感情がついてきてしまう。それがうるさいのです。新しい風合いを作り出したい時、私はいつも黒の生地で作り始めます。白地や染めてない生地、自然色の生地、灰色の生地も何かの意味を持ってしまうので嫌なのです。意味が嫌なのです。」

 

 

 作りたいのはフォルム、色についてくる感覚や感情が「うるさい」という。そうか、そうだったのか、色はうるさいと言われれば全くその通り。もちろんカラー写真にも素晴らしいものはたくさんあるが、私が撮ったものに関する限り、ロクなもんじゃない、ただひたすらうるさい。その言葉がドンピシャで思わず笑ってしまった。

 

 

*****

 

 ヴィム・ヴェンダース監督の作品にはモノローグ・シーンが多い。監督自身が映画とは何か、人生とは何かと自問自答しながら制作しているようである。「都市とモードのビデオノート」も冒頭からいきなり監督自身のモノローグで始まる。

 

 「君はどこに住もうと、どんな仕事をし何を話そうと、何を食べ何を着ようとどんなイメージを見ようと、どう生きようと、どんな君も君だ。独自性ー人間の、物の、場所のー独自性。身ぶるいするいやな言葉だ。安らぎや満足の響きが隠れている”独自性”。自分の場、自分の価値を問い、自分が誰か”独自性”を問う。自分たちのイメージを作り、それに自分たちを似せる、それが”独自性”か?作ったイメージと自分たちとの一致が?」

 

 「独自性」とか「個性」という言葉は今でも生きているのだろうか?

 私の場合、学生時代に先輩から「個性なんてものはないんだよ、そんなものを信用するな」と教えられて以来死語になっているのだが、今の若い人たちはやはり「独自性」とかいう幻影を追いかけているのだろうか?

 この監督にとって「独自性」とは山本耀司氏の「色」と同じく「うるさい」のだろう。自分が誰かって?誰でもないのが我々なのだ。名づけることのできる自分なんてどこにもいない。私はそう信じる。私は誰よりも無名でありたいと、そう願っている。

 

 

 

 

 

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東京都美術館でアンリ・マティス展をやっている。20年ぶりの大回顧展というので行ってきた。

 

 

 マティスは1869年の生まれで、ピカソより12歳年上になる。それだけパリの美術界の注目を浴びたのも早い。4年ほど前にナショナルジオグラフィックでピカソの伝記ドラマをやっていて、その中で、マティスの絵を見て若きピカソが激しく動揺するシーンがあった。

 

 「デッサンは稚拙だし遠近感がなく平坦だ、全てがでたらめだ。なのに息をのむ。理解不能だが躍動感がある。(…中略…)マティスは全てのルールを曲げたんだ。僕は壊したい。」

 

 実際にピカソがそんなことを言ったかどうか、あくまでドラマ上の話だが、マティスに対して激しい対抗心を抱いたということはあったのだろう。ドラマでは、この時ピカソが目の前に見ていたのが、今回の展覧会にも出品されている「豪奢、静寂、逸楽」と題された作品で、新印象派のポール・シニャックの技法を実験的に使ったものと言われている。残念ながら撮影禁止で、ここで紹介はできないが上にリンクを張った特設サイトのトップに出てくる作品がそれである。

 マティスはいわゆる「野獣派」代表のように言われている。「野獣派」という名前は1905年のサロン・ドートンヌに出品された一群の作品が、原色を多用した強烈な色彩と激しいタッチに彩られているのを批評家が「あたかも野獣(フォーヴ、fauves)の檻の中にいるようだ」と評したことに始まるとされている。が、マティスが「野獣派」と呼ばれた時代は案外短かったらしく、今回の展示でも「原色を多用した強烈な色彩と激しいタッチ」を感じさせる作品はそう多くはなかった。

 

    

     ニースの室内、シエスタ(1922)        夢(1936)

 

 マティスが絵を描き始めた19世紀後半は「写真機」なるものが発明され普及し始めた時代でもあった。多くの画家は、目の前のものをそのまま絵にする「写実」では「写真機」には勝てない、そんな限界を感じただろうと想像することは意味のないことだろうか。印象派以降の絵画の抽象化の流れにはそんな背景があったと思えてならない。画家にあってカメラにはないもの、それが何であったかというと「造形力」ではなかったか。印象派以降の画家たちの苦しみは常に「造形」する苦しみではなかったかと想像する。そんな苦しみの中で、マティスは色彩を革新し、更にはアフリカの芸術に魅せられ、その足跡を彫刻作品に残している。ピカソは故郷イベリア半島の古代美術にインスピレーションを得て「アヴィニョンの娘」を制作している。遠近法を破壊した「キュビズム」の嚆矢となった作品である。

