5月25日(土)、いつものように運動と史跡探訪へ。

山本祐三氏の「財田町の山城」に掲載されていた、橘城などへ行ってみた。

三豊市は北方面は瀬戸内海へ突き出ている荘内半島(詫間町・仁尾町)から始まり、南方向へ三野町〜高瀬町・豊中町〜山本町〜財田町と続いて、県境を経て徳島県へ至ります。

徳島との県境は、ほぼ讃岐山脈の尾根と一致しております。戦後までは、借耕牛(かりこうし)と呼ばれる風習があり、農繁期に牛を徳島から引き連れ、秋には謝礼として採れたお米と一緒に返す みたいなのがあったようです。

機械式の耕運機などが普及すると、農耕牛馬は無くなっていき借耕牛の風習もなくなったようです。

その牛が歩いた峠道が香川と徳島の間の数本ありました。財田町は「猪ノ鼻峠(いのはな)」「六地蔵越・薬師峠」などがありますが、昔は他にも峠越えの道があったかもしれませんね。

現在の高知へ続く大動脈(国道32号線)の猪ノ鼻峠があります。かつては歩いて越える峠でしたが、自動車用道路ができると猪ノ鼻トンネルが開通します。そして最近は新猪ノ鼻トンネルが開通し、旧猪ノ鼻トンネルも交通量が激減しました。

 

国道32号線といえば…江戸時代後期に讃岐國三野郡財田上村戸川(当時)に生まれた大久保諶之丞(じんのじょう)は、明治期には地元の政治家になり、四国新道(現在の国道32号と33号)、香川用水、塩飽諸島架橋(瀬戸大橋)などの構想を提唱しました。

特に今の瀬戸大橋につながる、備讃海峡の島々に橋を架けるなどは、当時の人たちは「何言ってんだ」と思ったでしょう。でもそれらは「しまなみ海道」「瀬戸大橋」「鳴門海峡大橋〜明石海峡大橋」として実現しました。

 

まぁ、そういうわけで、財田町とはそういう偉人を輩出した町です。とりあえず車を走らせて財田町にあるB&G海洋センターというところに広い駐車場があるので、そこへ車を停める。

この場所は財田川の辺りにあるちょっとした山の上にあります。車から歩いて1分のところにいきなり橘城があります。

内容はこの看板の通りです。城主の大平伊賀頭国秀は以前紹介した豊浜町の獅子ヶ鼻城主大平国祐の弟(たぶん)だそうです。

この小高い山の頂に中世山城がありました。↓説明板です。

歩いて2分ほど上がると城址は杉などが生えており、神社となっていました。

山頂なのにかなり平ら(曲輪)になっており、人の手が加えられたのが伺えます。周囲はぐるりとやや高くなっており、

土塁だったのが今でもわかります。

城址から一段おりた場所から猪ノ鼻峠方面を撮影した写真です。右の施設がB&G海洋センターです。

駐車場の向こう側には鉾八幡神社があります。背後の山が低くなっている部分が猪ノ鼻峠で、西が若狭峰(わかさみね)と中蓮寺峰(ちゅうれんじみね)へと続きます。

山を降りて、県道5号線に出ます。県道5号線は、国道32号線から財田川沿に観音寺市内の琴弾八幡神社横の三架橋(さんかばし)付近まで続く道です。

道沿いに何やらお地蔵さんがありました。

お地蔵さまや灯篭は古いが、コンクリートは新しめですね。↓説明板です。

そういうことらしいです。

このお地蔵さんから南西へ少し歩くと、本篠川(もとしのがわ)を渡る橋があります。本篠川はこの橋のすぐ横で財田川へ合流します。

その橋を渡らずに本篠川沿いを上流側へ歩いてみます。

歩くとすぐに小高い山が現れ、そこは東宮城(とうぐうじょう)だと本に掲載されていました。東宮城は背後の山の尾根の先っちょになります。

この近辺に「しろやま」や「しろのした」などの小地名があるという。城主は大河内佐渡守吉照だそうで、東宮城の南東の山の中には、大河内佐渡守之墓があるようです。

上の写真から少し歩いたところにある、鉄製の昔の橋。

なかなかこういう橋も珍しいですね。いちおう、トラス橋?

