みなさま、こんにちは。
京都、スピリチュアル・セラピスト、ミヤノリト∞です☆
友人に借りて、手塚治虫さんのブッダを最近読みました。
(私の中では、また漫画熱が起きていて、
あまりはまらないように気を付けているのですが・・・。)
これは、ブッダの時代背景と一生を描いている物語ですが、
ブッダの苦悩とジレンマをよく表されている物語で、深い・・・。
ブッダの時代は、まだ人間が進化していなくて、
動物的野蛮なエネルギーが横行しているのが普通の時代。
その中でも物質的に豊かになった人たちは、人間の欲というものにまみれてしまったり、
でも、その時代の「人間の欲」は、まだ最新的な人間の進化だったようにも思うのです。
「人間」というものを創造しないことには、「神」には近づけない・・・。
しかし、その人間くさいことをしていくと、必ず「壁」にぶつかる・・・。
物、地位、目に見えるものというものは必ず「消滅」に向かうものだから。
その中で、行き詰った人たちがブッダの教えの中に宇宙の真実を見つけ始め、
もっとそのことを聞きたいと思う。
この物語が描かれた時代は、1970年代初め、
丁度、経済が回り始め、多分、みんなが「資本主義」に向かっていた時期です。
この物質的に求める時代において、
人の生きるということはなんと「刹那」なのだろう・・・。
ということを描くことはとても難しかったのではないだろうか、と感じました。
「ひとが生きることとは・・・。」なんて言っていても、
「毎日生きるのが必死だよ!そんなめんどくさいこと言ってないで働きな!」
と叱咤していたような時代だったから。
今だからこそ、
みんなある程度物質的に裕福になり、
今度は逆に心を忘れてしまった時代になってしまっているからこそ、
こういった「ひとが生きることとは・・・」が大切になってきたのだと思います。
最近の、本のベストセラーで、
「君たちは、どう生きるか」という漫画が書店の店頭にたくさん並んでいて、
やはりそういうものをみんなが求めていることを感じました。
時代の流れで、神道や神社、記紀が言われ始め、
宗教じゃないもっとフリーなスピリチュアルがたくさん出てきたのは、
この「どう生きるか」を知りたい流れからだと思うのです。
しかし、ここにも「流行」があって、
どういう神様が居て、どういう物語があって、
という表面のところばかり注目されがちになっていますが、
本当は、底の部分にある、「どう生きるのか」というところが大切であって、
スサノオはなぜあのような荒れ狂うエネルギーなのかとか、
龍神さまの立ち位置は?とか・・・、
本当はその部分が重要なのだと感じます。
そういったさまざまな神々様エネルギーは、
私たちの中にある一つ一つのエネルギーを表面化したものであるということなのです。
私達の中には、スサノオもあれば菩薩様もある。
その御心が目覚めるかどうか・・・ということなのですね。
自分が「どう生きるか」、
スサノオで生きるのか菩薩様で生きるのか・・・、
どう生きても、それは自分が選択できるということです。