日本は、どんな悪人も、死んだ後に、人々が神として祀れば神になれる国。
鬼として殺された温羅の首を「予言の神」とする吉備津彦神社の宮司さんから聞いたお話です。
何度も書いていますが、心中した男女を恋愛の神として信仰する日本人を、明治時代にやってきた欧米の人々は、まったく理解できなかったそうです。
日本人以上に日本人を理解し、愛した小泉八雲でさえしっくりとした答えは見つけられず、日本人の友人になぜなのか尋ねたところ、その答えは
「彼らはえらい苦労をしたからです」
だったと。
人々が神として祀れば……その通りなのだけれど、なぜ人は彼を神とするのか。
「えらい苦労をした」人に同情する気持ちはわかるのだけれど、それを神として信仰するのは、少し飛躍がすぎやしないか。
その答えが、刈萱堂にありました。
刈萱堂は、出家した夫の後を追い、高野山へやってきた千里の前が、女人禁制ゆえにそれ以上進むことが叶わず、とどまったとされる場所です。
彼女の息子・石童丸が一人高野山に登り、父、道心と再会するのですが、道心は悟りの道を求めるがゆえに、世俗への執着を断ち切らねば……と父の名乗りをあげません。
石童丸は父と会えずにがっかりしますが、道心に師事し、ともに修行にはげむのでした。
さて、残された千里の前です。
彼女は生家である朽木家から、人魚のミイラを授けられており、それを仏として日々清らかな生活を送り、32歳の若さで亡くなったのだそうです。
そこで、千里の前が最期の日々を送った西光寺には今に至るまで、人魚のミイラが伝えられています。
それにしても、なぜ人魚のミイラが仏なのでしょうか?
お寺の方に声をかければ、誰でも見学させてもらえるのですが、写真撮影は禁止です。
このスケッチはイギリスの新聞、サンデー・ハロルド紙に掲載されたもの。
決してアンデルセンの童話に登場するような姿ではなく、鋭い牙、顔に寄った皴など、むしろ醜いとさえ感じます。
幼い千里の前は、人魚のミイラを見て、
「苦しんでいる」
と感じました。
純粋な子ども心から、
「なんとかしてこの人魚の苦しみを取り去ってあげたい」
と、日々悩み続けます。
そしてその想いが、
「私がその苦しみを引き受けてもいい」
と、自己犠牲の祈りにまで昇華したとき、人魚は成仏……あるいは神上がったのでした。
だからこの人魚は、まさしく仏、あるいは神なのです。
悟りを開き、仏になるためこの世への執着を捨て、我が子を苦しませた刈萱道心と、既にミイラとなった人魚のために苦しみを引き受けたいと願った千里の前の、どちらに仏性が宿っていると思います?
苦しんだ人々を悼み、神とし、仏とし、その前で手を合わせる人たちにはみな、千里の前と同じ仏性が宿っているのではないか。
私はそう、思います。
取材や執筆の依頼・お問い合わせは
![大阪の取材ライター醸工房](https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fwww.norichan.jp%2Fimage8%2Fbanner.png)