 

                  眠る女性(1942)

 

パイプをくわえた自画像(1919)

 

 芸術家に限ったことではないが、人は人生の中で大きく変化してゆく。中には変化を嫌う者もいるけれど、芸術家というのはなかなか自己満足できない人種なのだろう。マティスもピカソも大きな変化を何度か見せている。マティスの晩年は切り絵に代表されるが、切り絵を見ても絵を見ても、あるいは彫刻を見ても、「あ、マティスだ」と、何度変化しても分かってしまうマティスらしさのようなものがある。それは素描などに端的に表れるマティスの「線」が醸すものだろうと思う。実にやさしい柔らかな線で、上の「眠る女性」に端的に表れている。こんなに柔らかな線を引ける人を私は見たことがない。マティスは線と色彩の相克に苦しんだと言われているが、この素描を見ているとわかるような気がする。この上、どんな色彩が必要なのかと。

 

 さてさて、「野獣派」とはいったい誰が見た夢だったのか、そう思わざるを得ないのである。

 

 

 

 

 

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AIで「ビートルズ最後のレコード」制作、新曲もリリースへ ポールが発表(CNN.CO.jp)

死んだジョン・レノンやジョージ・ハリソンの声を昔のデモテープからAIを使ってきれいにして、新たにミキシングして発表ということらしい。私はビートルズのファンでもなかったし、「まあ、すごい連中だな」と思ってはいたが、追いかけてあれもこれも聴こうとは思わなかった。なので、今更なんだという感想しか湧いてこないのだけれども、ファンを自称するような人たちは喜ぶのだろうか?

 

記事の最後に、

『AIには「良い面と怖い面がある」とマッカートニーは言い、「それがどこへつながるのかを見極めなければならない」と話している。』というコメントがあり、実は私は、このコメントの方が気になったのだ。

 

トランプ氏、「極秘情報」の機密解除しなかったと認める 過去の音声記録で(CNN.CO.jp)

トランプ前大統領が37の罪状で起訴されて、罪状認否ではその37件のすべてについて無罪を主張したと報道されている。特別検察官ジャック・スミス氏が公開した起訴状はかなり精緻なもので、トランプ氏はほぼほぼクロだろうと言われている。トランプ政権で司法長官を務めたビル・バー氏は、起訴状の内容が正確なら、「前大統領はおしまいだ」と話したとも伝わっている。

 

で、私が気になったのはリンクを張ったCNNの記事。これは通話記録ではなく、会話の音声記録。これは、証拠になるだろうか?「AIが作ったフェイク」と主張したら覆せるのだろうか。音声認識の技術は相当進んでいるらしい。そう思わせてくれたのが上のビートルズの記事。

今時、ちょっとネットの中をのぞくとフェイクと思しき映像が氾濫している。犯罪における証拠の評価が異様なくらい難しい時代になっているんじゃなかろうか?機密文書山積みの写真なんて証拠として評価されるのだろうか。

 

トランプ氏は馬鹿のひとつ覚えのようにバイデン大統領による「魔女狩りだ」と叫んでいるが、バイデン氏は共和党の候補がトランプ氏になれば自分は勝てる、怖いのはむしろフロリダ州知事の若いデサンティス氏だと思ってるらしい。つまり、陰謀論にはあまり説得力がないのだが、あくまで戦い続けるトランプ氏の事だから、有罪になってもなんでも最後は最高裁まで行くだろう。最高裁より先に大統領選になる可能性は高いと言われている。そこで、トランプ氏が当選したら裁判の行方はどうなるのだろう。興味尽きないトランプ劇場と、果たして笑っていいものかどうか。

 

 

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米小説家C・マッカーシー氏死去 「ザ・ロード」「血と暴力の国」(jiji.com)

