4月14日(日)は桜も半分以上散ってしまっていたので、桜だよりとはなりませんが、

この日は観音寺市の粟井地区付近にある藤目城跡に行ってきました。

山本祐三氏の山城調査冊子「観音寺市の山城」に掲載されていた藤目城跡を読んでいたので、どんなところかな〜と思っていたのです。

季節が進んで盛夏になってしまうと、雑草が生い茂るしあらゆる虫や蜘蛛の巣が張り目巡らされてしまうので、寒い時期に行くのが一番です。

しかし四月に入るともう小蝿?みたいなのがまとわりついくるのかかなり鬱陶しくなる。

 

さて、まず藤目城跡は、柞田(くにた)川水系粟井川の上流にある以前訪れた粟井ダムの下流の、岩鍋池横にある粟井神社の近くにあります。

前回も行こうとして粟井神社の横の駐車場?に車を停めて目の前の看板を見たら「参拝以外の駐車はお断り」みたいに書かれていたので断念していた。

今回は粟井神社の南西にある丸井地区の大池の土手付近に車を停めて歩いていくことにする。ちなみにこの大池ある水系も、柞田川水系の大池川を堰き止めてため池にしていて、大池から下流1km付近で柞田・大池・粟井それぞれの川が同じ場所で合流します。

川が合流するあたりをよく「落合」と言ったりしますが、合流地点に架かる橋はまさに「落合橋」という名がついています。

 

大池に車を停めて、横にある「こんな道必要なの?」というような整備された道を挟んだところに雨之宮神社はあります。

鳥居などはわりと新しいです。誰もいない神社で二礼二拍手をしてウロウロ。

 

向かって左方向へ歩いていくと、おそらく日清戦争に関する碑もあります。

あえて「紀念」としているのか「記念」を間違えたのかは謎です。

一応、パソコンの文字変換で「紀念」はあるようですが。

後ろの石垣はまあまあの歴史を感じますが、紀念碑の左にもたくさんの五輪塔が。

田舎にはこういう五輪塔が道端にポツンとあったりしますが、田んぼや住宅の区画整理などでどけられたものが、

こうやって集められたのでしょうか。罰当たりな気もします…。

 

さらにそこから左方向へ進んでいきます。

 

何があるのかなと思いながら行ってみたら、あ、そうか。

お神輿の御旅所がありました。

散った桜の花びらが地面に落ちてピンク色に染まる。

御旅所の後ろに何か建物があったので進んでみます。

左には古めかしい灯籠もあります。正面の建物の後ろにもさらに何かあります。

後ろの建物はよくわかりませんが『宝殿宮』と書いてあり、中に石製の祠がありました。

ところで道が右側に続いているので、行ってみると、池の土手にでました。

この池は代之池(だいのいけ)という名前らしいです。堤はちょっとした高台なので三豊平野がよく見えます。

土手を歩いて振り返ると雲辺寺山が聳えます。

ここまで雨之宮神社から御旅所を経て代之池土手へ歩いてきた道は、この右側に見える細長い小さい山の尾根を歩いてきた感じです。

 

代之池土手からなんとなく歩いて、粟井神社の前に藤目神社がありました。

入り口付近に説明石がありました。読みづらかったのでフォトショップで加工しました。

二行目にある天児屋根命(あめのこやねのみこと)の名も見えます。

途中にある「讃州苅田郡」とは豊田郡の昔の名前であり、のちに豊田郡と三野郡が一つになって三豊郡となり、

昭和期に観音寺市が独立し、平成の大合併で観音寺市に隣接する南部の大野原町と西部の豊浜町が観音寺市に編入し新観音寺市と三豊市に分かれました。

藤目城は長宗我部軍に敗れて落城したようです。

 

藤目神社から新設の道路を少し歩くとすぐに階段が現れ、登ると粟井神社に着きます。

延喜式に掲載されているということでかなり歴史のある神社です。主祭神は天太玉命(あめのふとだまのみこと)

天太玉命と、藤目神社に出てきた天児屋根命は、天照大神が天の岩戸に隠れてしまったとき、呼び出すためにいろいろやった集団にいた二人のようです。

 

拝殿右側には神楽殿もありますね。

 

拝殿を斜め方向から撮影。

参拝者が多いのか、かなり綺麗に清掃などもされています。

 

さてそこからこの左側にある藤目山に登ります。

コンクリートの道があるので迷うことはなく、一旦平地に出たところで藤目城跡の立札が。

低い石垣が見えます。でもこれはどうやら二の丸のようです。

 

そこから登山道のような道を数分登ると藤目山山頂付近に着きます。

今見えているのが藤目不動院になります。この裏に剣山神社があり、その脇の階段からさらに上に登れます。

この階段の上の左側には小規模な藤目稲荷もあります。そしてこの階段のまっすぐ行ったところが山頂になりまして、

そこが藤目城本丸があったようです。城といっても、戦国期の山城ですが。(古代の朝鮮式山城でもありません)