さらに東宮城を過ぎたあたりに、地元パン屋「りすのくつ」があり、その横に雰囲気のある杜が!

しかも、下に祠があります。そこへ行く道がわからなかったので、ズームで撮影してみたら…

左の石柱には「山王神社氏子中」と書いてありますね。中央の白い郵便受けみたいなのは何だろう。

 

考えてもわからないので、先へ進みます。すぐに新田橋というのがあるのですが、その橋は渡らずに北東方向へ折れます。

(ちなみに、新田橋を渡ると本篠公民館があります。)

しばらく歩くと、文字の消えかかった案内板が。

近づいてみると「財田左兵衛頭義宗之墓」と書いてありました。

山本祐三氏の「財田町の山城」の中には、財田義宗は室町時代(南北朝)1337年の財田合戦のときの本篠城主だったそうです。

道の先に墓地が見えるので、「あぁ、あそこかぁ」と思って行かなかったのですが、後で調べると全く別の場所にお墓があったようです。

しくじりました。

上の案内板のすぐ横に丁字路があり、道にある石に「左阿波」「右山」とあったので、右へ行きます。

ところで、この角の建物は民家にしては小さすぎるので何かな?と思ったら、何やら五輪塔などがありました。

何かのお堂かな?

 

さて「右山」のほうを歩いていくと、鳥居が見えてきました。(右に説明板がありますね)

↑説明板の背後のこんもりした山が本篠城跡です。さて、この神社はどうやら荒神さんのようです。

 

二つ上の写真の右端の説明板は↓こちら。

本文だけを掲載します。↓

 

            〜本篠城の歴史〜

 本篠城は南北朝時代(延元年間)に財田左兵衛頭義宗が所領してい

 たと言われています。かつて阿波・讃岐の交通の要路にある要害堅

 固の地を生かした天然の山城でした。しかし、天正6年(1578年)に、

 長宗我部元親が率いる土佐軍5000の兵の侵攻を受けました。わずか

 200の兵の財田軍は城を中心に激しく抵抗し善戦しましたが、落城し

 てしまいました。

 

先ほどの財田義宗の名が書かれていますが、財田義宗は南北朝時代の城主ということらしいのですが、

天正年間の戦国時代の本篠城主は財田和泉守常久だそうです。

この財田地区は隣の徳島県三好地区の三好氏・大西氏や、高知の長宗我部氏などから最初に攻められる場所にあるのです。

 

この道の向こう側に歩いて左側の山を見ると…太陽光パネルが。

地球環境を守るために、気を伐る!

アホかと言いたい。結局は儲けたいだけでしょ?と。

 

ところで、この季節に山に入っていくのは厳しいので、先ほどの丁字路まで戻り、道なりにまっすぐ進み、交差点を直進すると、丸谷工業団地い入ります。

四国明治乳業の前を通り、道を進むと県道5号線との交差点に出ます。

ここからは鉾八幡宮へ行きます。

八幡神社の祭神は基本、応神天皇ですよね。

由緒を読むと、なるほど。この鉾八幡宮やB&G海洋センターや橘城があった小山は「七尾山」という名前らしいですね。

拝殿はこんな感じです。

敷地はなかなかの広さです。この日はもう夕方になったので、隣のB&G海洋センターの駐車場へ戻りました。

季節が晩秋に移れば、山の中へも入っていけるかなと期待しつつ家に帰りました。

最近、古代の讃岐 木原溥幸編(美巧社)という本を読んでいたら、やはり古代がテーマなので古墳の名前がたくさん出てきます。

讃岐國は瀬戸内海に面しており、平野部も多いのでわりと早くから、大和地方と繋がりがあったようです。そのため、県面積の割には古墳も多く、四国で一番大きな前方後円墳がさぬき市大川町にある富田茶臼山古墳もあります。富田茶臼山古墳へは10年くらい前に行ったことありますが、写真等は撮ってなかったな…。

 

で、5月18日(土)。さぬき市は遠いので、本の中に出てきた母神山古墳群へ行ってみました。調べると場所は、観音寺市の総合運動公園…。

私が中学生の頃は「みとそう」と言ってました。当時は三豊総合運動公園という名称だったような気がします。

中学生の頃はそこに古墳があったなどとは知らず、興味もありませんでしたね。ただバスケの試合をしに行くだけ。

 

