ヒトコトヌシとアジスキタカヒコネ | 守護神のさがし方|千柱の神様を知る神話ライター・上江洲規子が教える 

守護神のさがし方|千柱の神様を知る神話ライター・上江洲規子が教える 

弱音を飲み込み、人に頼られるのが得意な長女タイプのあなたへ
ふとしんどさを感じたとき、気軽に愚痴を言える相手のような
自分だけの守護神をさがしてみませんか?

今日のラッキー神社

 

先日高知の鳴無神社に参拝したのですが、この神社では、ヒトコトヌシとアジスキタカヒコネは同一神としていました。

社務所にいた女性にお話しを聞いたのですが、

「アジスキタカヒコネはヒトコトヌシ神の別名です」

と明言されていました。

 

つい、

「関西にいると、この二神が同一神だとは実感的に思えないんですけど……」

と言ったら、心底意外そうにされていましたので、高知では同一神だという考えがスタンダードなのかもしれません。

 

ここでヒトコトヌシについて順を追ってみていきましょう。

 

日本書紀や古事記では、

・雄略天皇が葛城山麓で狩りをしたとき、天皇と同じ姿で登場

・自分は良いことも悪いことも一言で言い表すヒトコトヌシだと名乗る

・天皇は神を敬う態度を見せる

と書かれています。

 

続日本紀は少し話が変わります。

・ 雄略天皇が葛城で狩りをしていたとき、天皇と獲物を競い合った

・それゆえに天皇の怒りを買い、土佐へ流された
・ヒトコトヌシは高鴨の神(アジスキタカヒコネ)である

・淳仁天皇8年に、僧侶の円興と、その弟の賀茂朝臣田守が、この神を都へ呼び戻すよう、朝廷に願い出た


つまり、神社の由緒は、続日本紀に拠っているのでしょうね。

理由は日本書紀と食い違っていますが、ヒトコトヌシが土佐に流されていたのは、間違いなさそうです。

淳仁天皇8年は西暦759年、日本書紀の成立は720年とされます。

このたった39年の間に、ヒトコトヌシの処遇には大きな差が見られます。

日本書紀では「天皇が大切に遇した」とあるのに、続日本紀では「土佐に流された」としている。

いったい何が起きたのでしょう?

もっと気になるのが、アジスキタカヒコネと同一神とされていることです。

アジスキタカヒコネは賀茂氏の祖神。

つまり、円興や田守にとっては祖神にあたります。

その神が、ヒトコトヌシであるとは……。

 

というのも、さらに後の仏教説話である日本霊異記にはまったく違う話が出てくるからです。

・ヒトコトヌシは醜い神である

・役行者がヒトコトヌシを使役していた

・葛城山と金剛山に橋を架けさせようとしたが、ヒトコトヌシはサボった

・役行者は怒り、ヒトコトヌシを封じ込めた

 

日本霊異記の成立は平安時代中期といいますから、1000年前後でしょうか。

だからその記述に「現場感」はないのですが、ヒトコトヌシは賀茂氏に使役される神と、当時の人は考えていたと言えるんじゃないでしょうか。

 

役行者は7世紀を生きた人物で、ヒトコトヌシを呼び戻そうとした円興や田守と同じ賀茂氏です。

続日本紀によれば、文武天皇3年に、伊豆へ流されたと記録されています。

文武天皇3年は699年だから、日本書紀の成立より20年以上前。

 

賀茂氏にとってヒトコトヌシは、祖神なのでしょうか、使役する神なのでしょうか、それともまったく無関係な神なのでしょうか?

 

日本書紀も続日本紀も正史とされますが、その正確性には大きく違いがあります。

というか、神代についてまで書かれている日本書紀は、史実というより、当時の朝廷が「こうであったらみんなの面目がたつ」と考えた内容だという方が正解に近いと思う。

 

続日本紀も後から思い出して書かれたものではありますが、淳仁天皇の時代、つまり8世紀初期に文武天皇の時代……つまりは同じく8世紀初期のことについて書かれているわけで、あまりにも史実から遠いことは書かれていないだろうと考えられます。

 

ということは、ヒトコトヌシについては、大雑把に、

・699年、のちにヒトコトヌシと関連づけられる役行者が伊豆へ島流しになる

・720年以前の朝廷は、ヒトコトヌシは天皇が敬意をもって対するべき神であったと考えていた

・759年時点で、ヒトコトヌシは土佐に流されていた

・759年時点で、ヒトコトヌシは賀茂氏の祖神であるアジスキタカヒコネと同一視されていた

・平安時代中期において、ヒトコトヌシは賀茂氏の行者に使役される使い魔に成り下がっていた

 

という流れがつかめます。

 

さらに、鎌倉時代に成立した日本書紀の注釈書である『釈日本紀』には、土佐国風土記に書かれているとして、

・郡役所から西側に土佐の高賀茂の大社がある

・祭神はヒトコトヌシ

・祭神の祖ははっきりしないが、一説ではオオナムチの子のアジスキタカヒコネである

とあるのですよ。

 

土佐の高賀茂の大社とは、現在の土佐国一之宮、土佐神社のこと。

しかし、神社の由緒書には、「境内東北方の礫石と呼ばれる自然石を磐座として祭祀したものと考えられ、古代に遡ると言われています」とあります。

決して、「葛城のヒトコトヌシあるいはアジスキタカヒコネが当地に流され」ではありません。

 

関西に住む人間として、ヒトコトヌシとアジスキタカヒコネが同一神というのは、まったくピンときません。

確かに、ヒトコトヌシを祭る一言主神社も、アジスキタカヒコネを祭る高鴨神社も、同じ葛城に鎮座します。

 

だけど、ヒトコトヌシを祭る一言主神社には土蜘蛛があり、葛城土着の神であろうと思われます。

高鴨神社は、一言主神社よりは新しい層だと思うんだけどなぁ……。

 

賀茂氏が葛城を支配するために、ヒトコトヌシとアジスキタカヒコネを混同させようとしたというのが、一番しっくりきます。

 

つまり、759年の時点で、賀茂氏が葛城に本拠を置こうとする。

そのために、賀茂氏の円興や田守は、葛城の地主神であるヒトコトヌシと、自分たちの祖神であるアジスキタカヒコネが同一神であると印象づけるような願いを朝廷に申し出た。

つまり、「土佐に流されているヒトコトヌシは私達の祖神であるアジスキタカヒコネと同一神であるからして、都に戻したい」と申し出たのではないか。


とすると、ヒトコトヌシが土佐に流されたという話は、二人の捏造。

土佐に賀茂氏の神社があるから、流されたってことにしとこうというんじゃないのかなぁ……。

 

さて、どう思います?

 

私はですね……。

 

長い時間の中で、いろんな人がいろんな事情で、いろんなデタラメを言って現在がある。

だから、過去の書物は眉につばつけて読んどけ!!!

 

……って感じですかね(笑)

 

むかしは、こういったデタラメを元に、歴史を想像しようとしてたんですよ。

怖いわ~……。

 

ほんっと、今考えると、冷や汗出るくらい恥ずかしいっす(^^ゞ

 

神話は神話。

日本人の精神性を想像するには役に立つけど、歴史と混同するべからず!!!!!!!

 

 

 


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