周辺にぐるりとある地蔵さんみたいなのは、ミニ八十八箇所巡りです。山頂周辺は木が生い茂っているので展望は望めません。

私は専門家ではないので、どれが土塁でどれが堀切で曲輪で…などというのはわかりませんです。はい。

 

そして下山後、先ほどの新設の道を戻ると、丸井の大池に戻ります。そういうわけで、1時間半くらい歩いたので、

まぁまぁのカロリーを消費したんじゃないでしょうか。

前回の粟井ダム・龍王神社から次の週の日曜日である4月7日、桜満開の季節ということで、人がたくさん居る場所には行きたくなかったので、記憶の中で小規模な桜があったと思い出し、

車を走らせ三豊市豊中町の笠岡地区の宇賀神社と生目神社(いきめじんじゃ)へ行ってきました。

天候は晴れていましたが、若干の風と霞みがありました。場所は北東の高瀬町との境目付近であり生目神社から北は高瀬町という感じ。

まずは宇賀神社の駐車場に車を停める。ほぼ人が居なくてよかった。

鳥居の前の社務所へ通じる参道を工事中でした。コンクリート舗装するのでしょうか。

鳥居とか狛犬さんは新しめですな。宇賀神社は年に二回”濁酒(どぶろく)”を作る行事があり、毎年のようにローカルニュースで取り上げられます。

 

右の”鉄骨通路”は謎めいてます。

 

鳥居を潜ると灯籠、随神門、拝殿へと続く。大きな注連縄が目を惹きます。

 

出雲大社のそれに比べれば小さいですが。二礼二拍手をします。

 

我々一般人は勝手にお酒を作ってはいけません。(笑)

四国ではこの宇賀神社だけ許可されているらしいです。

 

本殿の後にはこのような石も祀られいます。

 

本殿のある場所から南に御旅所があります。背後は七宝山脈です。

宇賀神社から東方向に目を向けると、桜が群生しているのが見えたので行ってみることにします。

途中、昔の鐘があったりしました。

モノクロ写真

この小さな交差点を左へ行くと、満開の桜が!

 

あ…墓地でした…すいまんせ。しかし綺麗に咲いていました。左側の道を行きお墓を抜けると舗装道路に出ます。

そこから東方向へ進んで振り返って撮った写真。↓

そのまま道なりに進んで山方向へ行くと行き止まりだったので引き返して、この道を西方向(この写真の向こう側)へ歩いていきます。

 

右側に池があり、土手の下に歴史を感じる灯籠がありましたが、池の名前はわかりません。

この道を左方向へ行くと生目神社へ行く看板があります。

坂道を上がっていくと途中で分岐があり、真っ直ぐ(車道)行ってもいいのですが私は分岐方向へ(コンクリート道)。

この道を進んでいくと階段が現れ、左側にまたもや池も出現。

 

池の土手南側から写真を撮ると、七宝山脈を背景にした笠田地区から下高野地区や比地(ひじ)地区がよく見えます。コンクリート道は桜に隠れています。

七宝山脈の向こう側は瀬戸内海(燧灘(ひうちなだ))です。

さて、土手を戻ってコンクリート道へ戻り坂を見ると鳥居と階段があります。

かなりくたびれてますね…。みなさん自動車で車道の方を使うのでしょうか。でもこの寂れ感がいい雰囲気をかもしだしてます。

夜はかなり怖いかもしれませんね…。階段を登り切ると…。

こちらにも満開の桜が。左手方向に鳥居がありますので、そこから短い階段をのぼります。

生目神社(いきめじんじゃ)に到着です。先ほどの寂れた参道とはちがってかなり手入れがなされています。

注連縄のある拝殿前で二礼二拍手をしました。拝殿の横には小さい祠もあります。

五輪塔や右側の祠はかなり古そうです。

さて、そこから車道を下って戻ることにします。振り返ってパシャリ。

急な坂道を下っていくと途中に井戸があります。

こちらにも祠が。看板には↓のような事が書かれています。

 生目の御神水 

  祭神 水波能売大神(みずはのめのおおかみ)

      水の神様

 幸福の泉

  祭神 榮井大神

      井戸の神様

モノクロ写真。榮井大神は読み方がわかりません。サカエイノオオカミかな?

  お知らせ

 この井戸水は

 飲料には

 適しません。

    生目神社総代

このような注意書きも。(笑)

 

そこからさらに下っていきます。

若干散り始めてますが、まだまだ綺麗です。

 

下っていくと参道鳥居前の池の土手にでます。土手北側から宇賀神社を撮りました。宇賀神社の向こう側は観音寺市方面です。

宇賀神社の下の名前のわからない池の土手の下に歴史を感じる灯籠がありましたね。

で、池の下に見える道が先ほど登ってきた参道のコンクリート道です。そういう位置関係です。

 

道を戻って宇賀神社へ戻ってきたのですが、裏手を見るとまた別の場所にも桜が群生しているので行ってみることにしました。

ちなみに、↑山の左側の桜がある場所が生目神社です。

 

鳥居には”長穂大権現”と書いてあります。

 

どうやら地元住民の氏神?のようです。

なるほど、長穂と書いて「ながお」と読むわけですな。天正12年創建。

天正12年といえば、長宗我部元親が四国統一をする前年ということでかね。

石柵の名前は馬渕さんばかりですな。横には五輪塔もあります。

ちなみに、女優の馬渕英俚何さんの出身は三豊市豊中町らしいです。もしや!!!?