現在「みとそう」といえば三豊総合病院のことです。ややこしいですが、三豊総合病院は三豊市ではなく隣の観音寺市にあります。同病院のある場所はかつて三豊郡だったからです。

 

もう一度、で、5月18日(土)。駐車場に車を停めてから歩いて30秒、で鑵子塚古墳(かんすづか)が体育館の玄関の向かいにあります。

看板は下記のように書いてあります。

 

鑵子塚古墳

母神山古墳群の盟主的な大円墳で、墳丘は2段に

築かれており、幅約10mの周濠が掘られていた。

和泉砂岩を用いた複室構造の横穴式石室をもつ。

6世紀後半頃に築造されたものと思われ、被葬者は、

三豊地方の有力な豪族であろう。昭和48年の調査により

金銅製単鳳環頭太刀の柄頭、金銅製馬鈴、トンボ玉、

須恵器などが出土している。

墓域直径 48M   墳丘高  6.5M以上

石室全長 9.82M  鼠大幅  2.55M    高さ   3.20M

                    観音寺市文化財保護協会

                    観音寺市教育委員会

 

近くには最近できた看板もありました。

私が居るのは下の方の「現在位置」のところです。上記の本には「母神山(はがみやま)古墳群」や「瓢塚(ひさごつか)古墳」も掲載されていました。

ここで気づいたのは、この運動公園がある山一帯が「母神山」であるということです。Yahoo!地図などではこの山の名前は記載されていません。

さてそこからテニスコートの右側を抜けて、遊園地・トリムコースの先の駐車場へ。その上にある前方後円墳の瓢塚古墳へ行きます。

駐車場の右側から一旦、”母神山を斜めに貫く道路”へ出てそこから歩道を山へ入っていきます。

歩道はミニ八十八ケ所巡りがありますが、その途中に瓢塚古墳はありました。

え?これが前方後円墳? と思うかもしれません。大阪の大仙陵古墳のようなイメージを思い描いていたらすいません。

となりに看板がありました。

記事の上側の看板には、この雑木林の中にはたくさんの古墳があったようです。

三谷3号墳と思われる高まりの上にはミニ88の一つがありました。

「三谷」というのは、運動公園のすぐ横に三谷池がありますので、そこから名前を取ったのでしょう。

歩道を進んでいくと、舗装道路にでて、その先にある住宅街をぐるっと一周して、そこから三谷池の横を北東へちょっと歩くとすぐ、

ホテルへ上がる道があるので上がってみます。

ホテルは、昔は「かんぽの宿」だったところです。ホテルの駐車場に行っても何もなかったので、下って元の道へ。

そこからまた北東へ歩くと、今度は山裾に入る道が右側にあります。入ってすぐ、山の上に上がる歩道(階段)があるので登ってみます。

途中、移築された古墳がありました。

看板には下記のように書かれてあります。

 

黒島林1号古墳の石室(移築)

昭和41年観音寺荘建設工事に伴う発掘調査後、

この場所に移築したものです。

古墳の規模は、直径20m、高さ4m前後の円墳です。

埋葬施設は、全長5.8mの両袖式の横穴式石室で、

6世紀末頃に築造されたと考えられています。

観音寺市文化財保護協会

 

観音寺荘というのはかんぽの宿の事だと思います。さっき行ったかんぽの宿(現ホテル)を建設するときにこの黒島林古墳群が出土し、1号墳の石室だけをここへ移築再現したようです。

この黒島林古墳の名前の由来がわからないのでネットで検索したら、当時の黒島林1号墳調査報告(昭和42年)のPDFであったのでダウンロードして軽く読んでみると、この林の所有者が黒島神社だったのでそう名付けたようです。黒嶋神社は運動公園から北北東に600〜700mの位置に今もあります。

