私たちが「社会科」で日本史を習ったころとは、今の日本史はずいぶん変わってきたようです。
たとえば、私たちの時代、聖徳太子は実在したと習いましたが、今では「モデルはいたけれど、聖徳太子と呼ばれる人はいなかった」と習うようですね。
日本書紀も、それが編纂された時代より前は、ほとんどはったりだと思った方が良いと私は思います。
それ以前の書物が見つかっていないんです。
つまり、それ以前の歴史書はなかったのか、あるいは、日本書紀編纂者には都合の悪い内容なので焚書されたか、どちらかでしょう。
歴史書がないのならば、口伝だけで伝わってきたということで、伝言ゲームを思い出しても、正しく伝わるのは限度があります。
ま~よくして2代、50年分くらいでしょう。
焚書されたのだとしたら、日本書紀に書かれた「歴史」は大ウソだってこと。
つまり、日本書紀において、ある程度史実にそっていると考えられるのは、ちょうど聖徳太子が摂政になったころからじゃないかな。
だから、聖徳太子のモデルとなった人物がいた可能性は十分あるけど、日本書紀の記述が史実とは思えません。
ただ、聖徳太子の事績は、厩で生まれたなんて箇所はキリスト教の影響が認められるほか、一度に十人の訴えを聞くことができたなんて伝説的な逸話も多いので、多くの人が、
「まぁ、ある程度誇張されてるんだろうな」
と想像されるんじゃないでしょうか。
私がびっくりしたのは……。
私が学生のころ、つまり40年くらい前、
「仏教には大乗と小乗があり、日本における小乗仏教は真言宗だけだ」
と習ったんですけど、他のみなさんはどうですか?
旦那は、
「え?真言宗は小乗仏教とちゃうんか?」
と言うてました。
でも、真言宗は大乗仏教です。
むしろ、衆生を救うための仏、「菩薩」の働きを明らかにしたという意味では、大乗の中の大乗。
どこにだしても恥ずかしくない大乗仏教なのです。
仏教者でもない人間にとって、大乗と小乗の違いは、
「衆生救済を目指すのが大乗、自分だけの悟りを目指すのが小乗」
くらいの認識しかないんじゃないでしょうか。
呉智明さんは「仏教は、生まれながらにして自らの悟りと衆生救済という矛盾した二つの目的を持っている」と書かれていましたが、大乗は衆生救済に主眼をおき、小乗は自らの悟りに主眼をおいていると考えると、すごく理解しやすいです。
理解しやすいということは、浅く理解しているということにほかならないのですけどね(^^ゞ
さて、日本の仏教は、すべからく大乗です。
浄土真宗なんかはわかりやすいですよね。
戦国時代に何度も一向(浄土真宗=一向宗)一揆が起きたのは、農民たちが為政者に自分たちの権利を訴えるためでした。
「南無阿弥陀仏」さえ唱えれば浄土に転生できるとする浄土真宗の教えは、十分な教育を施されなかったであろう農民たちに大いなる希望をもたらすと同時に、
「今の生活は苦しい。なら、戦って浄土に生まれ変わる方が良い」
という、一種自棄な行動を起こさせる原動力となったでしょう。
……ほんのすこ~し仏教をかじれば、
浄土に生まれ変わる≒悟る
だということくらいはわかります。
そうであれば、ただ南無阿弥陀仏を唱えるだけで、成仏できるはすがなく、
南無阿弥陀仏……阿弥陀様の御心のままに
……ができる人が、阿弥陀様の教えを理解し、阿弥陀様のお力によって悟る
ということであると、わかってきます。
つまり、南無阿弥陀仏を唱えるだけで成仏できるという「うまい話し」の裏が見えてくるじゃないですか(笑)
それでもまぁもちろん、阿弥陀様の浄土に入れば、今の暮らしよりは楽になるのかもしれないけれど……。
一向一揆を主導した蓮如が、彼らを利用したとまでは思いません。
だけど、仏教の造詣がけして深くなかった農民たちに、しっかり奥義を教え込んだうえで一揆をおこしたなんて、理想化もできないなぁ。
真言宗は、僧侶に厳しい行を強います。
しかしそれは、自分が悟るためだけではなく、それにより、衆生をどう救うかという点にも主眼があった……と、ひろさちやさんはおっしゃってますね。
なんにせよ、真言宗も大乗仏教なんですよね。
浄土真宗は衆生に「浄土に往生できるための方法論」を、真言宗は「浄土に往生できる意味や理解の仕方」を、衆生に伝えようとしたといえるのかもしれません。
で、私はどっちかというと、真言宗の教えの方が知りたいな、と。
いや~……悪口になるんですけど、先日、祖母の十三回忌で実家に帰ったんですよ。
実家は浄土真宗なので、浄土真宗のお寺から住職がいらっしゃったんですが、読経のあと、説教が始まりまして……。
なんというかもう、本当にもう、小学校の朝礼で聞かされるようなお話だったので、早く終わってもらおうと、
「それは悪人正機説ですか?」
「それはつまり、他力本願が重要ということですか?」(この質問が出てくるというだけで、どんな説教だったかお察し)
と質問を入れて、さっさと終わってもらおうとしたら、
「今日は手ごたえがある人がいますね」
とか言い出すじゃありませんか( ;∀;)
で、
「人が見ているものは、本当にあるのでしょうか」
と言い出したので、
「もしかして、唯識の話しをしようとしてますか?」
と聞いたんですよ。
唯識って、超~難解なんです。
普通のお坊さんなら、
「唯識について教えてください」
なんて質問しようもんなら、
「とんでもない!!!!!拙僧なぞが唯識について語れることはなにも!もし勉強されたいのなら、〇〇という大僧正が書かれた××という本がありますので、ぜひご一読なさってください」
とおっしゃるだけでしょう。
そしてその本を読んでみたら、
「私なんぞが唯識を語るなんてとんでもないことですが、それでは一般の方々にとって縁遠いものとなってしまうため、恥を忍んで、私が理解し得る、ほんの浅い知識について書かせていただきます」
などと、長々言い訳があるような、とにかくまぁ、難しいったらありゃしないものなんです。
むろん、仏教思想のすべてがそうでしょうけれども、唯識は特に難解な部類じゃないのかなと思う。
それをペラペラしゃべるお坊さんとは、どんな方か。
非常に学のある、知識も教養も深い方か、あるいは……じゃないかと思います。
そしてその住職は、
「よくご存知ですねぇ」
と、ペラペラ話し始めたので、後はずっと「黙」でした。
相槌を打つとしたら、「あなたはそう解釈するんですね~」以外、何が言えるかという。
あんたの目の前にいるのが、戦国時代の農民ばっかりだと思うなよと言いたい。
と言うか、戦国時代の農民だって、
「なんか変だぞ?」
と思ってた人は少なからずいたと思うしさ。
すべての浄土真宗のお坊さんがそうではない、むしろそういう人はごく一握りだと思うんだけど、その経験が、さらに
「私が一生で学べることなんてたかが知れてるんだし、浄土真宗を学ぶ時間があれば、真言宗にしよう」
と思わせたのでした、まる。
何が言いたいのかというと、
「真言宗も大乗なんですよ。日本の仏教はみな、私たち凡人を救おうとするものなんですよ!!」
てなことなのでした。
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