久しぶりの更新です。

 

改めて本居宣長先生をきちんと考え直して、伝えなければならないと思うようなことがありました。

 

保守界隈で著名な方が御自身のチャンネルで本居宣長先生の「しき嶋のやまと心」を引用されていました。

問題は、その引用の仕方でした。

 

その際に明治天皇の御製と合わせて紹介されていたのです。

その御製は失念致しましたが、明治天皇が「大和魂」を詠まれた歌の一首だったと記憶しています。

 

その一連の御製は下記の通り。

 

 

事しあらば火にも水にも入りなむと思ふがやがて日本魂

敷島のやまと心をみがけ人いま世の中に事はなくとも

敷島の大和心をみがかずば劍負ふともかひなからまし

やき太刀のとつ國人に恥ぢぬまで大和心をみがき添へなむ

國といふ國の鏡となるばかり磨けますらをやまとだましひ

くろがねの的射し人もあるものを貫きとほせ日本魂

 

 

果たしてこれらの歌と宣長先生の「しき嶋のやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花」が同列で語るべきものなのという問題があります。

 

そもそも宣長先生の歌は、六十一歳自画像の画賛として詠んだもの。

つまり宣長先生を表すものであるはず。

 

 

であれば、あの歌に詠まれている桜は、あくまで「宣長先生の桜」ではないのかと。

本ブログでも何度か触れている問題ですが、改めて戦時中の曲解(散華の歌)からこの歌が解放されていないのではないかと思えてきます。

 

この歌を「国学者本居宣長の作」として、愛国心高揚のための歌として用いるのが、果たして適しているのか。

再度そのことを問い直すべきではないのかと。

 

影響力の大きい人ですら、理解せずに発している。

この事実を考えると「しき嶋のやまと心」の「桜」は、「誰の桜」なのか。

その問題をきちんと考えて、改めて発信しないと宣長先生を理解してもらうことは、困難なのではないかと思えてきました。

 

定期的な更新にはならないにしても、やはりこの場で宣長先生に付いて、発信していくことは必要ではないかと思った次第です。

それでは。