コ―マック・マッカーシー氏が死去した。なんだか不意を突かれた。この人の作品が日本でどのくらい読まれているのか知らない。私はこの作家が好きなわけではないのだけれども、なんだかんだと6冊くらい読んでる。以前買ったハードカバーの腰巻に「村上春樹と並ぶノーベル文学賞最有力候補」とか書いてあって、アメリカでは非常に高く評価されている作家であることを知ったのだが、非常に読みずらい文体で、日本ではおよそベストセラーにはほど遠い。読み始めたきっかけは映画「すべての美しい馬」を見たことがきっかけだったと思うが、記憶は定かではない。どの作品も理解するにはある程度高い知性が求められている、そんな難解さがあって、わからないままに、わかりたくてついつい6冊も読んでしまった、そんな感じである。

 

 この作家には映画化された作品が多く、「すべての美しい馬」「ザ・ロード」「ノーカントリー」などが映画化されている。加えてリドリー・スコットの「悪の法則」もこの人が脚本を書いている。これらの作品に共通しているのは、我々が日常ほどんど意識することなく身にまとってしまっている「社会規範」を剝ぎ取ってしまった世界、そこで露になる人間が本来持っているものとしての「暴力」の世界である。

 小説「血と暴力の国」の原題は「No Country for Old Men」と言い、映画「ノーカントリー」の原作なのだが、冒頭で引退間近の保安官が「最近はわけのわからない事件が増えた、もう自分たちが生きてきた時代とは違う世界にいるようだ」という独白から始まる。そして何の感情もなく家畜屠殺用の銃で人を殺すアントン・シガーが現れる。映画ではハビエル・バルデムが演じアカデミー賞をとった。そして殺人のありようは「悪の法則」ではさらに過激になっているように感じる。

 

 作家は暴力を肯定している。「流血のない世界などない。”人類は進歩しうる、みんな仲良く暮らすことは可能だ”というのは本当に危険な考え方だと思う。こういう考え方に毒されている人たちは自分の魂と自由を簡単に捨ててしまう人たちだ。そういう願望は人を奴隷にし、空虚な存在にしてしまうだろう」。

 これは比較的初期の作品で、19世紀半ばに実在した「インディアン討伐隊」をモデルにした小説「ブラッド・メリディアン」についてのインタビューの抜粋である。小説の中には更に過激なセリフも出てくる。「倫理とは強者を犠牲にした弱者の保護に過ぎない」とか「人間は戦争をこよなく愛しているから戦争はなくならない。人間は戦争によって文明や科学を発展させてきただけでなく戦争をするからこそ高貴なのだ」と。解説によるとニーチェの思想に近似しているらしいがニーチェは読んだことないので私にはわからない。ああ、そうなんだと思うだけである。

 

 この小説のモデルとなったのは「グラントン団」という一味らしいが、日本語で読めるネット上の資料ではほとんど見つけることができない。どうも、米墨戦争のころに現在のニューメキシコ州あたりで暴れていたらしいが、先住民に限らず、メキシコ人であろうが白人であろうが殺しまくった強盗団というのが実態だったらしい。「法」が全く機能しない辺境のフロンティアでは「暴力」こそが「法」であったかもしれない。

 小説とは異なるが、同じ時代に先住民虐殺事件として知られるサンドクリーク事件が起きている。この先住民500名余を無差別に虐殺した事件を主導したジョン・チヴィントン大佐は、もともとはキリスト教メソジスト派の牧師だったが、「インディアンに同情する奴は糞だ!... 私はインディアンを殺さなければならない。そして神の天国のもとではどのような方法であってもインディアンを殺すことは正しく名誉あることであると信じる。」という言葉を残している。

 

「法」も「倫理」も顧みられることのない世界。それは戦争の世界でもある。ロシアとウクライナの戦争を見ても分かる。戦争も「何でもあり」の世界で、行くところまで行けばロシアが核を使うこともあるだろう。アメリカの保守派は左派との対立を「戦争だ」という。21世紀になっても南北戦争の遺恨を引きずっているようにも見えるし、そうでなくてもトランプ氏は何でもありの世界に生きているように見える。

 

 太平洋に浮かぶ島国ニッポンから見ると遠い世界の出来事のようにも見えるが果たしてそうか?我々は何でもありの「暴力」にどこまで対峙できるのだろう。自衛隊がNATO軍と共同で演習する時代である、われわれは奴隷状態の空虚な人間になっていないか、そろそろ再考してみてもよいのではなかろうか。

 

 

 

 

 

 

 

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