さて、さらに上へ階段を登っていくと山頂?に出ました。

なぜ「山頂?」と書くかというと、上のPDFには発掘当時の母神山の地図も描かれていて、私が到達した78m付近より高い90.1mの山頂も描かれていたからです。

後でわかる事ですが、高速道路建設などの採石のために山頂が削られたようで、この78m地点が現在の山頂になってしまったようです。

現山頂周辺は木が生い茂っているので展望はききませんので、下山します。

階段を降りたら、舗装道路には戻らずに山の歩道(ミニ88ルート)を歩きます。数分歩くと八十八番大窪寺の地蔵があり、さらに進むと一番の霊山寺の地蔵もあります。

なぜか中途半端な位置が一番札所と八十八番札所になっています。

やがてコンクリート道路に出るのですが、その先は薮で歩けそうも無かったので道を降りて舗装道路へ出ます。

南へ歩くとすぐに上へ登る細い道路と交差するので、上へ行ってみます。突き当たり(丁字路)を右へいくと、何やら祠が見えます。

石には「龍王宮」と彫り込まれていました。左にある説明書には、高速道路建設のために山を削り、山頂にあった龍王宮をこの位置へ遷座したと書いてありました。

この写真の左がわへ歩いていくと袋小路だったので引き返し、先ほどの丁字路を左側へ歩く。

太陽光パネルを見ながら、デイサービスセンターを横切り歩いていくと、最初の”母神山を斜めに貫く道路”へ出ました。

【写真:この道を向こうへ進むと元の瓢塚古墳入り口へ戻ります。私は手前方向へ歩きました】

道なりに南東方向へ歩くと、左側に茨谷上池があり、土手の先に南無阿弥陀佛の石がありました。

わかりにくいですが、断念したミニ88ルートがここへ繋がっていたようです。(この石はミニ88ではありません)

また道路へ戻って歩いていきます。山裾を通るルートとの交差点があるので、山裾の方へ歩いていきます。

途中、このようなお堂もあります。ちらっと地蔵様が見えます。こういうのがある場合、この道は古くからある歴史ある道だと言えます。

すぐ横には神社もありました。階段を登ってみたら、白山神社でした。

神社のすぐ裏はグラビア印刷の会社です。二礼二拍手をして階段を降りまた道を歩きます。

左手に双子池が現れます。写真に見えている右へ行く道路の先はなぜか閉鎖されていました。

帰ってからYahoo!地図でみると、道の先には須賀神社というのがあるらしいのですが、なぜ閉鎖されているのかは不明です。

この写真の正面の山の尾根上には久保田塚古墳があるようです。

この道を進んで池の堤の横を通っていくと集合住宅の横を通ります。集合住宅の奥にお墓が見えたので、ミニ88があるだろうと見当をつけてお墓の方へ行ってみます。すると墓の奥(山裾)にやはりミニ88がありました。

それから西方向へ歩くと東円寺というお寺に出ました。

本堂の裏には神社もありました。

左:千尋神社

右:金毘羅宮、天満宮

この左側にはミニ88もあります。

この東円寺のすぐ北に千尋神社はあります。随分と立派な石垣がありますね。

神社本殿は山の上にありますので、右の石段を登っていきます。その前に、なになやら看板があります。

なんと、この石垣は歌舞伎を観る観客席だったという!

階段の途中には三宝宮や伊勢宮もあります。

階段を登ると拝殿が見えます。拝殿の前で二礼二拍手をします。

奥に見えるネットは、ゴルフ練習場のネットです。

本殿の後ろに舗装道路があるのですが、その先は水道施設なので行き止まりなのですが、そのすぐ横にも神が祀られていました。

右に札があるのですが、文字が消えてしまっています。

 

最初に紹介した本「古代の讃岐」には千尋神社古墳群という言葉も書かれており、ネットで検索するとやはり、

調査報告のPDF(昭和48年)がありました。それをDLして読んでみるとやはり周辺の地図もあり、そこには古墳群の位置も描かれております。

この祠は古墳と何か関係があるのか無いのか。不明です。

 

それから境内の手水舎の奥にも祠がありました。

千尋神社古墳群調査報告PDFにはこのあたりにも古墳があったと印がしてあります。

さて、千尋神社には土佐諾(とさなぎ?)大明神というのもあります。

ネットで検索しても情報は出てきませんでした。

 

千尋神社の北西方向にはやはりミニ88があります。

そのおくに側溝のある巡礼ルートがあります。

 

途中にある五十四番札所 延命寺 本尊:不動明王

その後ろには泉が!

