「よくまとまったね、武川君」
部長席から飛んできたその声に、僕は思わず立ち上がった。
だが、それより早く立ち上がり、部長に近づいた人影があった。
そう、武川課長だ。
「ありがとうございます」
満足げにパソコンを見つめる部長に、課長は爽やかかつキュートな笑みを浮かべた。
「知ってるだろ、武川君も。誰がアプローチしてもなかなか落ちなかったんだよ、あそこは」
今年57歳になる田島部長。
僕たちが所属する営業本部、その中核である首都圏営業部の部長になって、既に5年。
いつもオフィスの一番奥にある部長席に陣取り、フロア中に厳しい視線を注いでいる。
仕事にとても厳しく、到底、僕が気軽に話ができる相手ではない。
更に部長には、誰もがぶっ飛ぶほどの破天荒な経歴を持つ、という噂もあった。
「おい、小沢、ここだけの話だけどな、お前、部長の過去知ってるか?」
入社間もない僕にその話を教えてくれたのは、同じ部の先輩、都筑さんだ。
「部長の過去って、何ですか、いったい」
「ここだけの話、部長って昔、極道だったらしいぜ‘」
「ご、極道!?」
「しっ! 声が大きい」
都筑さんは僕をフロア外に連れ出し、話を続けた。
「実家が関西の極道でな。若いころは極道とうちの会社を掛け持ちしてたらしい、ここだけの話だが」
「じ、実家が極道・・・、ご、極道と会社員をかけもちって・・・、そんなの聞いたことないですよ」
「おまえな、今度、部長の首筋を見てみろよ。刃物で切られたような跡がある。あれは間違いない。極道時代の勲章だと思うぜ、ここだけの話」
やたらと「ここだけの話」を繰り返す都筑さんは、去年の末に大阪に異動してしまったので、それ以上詳しい話は聞けなかった。
僕は目の前に座る部長を見つめてふとそんなことを思い出していた。
「誰が行っても駄目だったんだ、あそこは。なんせ、社長はじめ、役員連中が古い人間ばかりでなあ」
還暦も近づいてきた自分のことは棚に上げ、部長はもたれかかった回転椅子をゆらゆら動かし、課長を見つめている。
「確かに難しい相手でした。オンラインでミーティングを重ねたんですけど、なかなかうまくいかなくて。どうにも煮え切れないから、今日は強引に押しかけてみたんです」
「さすが、武川くん。動きが速い。首都圏営業部、いや営業本部のエースだ」
「ありがとうございます」
まるで銀座のクラブにでもいるみたいだな。
美しすぎる課長、そしてどこかエッチな視線でその課長を見つめる部長を見て、僕はそんな光景を想像した。
「部長、お疲れ様です。いつもの水割りでいいですか?」
「リサさん。いつも悪いねえ。しかし、今日はまた一段と綺麗じゃないか」
「いやだわ、部長さんったら・・・・。ちょっと、駄目っ、そんなとこ触っちゃ」
「いいだろ、少しくらい」
「もう、エッチなんですから、部長は・・・、駄目っ、いけません、そこは・・・・」
そんな妄想を描いていた僕に、部長が突然視線を向けた。
「で、どうだったんだい、小沢」
「は、はい?」
「君も一緒に行ったんだろう。議事録見たけど、少しは勉強になったかい、君も」
一転して厳しい部長の口調に、2年目社員の僕は言葉に詰まった。
「は、はい・・・、プレゼンをしたんですが・・・、な、なかなかうま・・」
「今日、話がまとまったのは小沢くんのお陰なんですよ、部長」
隣に立つ課長が、銀座の高級クラブに入ることができない僕を救うかのように、部長に言った。
「ほう、そうなのかい?」
「彼が一生懸命プレゼンしてくれたおかげで、先方にも熱意が伝わったみたいで」
「そうか。それはよくやったな。まあ武川くんの日頃の指導の成果だろう。これからも鍛えてやってくれよ、武川くん」
「ええ。小沢くんはすごく鍛えがいがありますから」
広いフロア、数十人はいる営業部の社員たちが、僕をからかうような視線で眺めている。
何だか恥ずかしい気持ちになりながら、僕は自分の席に戻った。
僕の斜め前に座った課長が、パソコン越しに試すような視線でクールにこちらを見つめてくる。
か、課長・・・・
「ありがとうござ・・・」
「どうやって返してもらおうかしら、この貸しは」
僕の言葉を遮るように小声でささやきながら、手にしたペンをまるでムチのように揺らしている課長。
「そ、そんな・・・・」
「お仕置きしてあげよっか、小沢くん」
「お、お仕置き、ですか・・・・」
「そう。凄く痛いけど、凄く、凄く気持ちいいお仕置き」
猫のように魅力的な瞳を細め、僕を見つめ続ける課長。
机に座っていても、課長の肢体からは隠しきれない色気が溢れ出している。
僕は、シャツの下に汗がにじむのを感じた。
課長のお仕置きって、いったい・・・・
しかも、痛くて、気持ちいいって・・・・
「ふふふ、早く大人になりなさい」
「えっ?」
「甘いわね、私も」
一転して小悪魔のような笑みを浮かべ、課長はその視線をパソコンに戻した。
「小沢くんには部長も期待してるんだから。頑張ってね」
そして、再び僕を見つめ、小さくウインクを投げてきた。
その瞬間、僕は物の見事に、ハートを射抜かれてしまったのだ。