ふと思ったことを記事にしようと考えております。
そのため、いつも以上に文章としてあまりよろしくないかもしれません。

本居宣長先生が伊勢商人である小津一族の出身であり、当時の伊勢商人が上方文化(特に京都)を
好んでいて、和歌愛好の空気があり宣長先生の親族が宣長先生が指導者として活躍することになる
嶺松院和歌会の設立時のメンバーとして参加しており、母方の村田家は「商人離れ」の傾向が強く、
蔵書家であり儒学系神道である垂加神道を学んでおり、宣長先生がその影響下にあるということは
触れてきました。



「江戸時代の伊勢商人の繁栄が本居宣長を誕生させた」というのは、事実だと思います。
ですが、それに至るまでの過程を考えていくと非常に興味深いものがあります。

宣長先生の祖先は、元々伊勢国司・北畠家に仕えた地侍でした。
特に織田信長と争った八代目国司・権中納言北畠具教卿の時は、重臣の一人である大宮含忍斎入道が預かっていた北畠家の支城である阿坂城(三重県松阪市)の目付として宣長先生の祖先・本居武連(たけつら)は仕えていました。

北畠家が室町幕府に「守護不在の国」として認めさせるほどの有名無実化していた国司の権限を強く持っていたそもそものきっかけは、南北朝時代に足利尊氏が後醍醐天皇に不本意ながら反旗を翻し、大覚寺統(吉野・南朝)と持明院統(京都・北朝)といった皇統が二つに分れて対立していった中で、南朝の忠臣の一人であり「武装した公家」であった北畠親房が三男の顕能に伊勢国を治めるように指示したことが始まりであり、当時北朝方(幕府方)であった伊勢守護とたびたび争いながらも、最終的には「敵であった」室町幕府に伊勢国の支配権を認めさせたからです。

朝廷だけでなく幕府からも信頼が厚かったことになります。
ですが、ここで問題とするのは親房と伊勢の関係です。

北畠親房と言えば、『神皇正統記』を著した事が知られます。
後村上天皇のために書かれたというこの書は、伊勢神道(度会神道)の影響下にあると言われています。

親房が我が子に伊勢を治めるように指示したのは、吉野と東国を結び拠点になるということもありますが、何よりも神宮(伊勢神宮)のおひざ元であり、日本最大の神域であるということも関係していたと思います。
朝廷権威を守るために、「皇祖神」天照大御神を祀る神宮の影響の強い伊勢を抑える。
親房にはそんな考えがあったのではないかと思えたりします。

奈良や京都といった代々の都からも近く、皇祖神が鎮座されている神宮のおひざ元。
そして、祖先は「尊皇思想」を持つ北畠家に代々仕えていた(武連の子で宣長先生の祖である武秀(たけひで)は具教卿が信長に暗殺されると、信長の二男で北畠家を乗っ取った信雄に仕えずに兄の延連(のぶつら)と一緒に浪人しています)。

宣長先生にとって、「尊皇思想」は「地の物」であり北畠旧臣の末裔として当然のものであったと言えるのではないでしょうか。

そして、伊勢商人の繁栄に繋がったのは、松阪城を築城し城下を整備した蒲生氏郷です。
宣長先生が賀茂真淵と対面した旅館・新上屋があったところは「日野町」と呼ばれています。
実は、この「日野」というのは蒲生家が元々治めていた近江国日野から商人を呼び寄せたことに由来します。

実は宣長先生の母方である村田家は、近江国を治めていた六角家(南近江。蒲生家の元主君)や京極家(北近江)を輩出した佐々木氏の出身であり、氏郷同様近江発祥の一族だったりします。


その松阪城を築いた氏郷に仕えていたのが、本居武秀であったのです。
その子孫が伊勢商人として繁栄を築く。

そう考えると、伊勢国司北畠家、蒲生氏郷に仕えた本居家の祖先の存在が宣長先生に
繋がっているようにも思えてきます。

「世の中には偶然は無い」というのは、かつて一世風靡した『カードキャプターさくら』で
登場人物の一人であるケルベロスことケロちゃんの台詞ですが、宣長先生と伊勢国司北畠家と蒲生氏郷にも同様の事があるのかなと考えてしまいます。

やはり「どこかで繋がっている」ということでしょうか。

それでは。