カメラを持って散歩に出るのは特にこれが「趣味」と言えるほどのものではないのだけれど、それでも、一応撮った写真の「出来」は気になる。気にはなるけれど、よくよく見ると、いつも同じ写真を撮ってるような、いやな気分になる。ファインダーをのぞきながら、自分なりに気に入る構図でシャッターを押すのだけれど、その構図がマンネリ化している。他人の撮った写真を見ていいなと思うことはしばしばあるのだが、なぜ、それを自分で撮れないか、カメラやレンズの特性を熟知していたとしても多分同じものは撮れない。所詮感性が違うのだ。感性を鍛えないことにはいかんともしがたい。
と、そんなことを思いつつ、出来の良し悪しを気にせず、いつもと違う感じで撮ってみたのが今日の写真。
近所を散歩しながらファインダーを覗いていると、被写体というのはどこにでもあるんだという思いを強くする。しかし、私の場合そう思えるのはモノクロで撮っている限りである。撮ったものをカラーで見るて良いなと思う経験はあまりない。なんでモノクロなんだと時々思うのだが、その答えをある映画の中にみつけた。
映画のタイトルは「都市とモードのビデオノート」。ドイツの映画監督ヴィム・ヴェンダースが日本のファッション・デザイナー山本耀司氏を取材したドキュメンタリーである。制作されたのは1989年、パリ・コレ準備中のアトリエでのインタビューが中心になっているが、知られている通り山本耀司氏のデザインはほとんど黒い生地で統一されている。なぜ、黒かという質問に氏は次のように答えている。
「私にとって黒は単純なのです。私が作りたいのはシルエットやフォルムなので色は必要ないのです。黒の生地は生地でしかない。何らかの色がついていると、そうした色によってさまざまな感覚や感情がついてきてしまう。それがうるさいのです。新しい風合いを作り出したい時、私はいつも黒の生地で作り始めます。白地や染めてない生地、自然色の生地、灰色の生地も何かの意味を持ってしまうので嫌なのです。意味が嫌なのです。」
作りたいのはフォルム、色についてくる感覚や感情が「うるさい」という。そうか、そうだったのか、色はうるさいと言われれば全くその通り。もちろんカラー写真にも素晴らしいものはたくさんあるが、私が撮ったものに関する限り、ロクなもんじゃない、ただひたすらうるさい。その言葉がドンピシャで思わず笑ってしまった。
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ヴィム・ヴェンダース監督の作品にはモノローグ・シーンが多い。監督自身が映画とは何か、人生とは何かと自問自答しながら制作しているようである。「都市とモードのビデオノート」も冒頭からいきなり監督自身のモノローグで始まる。
「君はどこに住もうと、どんな仕事をし何を話そうと、何を食べ何を着ようとどんなイメージを見ようと、どう生きようと、どんな君も君だ。独自性ー人間の、物の、場所のー独自性。身ぶるいするいやな言葉だ。安らぎや満足の響きが隠れている”独自性”。自分の場、自分の価値を問い、自分が誰か”独自性”を問う。自分たちのイメージを作り、それに自分たちを似せる、それが”独自性”か?作ったイメージと自分たちとの一致が?」
「独自性」とか「個性」という言葉は今でも生きているのだろうか?
私の場合、学生時代に先輩から「個性なんてものはないんだよ、そんなものを信用するな」と教えられて以来死語になっているのだが、今の若い人たちはやはり「独自性」とかいう幻影を追いかけているのだろうか?
この監督にとって「独自性」とは山本耀司氏の「色」と同じく「うるさい」のだろう。自分が誰かって?誰でもないのが我々なのだ。名づけることのできる自分なんてどこにもいない。私はそう信じる。私は誰よりも無名でありたいと、そう願っている。