東京都美術館でアンリ・マティス展をやっている。20年ぶりの大回顧展というので行ってきた。
マティスは1869年の生まれで、ピカソより12歳年上になる。それだけパリの美術界の注目を浴びたのも早い。4年ほど前にナショナルジオグラフィックでピカソの伝記ドラマをやっていて、その中で、マティスの絵を見て若きピカソが激しく動揺するシーンがあった。
「デッサンは稚拙だし遠近感がなく平坦だ、全てがでたらめだ。なのに息をのむ。理解不能だが躍動感がある。(…中略…)マティスは全てのルールを曲げたんだ。僕は壊したい。」
実際にピカソがそんなことを言ったかどうか、あくまでドラマ上の話だが、マティスに対して激しい対抗心を抱いたということはあったのだろう。ドラマでは、この時ピカソが目の前に見ていたのが、今回の展覧会にも出品されている「豪奢、静寂、逸楽」と題された作品で、新印象派のポール・シニャックの技法を実験的に使ったものと言われている。残念ながら撮影禁止で、ここで紹介はできないが上にリンクを張った特設サイトのトップに出てくる作品がそれである。
マティスはいわゆる「野獣派」代表のように言われている。「野獣派」という名前は1905年のサロン・ドートンヌに出品された一群の作品が、原色を多用した強烈な色彩と激しいタッチに彩られているのを批評家が「あたかも野獣(フォーヴ、fauves)の檻の中にいるようだ」と評したことに始まるとされている。が、マティスが「野獣派」と呼ばれた時代は案外短かったらしく、今回の展示でも「原色を多用した強烈な色彩と激しいタッチ」を感じさせる作品はそう多くはなかった。
ニースの室内、シエスタ(1922) 夢(1936)
マティスが絵を描き始めた19世紀後半は「写真機」なるものが発明され普及し始めた時代でもあった。多くの画家は、目の前のものをそのまま絵にする「写実」では「写真機」には勝てない、そんな限界を感じただろうと想像することは意味のないことだろうか。印象派以降の絵画の抽象化の流れにはそんな背景があったと思えてならない。画家にあってカメラにはないもの、それが何であったかというと「造形力」ではなかったか。印象派以降の画家たちの苦しみは常に「造形」する苦しみではなかったかと想像する。そんな苦しみの中で、マティスは色彩を革新し、更にはアフリカの芸術に魅せられ、その足跡を彫刻作品に残している。ピカソは故郷イベリア半島の古代美術にインスピレーションを得て「アヴィニョンの娘」を制作している。遠近法を破壊した「キュビズム」の嚆矢となった作品である。
眠る女性(1942)
パイプをくわえた自画像(1919)
芸術家に限ったことではないが、人は人生の中で大きく変化してゆく。中には変化を嫌う者もいるけれど、芸術家というのはなかなか自己満足できない人種なのだろう。マティスもピカソも大きな変化を何度か見せている。マティスの晩年は切り絵に代表されるが、切り絵を見ても絵を見ても、あるいは彫刻を見ても、「あ、マティスだ」と、何度変化しても分かってしまうマティスらしさのようなものがある。それは素描などに端的に表れるマティスの「線」が醸すものだろうと思う。実にやさしい柔らかな線で、上の「眠る女性」に端的に表れている。こんなに柔らかな線を引ける人を私は見たことがない。マティスは線と色彩の相克に苦しんだと言われているが、この素描を見ているとわかるような気がする。この上、どんな色彩が必要なのかと。
さてさて、「野獣派」とはいったい誰が見た夢だったのか、そう思わざるを得ないのである。