 

さて、再び宇賀神社へ戻ってきて、宇賀神社の横の池にもちょっとだけ桜がありました。

 

車を停めた駐車場にも。

人がほとんど居なかったので、静かに鑑賞できました。

 

令和六年四月七日の桜だよりでした。

先週は天気がすっきりしなかったのですが、金曜日はわりと晴れていたので、会社の帰りに夕日を撮影しようと思ってカメラを持って行った。

帰り頃になるとちょろちょろと雲があったけど、空の写真は雲があった方が表情がでますよね。

場所は多度津町の海岸寺の浜から。中央は亀笠島という無人島で、その後ろは左側が荘内半島で、右が粟島と志々島ですな。

DATA:海岸寺の夕日

SONY DT16-105mm

ISO 800

絞り優先 F16(-1.3補正)

1/3200秒

焦点距離24mm※

多分割測光

WB:曇天

夕景モード

 

海岸寺は四国八十八か所巡りには入っていないのですが、四国別格二十霊場などお寺巡りの札所であるようです。

弘法大師の生まれた場所が文献?に「屏風ヶ浦」という名であったのですが、この海岸寺がある場所が屏風ヶ浦という浜なのです。

でも善通寺市の善通寺こそが弘法大師が生まれた場所だということで、ある種の論争があります。それほどピリピリしてませんけどね。

海岸寺のすぐ近くにはJR海岸寺駅もありますので、夕日を見たい方は是非。

 

亀笠島と、荘内半島をズームで撮影したもので、左側の山が紫雲出山(しうでやま)です。

浜とJRの間に道路があるのですが、数年前までは主要道路の”さぬき浜街道(県道21号線)”でしたが、裏の山側に白方トンネルが開通しまして、こちら側の道は交通量が減り、静かな海岸沿いに様変わりしました。以前から夕日スポットとしては定番の場所ですが、静かな環境はいいですね。

DATA:海岸寺の夕日(アップ)

SONY DT16-105mm

ISO 800

絞り優先 F20(-1.3補正)

1/1600秒

焦点距離90mm※

多分割測光

WB:曇天

夕日モード

 

そこからちょっと西方向へ行った場所、JR予讃線の横の道路から撮影してみました。

場所は海岸寺から西にある見立(みたち)地区から。線路脇ということで、信号機と絡めてみました。ちなみに、撮影した写真にゴミが写るので、フォトショップエレメンツのスポット修復ブラシ加工をしています。

DATA:見立からの夕日

SONY DT16-105mm

ISO 800

絞り優先 F16(-0.7補正)

1/640秒

焦点距離24mm※

多分割測光

WB:曇天

クリエイティブスタイル:夕日モード

 

そこから少し西南にいった部分の踏切を渡り、海沿いの細い道を走って行くと津嶋神社に着く。

津嶋神社と絡めて写真を撮ろうかと思ったがもう日が高谷(こうや)の戸崎に沈んでしまった…。

DATA:津島神社からの夕日

SONY DT16-105mm

ISO 800

絞り優先 F16(-0.3補正)

1/320秒

焦点距離75mm※

多分割測光

WB:曇天

クリエイティブスタイル:夕日モード

 

実は3月31日に、観音寺市の山方向にある粟井ダムへ行った。粟井ダムは、観音寺市中心部を流れる柞田川(くにたがわ)系の支流の粟井川にできたダムです。ダム自体は普通のダムですが…。

 

3月31日でもわりと桜は咲いていたのです。ダムの堤から下流側を撮影。遠くにうっすらと天空の鳥居で有名になった高屋神社のある七宝山系の稲積山と左に江甫草山(つくもやま)が見えます。

 

振り返って上流側はこんな感じ↓。

奥は讃岐山脈。この粟井川上流からは徳島県へ行く道はありません。徳島へ行くには粟井川から西の曼陀(まんだ)トンネルか、東の薬師峠・六地蔵越さらに東の猪ノ鼻(いのはな)トンネルを利用します。

薬師峠・六地蔵越は普通車でも行けますが、なかなかの道です。(意味深)

 

さて粟井ダムの下に龍王神社があるので行ってみます。

枝垂れ桜?が満開でした。

 

ちょっと引いて撮影。右はソメイヨシノかな?

 

平成九年にできたっぽい鳥居。

ダムができる前は、この龍王神社はどこにあったのだろうか。

 

鳥居をくぐって振り返って撮影。

橋の下は粟井川です。

 

文化十二年の灯籠などもあります。調べてみたら、文化十二年は江戸時代後期の1815年らしい。

 

このように古い祠も集められてます。

 

 

ちなみに、竜王とか龍王などは雨乞い系の神社が多いですね。

 

これで終わりです。