といっても、枯れているでしょうが…

 

道を進むと池の堤に出ました。谷田池というらしいが、読み方は不明。(たにた・たにだ・やた・やだ)

堤を向こう側からこっちへ歩いてきて撮った写真。この石はミニ88ではありません。

池の横にミニ88ルートがあるので歩いていくと、最初の瓢塚古墳の入り口にある”母神山を斜めに貫く道路”に戻ってきました。

再び自由広場駐車場に戻ります。最初から2番目の写真にある「トリムコース」という場所は要するに子供用のアスレチック器具がある場所なのですが、そこにも古墳跡があります。

この上母神(かみはがみ)8号墳の石室あとは、実は横の自由広場駐車場にあったものをここへ移築したようです。

写真の奥にも古墳があります。

上母神1号墳

 

上母神2号墳

 

なぜ「母神山古墳」という名称じゃないのか不思議だなと思って、帰ってネット検索すると、やはり過去の調査報告PDFがありました。

どうやらこの北西にも古墳があり、そちらは下母神古墳というそうです。

 

ちなみに、下母神古墳跡には太陽光パネルが設置されている。ふざけているとしか言いようがない。

5月4日、高瀬町の大水上神社(おおみなかみじんじゃ)へ行ってきた。といっても同神社へはこれまで数回訪れている。

初めて行ったのは、高校時代に42km歩くという恒例行事があったのですが、前回のブログの豊浜町(現観音寺市)にあった三豊工業高校から延々と歩いて往路は高瀬町のこの大水上神社まで来て、この境内で昼の弁当を食べた。

当時はこの神社の名前とかも知らなかったのです。(興味も無かった)

社会人になってからあの神社が讃岐二ノ宮大水上神社だとわかったのでした。ちなみに一ノ宮は高松市にある田村神社です。

田村神社は平野の中にありますが、大水上神社は山手にあります。

山手といっても山奥ではありません。

神社の入り口には石碑?があり、その後ろに看板があります。

 

これは県が設置した「四国のみち」の案内図で、昔から使われている道を案内しているものです。

考えてみれば、高校時代に歩いたルートはどうやらこの「四国のみち」を辿っていたようです。

 

大水上神社の中に小さな川が流れていて、その川は「宮川」という名前で、2km下流に瀬丸池(せまるいけ)があり、やがて財田川(さいたがわ)へ合流します。

入り口の鳥居をくぐるとこのような風景に。

道路も舗装整備されているし、鳥居も新しめですね。鳥居前に小さな橋がありますが、そこが宮川です。

 

鳥居をくぐると急に鬱蒼とした雰囲気に包まれます。

 

青々としたもみじも綺麗です。

 

随神門はこんな感じです。

 

参道沿いにある石製の玉垣には古い名前がたっぷりあります。

小野仁右衛門令盛(おのじんえもんはるもり?)

右側は「六ノ○ 近藤○八郎」と見えます。

ちょっと読みづらいのですが、「六ノ…」といえば、この大水上神社から西へ4kmほどのゆめタウン三豊付近が六ノ坪という地名なので、おそらく「六ノ坪」に住んでいた近藤氏なのでしょう。

また高瀬町付近は近藤という姓の方々が結構住んでおられるようです。

近藤氏は古くは近江へ派遣された藤原の一族が近藤姓を名乗り始めたようで、その子孫の誰かが鎌倉時代に讃岐へ来、この近辺の地頭になったという。

(※写真の近藤○八郎がその末裔ということではありません)

 

正面が拝殿で、二礼二拍手をする。

 

右方向に行ける道がある。木々が生い茂っているので、苔がたくさん生えていい感じです。

石段の左側の玉垣には「仁尾村 塩田忠左衛門」と刻んであります。塩田忠左衛門氏は三豊市仁尾町で塩田(えんでん)を経営した人物だそうで、仁尾の発展に貢献した人のようです。

 

石段を登っていくと、磐座がありました。

ここでも二礼二拍手します。右を向くと木の下に小さな祠もありました。

石段を途中まで降りて、そこから神社の後側へ回っていくと、先ほどの宮川が流れており、対岸にも磐座がありました。

石灯籠には「羽方村 惣氏子」と刻んであります。羽方村はこの大水上神社がある場所の旧地名です。

 

そこからいろいろ1時間半ほど歩いて帰りました。

高瀬町はこの近辺ではお茶栽培で知られたところであり、今でもお茶畑があります。

お茶畑にあのような風車があるのは何故だろう。

というわけで、讃岐二ノ宮紀行でした。