「もっと近う。楽にせい」
顔を畳に向けたまま姿勢を崩さない男の緊張を解いてやるように、隆久は声をかけた。
だが、緊張しているのは自分のほうかもしれない。
どういうわけか、この男が広間に入ってきた時から、何か圧倒されるような雰囲気が漂い始めている。
「それでは」
流暢な日本語で返事をした男は、ためらうことなく、隆久との距離を縮め、改めて顔を下げた。
「この家中では過度な礼儀は無用じゃ。頭をあげい」
ゆっくりと顔をあげた男は、くっきりとした目で隆久を見つめた。
これは、勇猛な男じゃ。
隆久が最初に抱いた印象がそれだった。
筋肉質で上背の高い男の肌は、長い航海のせいか漆黒に焼け、たくましさを濃厚に伝えている。
獲物を狙うようにぎらぎらと輝く目。
大柄だが、敏捷さをも兼ね備えているかのような下半身。
そして、全身からどこか優しさをも感じさせる、何とも不思議な男だった。
「そなた、島で生まれたそうじゃな」
「さようで」
隆久から目を逸らすことなく、男はよく通る声で言った。
「歳はいかほどじゃ」
「四十も半ばでございまする」
「それにしては若く見えるのう。で、名はなんと言う」
その問いに、しばらくの間を置いた後、男は言った。
「佐助」
「佐助、か」
「へえ」
「よい名じゃ」
その名前に、しかしそれ以上は何も感じることはなく、隆久は話を続けた。
「長い話かもしれんが、話してはくれまいか。お主がなぜシャムにいるのか」
「それでは。話は私の父、母から始まりまする」
「ほう。お主の父、母も島の人間か」
「さようで」
男の目が、そのときどこか嬉しそうに輝いた。
そして、彼の話が始まった。
隆久は知った。
この男がまだ幼い頃、父と母に連れられてシャムにまで流れ着いたこと。
言葉も通じぬ国で、彼の父はその勇猛さと聡明さで少しずつ認められるようになり、国王の直下にまで上り詰めたこと。
そして、シャムの国で父と母はこの男の弟、妹になる子供を五人産んだことを。
「親父殿はそれほどに出世したというか」
異国の人民を支配するまでになった彼の父親に、隆久はひどく興味を持った。
「父上は鉄砲の名手でございます」
「鉄砲の?」
「シャムの民に鉄砲の扱いを教え、父は彼らを率いてイスパニアの軍勢を何度も退けました」
「イスパニアの軍勢を打ち破ったというか」
「さようで」
興味をそそられる話だった。
この国の男が、遠いシャムの国で鉄砲を武器にイスパニアと戦い、退けたというのだ。
佐助と名乗る男との話は、その後、夕刻まで続いた。
「どうじゃ、佐助。しばらくここでゆっくりしていかぬか。夕食を用意しておる」
「殿、せっかくのお招きですが、我らはシャムに帰らねばなりませぬ」
「それは残念じゃのう・・・」
佐助、そして彼の家来であろう、白髪の男が座の末席で最初から無言のまま、控えている。
どうやらその男もシャムから一緒にやってきたようだ。
二人を見つめ、隆久は至極残念そうな表情を見せた。
彼らの去り際、隆久は思い切った様子で言葉をかけた。
「どうじゃ、佐助。わしの家来にならぬか」
殿の誘いに、しかし、男は謙遜するように穏やかな笑みを浮かべるだけだった。
「ありがたいお話ですが、しかし、私の殿はただ一人、父でございますゆえ」
「お主の父はまだ達者というのか」
隆久は、自らの思い込みに支配され、肝心な点を彼に訊いていなかったことに気づいた。
「既に六十を超えましたが。変わらず王に仕える高官として活躍しておりまする。そして」
「そして?」
「母もまだその美貌と共に、健在です」
母の美貌・・・。
そのとき、隆久は記憶の何かが震えたことを感じた。
「島の人間と言ったな。教えてくれい。父と母はなんと言う名じゃ」
男は末席に控える白髪の男をしばらく見つめた後、再び隆久に視線を動かし、静かに言った。
「父と母は・・・、既にシャムの名前で生きております。島で授かった名は、島を去るときに捨てたそうです」
隆久の心に波を立てたまま、男は悠々とした足取りで屋敷を去った。
空を見上げれば、無数の星が輝いている。
シャムで見る星とは違うが、男の心には、しかし懐かしい感情が込み上げてくる。
「じいよ。今頃、父上と母上も星を見ているかな」
隆久の前とは異なり、ひどく打ち解けた口調で彼は隣を歩く白髪の男に声をかけた。
「そうに違いない。目に浮かぶわ、佐助。疾風と桔梗が今夜も仲睦まじく、シャムの酒を飲み交わしている姿が」
「全く、どこまで仲いいんだろうなあ、あの二人は」
「お前ががきの頃から、いや、違うな。二人ががきの頃からだよ、佐助」
二人の笑い声が、海沿いに伸びる夜の道に響く。
「佐助よ。土産には何を買っていこうか。疾風はともかく、桔梗には何がいいだろうな」
「母上にはこの国の着物でも手に入れてみようか。懐かしがると思うよ」
「名案だな」
佐助、そして弥太郎の会話は、その夜、尽きることはなかった。
<奪われた妻 完>
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